03
「なまえちゃん、塵出ししたら今日は上がっていいよ」
女将さんに続いて鬼瓦を柔く緩ませた大将が「今日の賄いはおでんだゾォ、」と私に笑いかける。顔こそ怖いこの店主はたいそう人が好く、子供のいない夫婦はまるで娘が出来たみたいだと私を可愛がってくれた。初めこそその甘く優しい家族らしい空気に戸惑いはしたけれども、今ではすっかり慣れてしまって居心地が良い。
テンポ好くトントンと階段を降りて裏手の塵捨て場へ大きな袋を放ると、すぐ横の電柱の隣からぬっと黒い影が出てきたので、私は条件反射で身を翻した。
「なまえ!」
転がる様に表通りに出る私の背中を、幾度となく聞いた声が追い縋ってきた。
恐る恐る振り返る。
「待ってよ、頼むよ、なまえ」
最後に見た時よりも随分と痩せたしあちこち傷だらけでぼろぼろだった。大方、借金の返済が出来ずに取り立て屋に嬲られたんだろう。情けない声出さないでよ、このロクデナシ、 あんたなんか、あんたなんか。頭の中では幾らでも罵声が浮かぶというのに、一つも声に出せないまま、私は立ち尽くした。
「少しで良いんだよ、なぁ、」
此処に来て分かったことがある。
この男は多分私を愛してはいなかったし、私もこの男でないといけない事など何一つなかった。この男が私に無償に優しくしてくれたことなんて一度もなかった。だって優しさっていうのは、
「何してる」
そう、優しさっていうのは、私が初めてこの人にもらった様な、そういうものだ。
「織田作、」
「…知り合いか」
「………」
何其奴、と小さく呟く痩せっぽちの男と織田作を交互に見る。
ちらりと店を見上げて、きっと大将が私の好きな大根を山盛りにしてくれているであろうおでんの匂いを吸い込む。
「………ううん、知らない人」
「そうか」
絶望の色を讃える顔を最後にちらりと見てから、「織田作、一緒におでん食べようよ」とその手を引いた。織田作はほんの少し変な顔をしたけれど、黙って私の後に続いて店への階段を上がった。
「いたのか、恋人」
「違うよ、幼馴染みたいな」
「良かったのか」
「ん?うん」
鬼瓦印の優しい味のするおでんを食べながら、織田作が別段何ともない風に聞いてきたので私も同じ様な調子で答えた。
「同じ施設の出なんだけどね、まぁ、其処があんまり良いとこじゃなくってさ。しょっちゅう折檻されるわ、食べ物は不味いわ少ないわで最悪でね。そしたら彼奴が、連れ出してくれた」
一緒に逃げよう、そう言って手を差し伸べたあの頃の彼奴はさながら英雄で、私は迷わずその手を取った。そうして施設を脱走してから漸く気付いた事、私の英雄は恐ろしく甲斐性無しだった。何も出来ない奴に代わって掏摸や空巣や悪い事ばかり覚えてしまって、まぁそのお陰で織田作に逢えて今こうして美味しいおでんをはふはふやっている訳なのだけれど。
「私、捨てられてた日を誕生日にしていたんだけど、」
織田作が大将に無理やり押し付けられた酒をちびりと舐める。
「初めて織田作に会った日が誕生日だったら素敵だなあ」
言うと、ぐい呑を置いた織田作は私をじいと見てから少し唇の端を持ち上げた。
「今日からそうすれば好いだろ」
思わぬ答えに私は何だか呆気にとられてしまって、織田作がひょいと私の皿からはんぺんを攫っていくのをぼんやり見送る。「うん」自然と緩む頬が自分でも可笑しかった。自分の意思に関係なく、表情が勝手に緩むのは久しぶりの様な気がした。
「…うん、そうする」
今度は私の箸が織田作の皿から大根を攫った。
161029