愛を積もらせる



「やはり楽進殿は素晴らしかったです!文官出身ということもあって全て語らずともこちらの意を汲み取って下さいました」
「それは素晴らしい」
「それに楽進殿の軍は皆迅速で勇敢でしたよ。流石一番槍を称するだけの事はあります。楽進殿の教えが行き届いているんですね」
「そのようだね」
「……郭嘉殿、ちゃんと聞いてます?」
「勿論聞いているよ。演習の報告なのか楽進殿の話なのか分からなくなってきたけどね」

 来訪の予定も急ぎの執務もないので自宅の書庫へ篭り思考の海に沈んでいた郭嘉の元へ突然嵐はやって来た。曹操へ報告を済ませた後、城にある郭嘉の執務室を訪れたが不在だった為こちらへ来たらしい。春蓉は鎧姿のままだったので急ぎの用件かと思い、話を聞き始めた郭嘉だったがそれが間違いだった。

「演習の報告に決まってます。敵方は賈ク殿と夏侯惇殿だったのですが、辛うじて勝利を収めましたよ。それも楽進殿の迅速且つ確実な任務遂行力のお陰ですけどね」
「それはそれは……さぞ素晴らしかったのだろうね」
「それはもう! 夏侯惇殿から賞賛の言葉を頂いても驕ること無く謙虚な姿勢で……噂以上の方でした」

 話を変えようと試みるも結局行き着くのは楽進の事で、それも何度も同じことを聞かされ流石の郭嘉も辟易していた。女性の話はどんなにつまらなくとも聞いてあげるのが務めだとしても、嬉々として他の男の話をされるのは面白くない。

「春蓉殿が恋したのがまさか楽進殿とはね。こうも多弁になるとは恋とはやはり面白いものだ」
「恋……? 楽進殿に? ご冗談を。恋って徐々に気持ちが高まって始まるものなんですよね? 私、楽進殿にお会いしたのは今回が初めてです」

 有り得ないとばかりに笑っている春蓉に郭嘉は苦笑いするしかなかった。郭嘉とて恋とは何かと問われると難しいが、少なくとも思ってもいないところから急に気持ちが高まる恋もあることを知っている。

「恋の始まりなんて幾千ではないのかな? 少なくとも貴方はここに来て楽進殿の話しかしていないよ」

 郭嘉は男が半数以上を占める魏の軍部で女ながら頭角を現し、次々と曹操に献策する春蓉の才覚を認めていた。
 故に他の女性にするような振る舞いは慎んで、良き同僚として接し懐かれるように友好を深めていた。享楽を共にする女性達より多くの時間を過ごしていたが、あくまで公務の延長にしか過ぎない付き合いだ。

「好きになるのはこんなにも一瞬で簡単なことなんですね」

 涼しい顔をしてえげつない策を口にする魏の軍師とは思えない、どこにでもいる娘の顔をした春蓉がそこにいた。そんな娘が恐らく初めてなのであろう恋を自覚した姿は、とてもいじらしくて愛らしく思えて自然と郭嘉の口角が上がる。
 それと同時に熟れた桃のように染まったその頬に無性に噛み付きたくなった。

「それにしても春蓉殿が略奪愛とは……難儀な初恋だね」
「えっ……?」
「奥方がいらっしゃるのを知らない? 楽進殿は愛妻家だと噂になるほどだから茨の道だね」

 大きく目を見開き、口もぽかんと開いている春蓉の間抜けな姿さえ今の郭嘉には可愛らしく写る。
 知らなかったと微かに呟いた春蓉は腕を投げ出し卓に突っ伏していた。

「こんな話をしたのが郭嘉殿だけで良かったです。危うく楽進殿にご迷惑をおかけするところでした……教えて下さってありがとうございます」
「あらぬ噂が立って楽進殿が困るのも面白かったのだけどね」

 とんでもないとばかりに首を大きく横に振る春蓉の頬には上気した痕跡は残されていなかった。

「好きだと気付いたのにすぐに諦めなければならないのは辛いものですね……郭嘉殿、こんな時はどうすべきなのでしょうか? 嫌いになれば諦められますかね?」
「春蓉殿は意外と極端な思考を持っているんだね。そうだな……新しい恋でもしたらいいんじゃないのかな。きっと嫌いにならずとも自然に忘れられるよ」

 突っ伏して投げ出されたままの春蓉の手を握り指先を絡める。そのまま唇を寄せようとした所で強引に振りほどかれてしまった。
春蓉の顔はこれでもかという程に眉間に皺が寄っていた。

「ご指摘通り先程のが初恋だったんです。そんな私に郭嘉殿の相手は到底務まりませんよ。遊び相手はきちんと見極めていると思っていたのに残念です」

 冷たい響きのする声だった。今までの和やかな雰囲気が一瞬で凍りついたかのようだが郭嘉は特に気に留めることも無く、扉に向かって歩き始めた春蓉の前に立ちふさがった。

「遊び相手だなんてとんでもない。私は本気だよ」
「傷心の身ならばすぐ落ちるとお思いですか? 生憎そこまで単純ではありませんよ」
「私の想いを知ってほしかっただけだよ。どうしたら伝わるのかな?」

 歩みを止めた春蓉はそこをどけと言わんばかりに睨みつけている。
 しかし郭嘉は変わらず気に留めることなく、口元に笑みを浮かべたまま春蓉に向かって一歩近付いて距離を詰めた。

「色恋において郭嘉殿の言葉は信用出来ません。皆に言っているのでしょ?」
「これまで綺麗な女性に愛を囁いてきたのは確かだけれど、応えて欲しいと乞うのは春蓉殿が初めてだよ」

 郭嘉が寄った分だけ距離を保とうと春蓉は後退する。
 後ろに下がりながらも顔は睨みつけたままという負けん気の強さは流石だと言わざるを得ない。

「やっぱり言ってるんですね……。というか、今までそんな素振りなかったじゃないですか。急にそんな事言うなんて疑うなという方が無理がある」

 郭嘉が一歩近付くと春蓉は一歩下がる。それを繰り返していると春蓉は卓にぶつかって体勢を崩した。
 卓に後ろ手を付いて体重を預けることで転倒は免れたが、好機とばかりに距離を詰めた郭嘉も卓に手を付いて両腕の間に春蓉を閉じ込めた。

「好きになったんだ。一瞬で、こんなにも簡単に。春蓉殿ならこの気持ち分かるよね?」

 先程の春蓉の台詞に準える郭嘉の口元からはいつの間にか笑みは消え去っていた。

「……仮にそうだとしても今言うのは悪手極まりない!」

 時が止まったようにお互い視線は逸らさぬままだったが、片手で郭嘉を押しやった隙に包囲を抜け出した春蓉はそのまま走って部屋を出ていった。
 郭嘉には今の言動が悪手とは思えなかった。きっと今頃春蓉は楽進のことなど考える余裕もなく、郭嘉で頭を一杯にしているだろう。むしろ最善の一手だ。
 自分に残された時間を春蓉と歩むべく郭嘉は静かにこれからを画策し始めた。