真夜中に仕事を終えてからやってくる恋人は、まるで任務がそのまま続いているかのように息を潜めて部屋のドアを開ける。もしも私が眠っていた時に起こさないようにと気を使ってくれているらしいのだけれど、しかしその日、遅めのシャワーを浴び終えたところで部屋に滑り込んできた彼と鉢合わせた私は、猫も顔負けなくらいに飛び上がって驚きそのままひっくり返ってしまった。

「悪ぃ」

すぐに抱き起こされるとふわりと煙草の匂いがする。上等な外套が肩からずり落ちているので、恐らく想定外だったのだろう。
まさか自分の恋人に出くわして転倒するなんて、と思い恥ずかしい気持ちを我慢していると、目の前の彼が真一文字に結んだ口元をひくりと動かしたので「……笑わないでよ」と言うと、

「わっ、笑ってねぇよ」

と慌てるのが可愛かったので少し睨んだだけで許してあげる事にした。
デスクワーク専門の私はそうでもないが、長期任務を任されていた中也は久々の非番である。此処は労ってあげなければ。そう思ってぎゅうっと抱きつくと今度は煙草に混じって僅かに硝煙の匂いがした。血の匂いも少しだけ。怪我をしていない事を確認してからホッとして離れると、中也がもう一度私を抱き寄せた。

「疲れた?」
「いや、そうでもねぇ」
「ご飯は?」
「…いや、」

言いながら私の肩に顔を埋めたっきり動く気配がないので、そのままそうっと背中を撫でてやる。やや長めの溜息を吐いてから「シャワー浴びてくる」とのろのろ洗面所へ向かう背中からとうとう外套が滑り落ちた。どうやらかなりお疲れのようだ。放り出された可哀想な外套とぞんざいに置かれた帽子を拾い上げて、用意してあったワインは今夜はお預けにしておこう、と暴露ない内に出しておいたグラスを撤退させた。




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薄ぼんやりとした光が差し込んできてふと意識が浮上した。起き上がると肩から毛布が滑り落ちる。
隣を見ればまだ中也はぐっすり眠っている様子で、まだ陽の登らない夜明け前の、青白い光に照らされた横顔はなんだか出会った頃を彷彿とさせるくらいに幼かった。普段はすっかり皺が刻まれてしまっている眉間が、今はつるんと平らな所為かもしれない。あの頃はまだただの男の子だと思ってたんだけどなぁ。
起こさないように気をつけながら台所でお茶を飲んで戻ってくると、毛布に埋もれた身体が少しだけ身動ぎした。分厚いカーテンでも少しは光の侵入を許すので、やはり遮光の方がいいなと思いながらベッドに腰掛けると、毛布を頭まで引っ張り上げた中也がうう、だかぐう、だか分からない声を上げる。

「中也?」囁いたつもりが口から漏れたのは掠れた声だった。
意識がはっきりしていないらしい中也にはそれでもきちんと聞こえたらしく、またうぐ、と眠たそうな声だけが返ってきた。

「…ありがとね、疲れてるのに」

すっぽりとかぶった毛布の間からわずかにだけ見える頭をそうっと撫でると、にゅっと中から手が伸びてきて手首を掴まれる。ぎょっとして息を飲む私にはお構いなしに、ずるずると毛布から這い出てきた中也は、まるで夜中に怖い夢を見て母親に泣きつく子供みたいに、手繰り寄せた腕の先にいる私の腰に巻きつくようにして抱きついた。

「どうしたの」

こんな風にして甘えてくるのはいつも大抵お酒が入って酔っ払っている時くらいのものだったので、これはおそらく完全に寝ぼけているなあとそのまま頭を撫で続ける。

「……俺が、」

しばらくするともごもごと腰のところで声がした。寝たと思っていたのに、毛布を引き寄せてかけ直す私の顔を見上げた中也の顔は思いの外意識がはっきりしているのか真面目くさった顔をしていて、何だか緊張してしまう。

「俺が会いたかったんだよ。…つーか、」

一度言葉を切って、じっと見つめられて、落ち着かなくて身動ぎすると腕に擦れた中也の柔らかい髪がくすぐったい。

「どれだけ疲れてようが、遠かろうが、なまえに会うためならすっ飛んで帰ってくる」

無意識に背筋を伸ばした私の腰を、背中を、甘ったるい痺れが駆け抜けてほぐしていった。
柔らかい真綿に包まれたような、暖かい湯船に身を沈めた時のような。ぼんやりとして心地いい感覚にふにゃふにゃと力の抜けていく顔の筋肉が、きっと夜目がきく中也には簡単にばれてしまうだろうなと思って、変に力を入れた唇がたぶんへの字になっている。
中也はしばらく私の顔をじっと見つめていたけれど、ふと両手をついて自身の身体を持ち上げた。そうしてその動きをただ見守っている私の頬に軽く手を添えると、まるで初めての恋人がするような、触れるだけの、あまりに優しいキスをした。

「…やっぱ一緒に住むか」

目と鼻の先にある顔はひどく穏やかだ。
私が呆気にとられて、しかしようやくじわじわと喜びを噛み締めていると、中也は急に恥ずかしくなったのか、「寝るぞ」と言って毛布をかぶりなおしてしまった。

「…ね、ねぇ、今の、」

慌てて言った私にわざと顔を顰めて眠たそうな顔をする。そのくせにきちんと毛布を持ち上げて、私が入るスペースを作って待っていてくれるから、可笑しいやら愛おしいやらで、にやけ顏も隠さずにその腕の中に飛び込んだ。
明日起きた時に寝ぼけてただなんて照れ隠しは絶対に却下だ。そう思いながら足を絡めて「つめてぇ」とちょっと笑う大好きな恋人にもう一度キスをして、明け方の透明な空気を吸い込みながら私たちは抱き合って眠りについた。




イン・マイ・ロマンス



170929
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