サーカスは
幕をおろさない



殺気を感じた。

目を開くより先にベッドから跳ね起き体勢を整えるが、視覚は身体の反射ほど素早く機能してくれないようだ。
闇の中で床を踏み抜きそうな靴音が響く。音源は体躯の良い男だろう。

(どこかでヘマしたかなぁ……)

盛りは過ぎたといっても人間の女を装った一人暮らしだ。
就寝前の戸締りを欠かしたことは無いし、狙われる理由は到底ない。
朝日が眩しいからって遮光カーテンにするんじゃなかった。
極上の殺気を浴びると逆に呑気になるものだ。
そんな事をナマエが考えているとふわりと夜風にカーテンがはためき月明かりが差し込んだ。
その光によって晒された男の顔面には真一文字に傷が走っていた。
そんなに月日は経っていないはずなのに何となく懐かしいと感じてしまう。

「普通に訪問して下さいよ、クロコダイルさん」

急に膝が震えだしその場に座り込んだナマエに鉤爪を向けながら嘲笑し、見下す姿はまさに悪党だった。


***


「マリンフォードでは盛大に暴れ回ったみたいですね、元気そうで何よりです」

一人掛けのソファに前のめりに座るクロコダイルに紅茶を差し出す。
ワンルームの広いとは言えない部屋でナマエにとって丁度良い大きさの一人掛けソファにちんまりと収まっている姿が面白くてしょうがない。
ベッドは先程の夜襲にて無残にも穴が空いてしまい座ることも出来ないのだから自業自得だ。

「あ、ココ禁煙です!灰皿なんてないんですから葉巻はダメですよ」

イライラとした様子でコートの内側をあさりはじめたクロコダイルが葉巻を取り出すより早く制止の声を掛けた。

「てめェの男は煙草も吸わねぇのか」
「私の男?何ですそれ」
「暫く見ねェうちに誰にでも尻尾振る犬になりやがって」

僅かに殺気を含んだ凶悪な視線が向けられる。
顎下に突きつけられた鉤爪の冷たさに鳥肌が立った。
恐らくクロコダイルはこの部屋の一階でカフェを経営する男の事を言っているのだろう。

「知らない島で経歴を隠して女が一人で生活するのは中々大変なんですよ?しょうがないじゃないですか」

いつから見ていたのか知らないがクロコダイルが思っているような関係では無いことは確かだ。健全な雇い主と労働者である。
苛立ちを真正面からぶつけてくる姿が珍しいので明確な否定はしないでいると鉤爪を持つ腕が降ろされ、クロコダイルは立ち上がって窓に向かって歩き出した。

「ならこのちんけな島でもやしみたいな男と一生暮らすことだ。おれは今から新世界へ入る」
「えっ!?クロコダイルさんが?新世界に?」

自分の耳を疑った。
何か新しい事を企んでいるのだろうとは思っていたが、まさか新世界へ向かうとは。
ナマエは慌ててクロコダイルのコートを引っ張り視線を自分へ向けさせた。

「海に出るのなら私が必要ですよね?私がいればいつ海に落ちても大丈夫ですし!」
「落ちねぇよ」
「じゃあ美味しい紅茶入れてあげます。この島で覚えたんですよ!」
「あのもやし男に教えてもらったわけか」

完全にやぶへびだった。
クロコダイルはこんな露骨に感情を向けてくる男だっただろうか。
以前のように軽口をいなしてもらえないとこちらがどんどん饒舌になってしまう。

「あの人はただの雇い主ですってば。善意は受けても好意は受け入れてません!さっき言ったようにふらりと島に来た女の一人暮らしは何かと大変だったんです」

コートを握りしめたままナマエが必死に弁明しているとククッと低い笑い声が落ちてくる。
クロコダイルの顔を見上げるとなんとも楽しそうだ。笑顔というには些か凶悪過ぎるその笑い顔は久しぶりに見る表情だった。

「三十分待ってやる。支度してこい」

再びソファに腰を下ろし長い脚をテーブルにどっかりと乗せたクロコダイルからは先程の苛立ちは感じられない。

「インペルダウンから出てずいぶんと丸くなったもんですね、三十分も待ってくれるなんて」

考えるより先に口から出てしまった言葉はしっかりと耳に届いていたらしく、何やら穏やかじゃない言葉が聞こえるがこの際無視してクローゼットからボストンバックを引っ張り出した。

「クロコダイルさん、行きましょう。」

すでに家を出る準備をしていたことにクロコダイルは驚いていた。
いくつかのやり取りの間にこんな様々な表情を見せてくれるなんて本当にこの人は変わったんだと感じる。
インペルダウンではあのゴムの少年とまた一緒だったようだし何かしらあったのだろう。
他人に、まして自分の子供でもおかしくない年頃の少年に何度も人生を狂わされるとは。
元王下七武海でバロックワークスの社長であった人が何とも滑稽だ。
そんなクロコダイルにさらに人生を狂わされているナマエはもっと滑稽なのだが今更だ。
一度捨てられたのにこうやって迎えに来てくれた、それだけで充分なのだ。

「そーいやてめェには振る尻尾なんかハナからなかったな」

クロコダイルの言葉にナマエはにっこりと笑いかけた。