其奴の異能力というのはえらく厄介なものだった。

「怪我ですか?国木田さん」

歌う様に言ったなまえは至極ご機嫌といった様子で腹立たしい事この上ない。
任務で誤って負傷してしまった、それも利き手をである。これでは書類整理など出来ないし自分の能力を使うこともままならない。かといって与謝野に頼む程の大怪我ではなく、この程度の傷の為に解体されるのは御免だった。苦渋の決断ではあるが目の前の、にこにこと笑う女に治療を依頼する他なかったのである。

「妾の治療が嫌だってんならなまえに頼みな」

ニタリと笑った与謝野は自分が治療できないことは残念そうであったけれど、国木田が嫌嫌になまえの治療を受けるのかと思うとそれもまた一興、等と嬉しそうだった。

「久々ですねぇ、国木田さんがわたしに治療を頼むなんて」

巻かれた包帯を解きながらなまえは鼻歌など歌いはじめる始末であった。国木田の眉間にさらに深く皺が寄る。任務で一瞬の隙を突かれたあの時の自分を思い切り叩いてやりたい。

「あらら、これまた、まんまとやられたものですねぇ。珍しいじゃあありませんか、利き手をなんて」

包帯の下から出てきたのは親指の付け根から肘下のあたりまで刻まれたそれだった。腕の方は大したことはないものの手首の周りなどは特にザックリと深くやられている。外気にさらされた傷口からはぬらりと血が光った。なまえが舌舐めずりしたのを視界の端へ捉えて国木田は頼むから勘弁してくれと思う。

「では、いただきます」

まるで食事の前の様に手を合わせたなまえがひくりと揺れた国木田の手を捉えると、酷くゆったりとした動きで、傷口に舌先を這わせた。
痛みに少しだけ身を捩るがなまえは御構い無しといった感じでにじんだ血液を舐めとっている。

「唾つけときゃあ治る」なんてよく言ったものだけれどもなまえの能力は正しくそれだった。体液が異様な回復力を相手に齎すと云うそれは血液、唾液、汗や涙に至るまで該当するらしいが彼女は専ら唾液での治療を好んだ。

「痛いですか?」
「……いや、」

理屈で言えば唾液を吐きかけて塗りたくってやれば相手の傷は治るというのに、なまえはいつもこうして傷口を舐める。とは言っても、探偵社の面々でいうと怪我をする様な任務に就くことがほぼない乱歩や異様な回復力を持つ敦、反異能力の持ち主である太宰は除いたとしても、谷崎や宮沢がなまえの治療を受けているところは見たことがなかったので、自分以外の人間に彼女がどういった治療の仕方をしているのかは知らなかった。
出来ればこんなやり方は自分だけにしておいてくれと国木田は思う。チラチラと口元から覗くやけに紅い舌やそれがぬるりと皮膚を這う感覚は、いかんせん未成年の彼らには少し刺激が強すぎる。

「っ、!」

ぼんやりと、なまえが自身の傷口を舐めるのを眺めていると不意にグイと舌を手首の傷の深いところへ捻じ込まれた。予想外のことに思わず小さく声が漏れる。そんな国木田を見上げてなまえは満足げに笑った。

「痛い?国木田さん」

彼女の目は明らかにサディストのそれである。何故この探偵社の女性たちは男連中に負けず劣らず変人ばかりなのか。「いや、」また先程と同じ答えを返すとなまえは面白くないといった風に息を吐いた。傷はもう手の甲から親指の付け根までのみになっていた。腕の痛みはもうない。
治療の方法は兎も角いつも其の効果には感心させられる。

「ねぇ国木田さん」
「何だ、早く終わらせろ」
「傷を治す代わりにお願いがあるんですけど」

言われて、国木田は何故それを治療も終わりかけのこんなタイミングで言うのだとなまえを睨んだ。嫌な予感がする。にこにこと笑うなまえを見て、彼女がこれから提案するであろう其のお願いとやらが自分にとって良いものではないという事だけは察しがついた。

「ご存知の通り、私の異能は唾液や血液なんかで傷を治す、というものなのですけれど。どうやらただ傷を治すというよりも回復力を大幅に増進させると言った方が正しい様です」
「それで?その事と貴様のお願いとやらに如何いう関係があるというのだ」
「…試してみたいんですよ」

なまえが国木田を見上げてニタリと笑った。
これは不味い。そう思うよりも先になまえの手は国木田の胸ぐらを掴んで引き寄せていた。唇が重なる。振り解こうにもなまえは華奢な身体から一体如何してそんな力が出るのかというくらいにがっちりと掴んだ手を離さず動かない。仮にも女であるなまえを投げ飛ばす訳にはいかず、身を引こうとすると怪我をした手の甲へ容赦なく爪が立てられた。思わず彼女の肩を掴む手に力がこもる。

なまえはそんな国木田を面白がるかの様にその紅い舌を口の中へ滑り込ませた。ぬるり、腕の上を這っていた時とは比べ物にならない程に、それは熱い。
開いた口から唾液が送り込まれてくる。口を離すのもままならず、それを飲み込んでしまった。さっきなまえに爪を立てられた傷口がじわりと熱くなった気がした。

「貴様、」

漸く、やっとの事でなまえの身体を押し自身から離れさせると、それでもなまえは、にこにこと先程と変わらない笑顔を浮かべていた。
口付けというのは本来、恋人とするものである。そしてその恋人となる相手の理想は国木田の手帖にしっかりと書き込まれていた。目の前のこの女にそれがほぼほぼ当て嵌まらないというのは国木田本人が一番よく理解していたが、それでもぬらりと唾液で光るその唇を舐める姿は妖艶で、油断するとその色気にあてられそうだった。

「ほら、見てくださいよ」

なまえに言われて視線を落とすと、直接舐められもしていない筈の手の傷は綺麗に無くなっていた。呆気にとられる国木田を見てなまえは満足げにくすくす笑う。

「此れで、わたしの能力は内からも効くということが分かりました」

歌う様に言う、なまえは酷くご機嫌だった。
それから自分を怒鳴り散らす国木田の言葉を散々受け流しはいはいと相槌を打ちながら、「こういうことは恋人とするものであろう!」と叫ぶその口へ人差し指を当ててやる。

「こんなのは口付けの範疇に入りませんよ、国木田さん」
「何を、」
「ご希望とあらば教えて差し上げます、もっと凄いやつ」
「…貴様、人を愚弄するのもいい加減にせんか!」

やかましく叫び続ける国木田を無視して、なまえは足取りも軽やかに医務室を後にした。






口付けは明後日




160905




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