好きならば何だって許してしまうと、何時だったか友人にそんな風に言っていたけれども、しかし、今回ばかりはもう沢山だった。
例えば漸く重なった休日に待ち合わせ時刻から3時間後に寝坊したと電話を掛けてきたりだとか、その時に散々言い訳ばかりして中々謝罪の言葉が出てこなかったりだとか、私だってこう見えて激務を極める中で何とか時間を作ったのだと言えば逆ギレされたりだとか、要はそういう、どうにも理不尽で自己中心的な彼に振り回される事にすっかり疲れてしまったのだ。
私の方ももちろん彼も、付き合い始めた当初はそれはうきうきと、世界がまるで自分たちを中心に回っていて二人はさながら映画の主人公である美男美女のような気持ちだったけれども、今となってはどう考えても彼は草臥れた三流ビジネスマンだったし私は探偵などという人聞きのあまり良くない職業で時折生傷を作るような女だった。

「恋愛って難しい…」
「みょうじ、仕事をしろ」
「なまえは相手を甘やかし過ぎなんだよ。好きだからって何でも許してちゃあ、男は付け上がるに決まってる」
「だって、与謝野さん。最初は何だって気にならないのに、気がつけばどんどん甲斐性無しになっていくんだもの」
「みょうじ、仕事をしろ」
「駄目男生産機だねぇ」
「やだその称号!不名誉すぎる」
「みょうじ!仕事をせんかッ!」

額に青筋を立てた国木田と目を合わせる事なくダラダラと机に突っ伏しながら、頼まれていた報告書と月末の官僚の警備計画書と通り魔事件の概要と予測対策資料を押し付けると、「仕上がっているのならサッサと提出しろ」と言い残して自分の席へ帰っていく。それを見た与謝野さんが「仕事は出来るのにねぇ」とにやにや笑った。

「欠点がある方が人間らしいでしょ」

私の場合、救い用のないほどに男を見る目がないというか、男を駄目にしてしまう気質が最大の欠点だった。友人達は「それくらいの方がなまえは見ていて楽しいけれど、行き遅れないようにね。けれども結婚だけは慎重にね」と口を揃えて言う。仕事が忙しいながらにも楽しく、まだ結婚に焦る訳ではない私も、さすがに今までの経験上、自分はこのまま一生独身なのではと思うばかりだった。

「婚活…しようかな……」
「だからあれだけ私にしておけば良いと言ったのに」
「うわぁっ!」

気配を消してぬるりと背後から現れたのは太宰で、独り言ちた台詞を聞かれていたのかと思うと肩から力が抜ける。ご機嫌なのかフンフンと鼻歌を歌いながら、太宰は隣のデスクにどっかり腰を下ろして私の手を取った。

「私にしておきなよ、なまえ」

男にしては長い睫毛に縁取られた双眸で見つめられ、程よく節のある指でするりと熱っぽく手の甲を撫ぜられれば、大抵の女はこの見た目だけは美しい美丈夫に恋に落ちる事だろう。

「嫌だよ、太宰と結ばれようものならその日の内に命を絶たなくちゃならないでしょう」

しかし同僚である私はこの男がどうしようもない自殺嗜好で、専ら最近の目標がW美女との心中Wである事も知っている。出来ればまだ死にたくはないし、付き合うんなら普通に自分を好きになってくれる男がいい。

「私はなまえとの心中なら何時だって大歓迎なんだけどなあ」

私を口説くのに飽きたらしい太宰は、ひょいと軽い足取りで今度は国木田の方へと襲撃を仕掛けに行ったらしかった。彼が去った後を見れば、さっきまではなかった資料の山が一つ増えている。
「……やられた」やはり彼はただでは私を口説いてなどくれないらしい。



+++++



「いやぁ好い夜だねぇ」
「…なんで私が」

思わず口から溢れた言葉に隣に立っていた太宰はやはりご機嫌な様子でふふふと笑った。軍警から回ってきた異能力者と思しき人間による通り魔事件の犯人追及の為、気乗りしないと別件で東北へ飛んでしまった名探偵の代わりに次の場所と標的を予想した迄は良かった。後は流石に張り込みしかないという事で、白羽の矢が建てられたのが私と太宰だった。

「何故私なの」
「お前の考えた計画だろう」
「では何故太宰となのよ」
「生憎だが俺は警備計画の打ち合わせ、敦は乱歩さんの付き添い、谷崎は非番だ」
「賢治君は?」
「お前と賢治が夜に並んで歩いているのは怪しい」
「与謝野さんは…非番か」

国木田と延々そんなやり取りを繰り返してとうとう諦めた私は仕方なく太宰と二人、夕方からとっぷり日も暮れたこの時間まで張り込みを続けている。
「ねぇなまえ、あそこにある木、人がぶら下がったら芸術的なシルエットになると思わないかい?」少しでも目を離そうものならこの世からエスケープしそうな太宰と、それから通り魔の犯人と、両方に目を光らせなければならないなんて、過重労働にも程がある。

「太宰、あれは柿の木だから折れやすいよ。やめときなよ」

言いながら、両手でそれぞれ二の腕のあたりをさする。もう春はすぐそこだと思って油断していたら、夜はまだまだ冷え込むらしい。最近新調した、紺色の薄い春用外套では暖をとるのは難しいようだった。柔らかいインディゴは夜にはよく馴染むと思って着て来たけれど、よく考えれば太宰は何時も通りの砂色の外套だし、ましてや黙っていれば美丈夫のこの男は立っているだけでそこそこに目立つ。もう少し分厚い、キャメルの外套を着て来れば良かった。そう思いながら通りへ目をやるが、そうそう都合良く通り魔が現れるものでもない。今日はこのまま徹夜かもしれない。そう思って息を吐いた時、ふわりと自分の肩に重みを感じた。
振り返ると私へ自分の外套を掛けた太宰と目が合った。

「寒いでしょ?」

何の気なしに言って、薄く笑みを湛えた美しい顔を思わず見詰める。
自殺嗜好の、人格破綻者である筈の太宰の外套からは妙に好い匂いがして、顔の綺麗な人間は性別関係なく身体から不思議と好い香りを発生させるものなのだろうかと、どうでもいい事をぼんやり考えてしまった。
「なまえ?」ぽかんとしたままの私の顔を太宰が覗き込む。
慌てて後退りして、それから、此れは拙い、と思った。いくら恋人と別れたばかりとはいえ、太宰相手に、外套を借りてそこから好い匂いがしたからって、どきどきしてどうする。自分を叱責する私の事など露知らず、太宰はまだ少し身体を折り曲げて顔を覗き込んでくる。
私は何と応えるか迷った挙句、「――有難う」と随分ぶっきらぼうな言い方しかできなかったけれど、それでも太宰は何故だか満足気に微笑んだ。

「今夜は通り魔は現れないだろうねぇ」
「そうなったらこのまま徹夜よ」
「なまえとならそれも悪くないな」

にやり、何か含んだ様な笑い方をする太宰の横顔をちらりと見やってから、私は今度こそ黙り込んだ。口を開けば自殺の算段か口説き文句ばかりのこの男に、ホイホイ落ちてやる訳にはいかないのだ。

「何処かへ飲みに行ってしまおうか」

太宰がひょいと手を伸ばして、いつの間にか私の肩からずれ落ちそうだった砂色の外套を掛け直す。そうしてからおもむろに頬に触れられたので、ひんやりと冷たい太宰の手の平に驚いた私は、ぎょっとして後ろへ飛び退いたけれども、壁に背中を打ち付けただけで手から逃れるのは失敗に終わった。
太宰は私の反応の一部始終を眺めてから、じりりと一歩、此方へにじり寄ってくると、「今夜は現れないさ」などと嘯く。肩に掛けられた外套と、目の前に覆い被さる様に立つ太宰との両方から、さっきから鼻先をくすぐる好い男の香りを感じて、私はすっかり参ってしまった。

「寒いから、早く行こう」

言って、私の手をひんやりした長い指が絡め取る。月明かりにぼんやり輪郭を滲ませたその顔はどう見たって美しくて、ふわふわし始めた頭の隅で、明日国木田に大目玉を喰らおうがどうだっていいやと思わず笑った。





シークレット・インディゴ




20170401
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