笑う距離

 学内の喫煙所に二人連れ添って入っていく姿に胸ぐらを掴まれて大きく揺さぶられた気がする。
 私の知らないその表情は隣にいるその子が引き出したの?
 次の飲みには諏訪も来ると分かって浮かれてた気分が一瞬で萎んだ。
 大学でもボーダーでも一緒で。二人きりじゃないけど一緒に出掛けたり、たまには互いに相談事を持ちかけたり。私は他の子とはちょっと違う存在だと思っていた。
 次に二人きりになったら付き合ってと言おう。今度イイ雰囲気になったら好きだと言おう。
 そうやってもたもたしている間にとうに手遅れになった愚かでどうしようもない恋。
 ぶつけられなかった想いは泣いて涙と一緒に昇華できればいいのに。
 どんなに頑張っても隠しきれなかった目の腫れを諏訪本人に指摘されれば、泣ける本をつい一気に読んじゃって、と嘘をつく。
 そんな口からでまかせが出たのは諏訪がミステリ本を好むなんて情報が脳に刻み込まれてるせいで、少しでも共通の話題を持ちたい、なんて思っていたからだ。染み付いた思考は急に変えられない。

 お前がそこまでなるなんてすげー本だな、今度貸せよ。なんて言われてしまえば、今日の予定に、号泣できる本を探しに行く。ということが追加されてしまった。
 嘘の上に嘘を塗り固めるなんて滑稽すぎる。滑稽ついでに私のこの恋心も自分に嘘をついて、もう出てこないように厚く厚く塗り固める。そんな努力もひとたび諏訪を見かければ、ポロリと簡単に剥がれ、恋心はすぐに顔を出してくる。
 平常時ならともかく、アルコールが入れば剥がれるどころじゃない。分厚く塗り固めたはずの壁は吹っ飛んで、強情な恋心だけが残っては簡単にその熱に浮かされる。

 成人組恒例の集まれる人だけ集まるゆるーい飲み会。お手洗いから戻ってみればさっきまでいたはずの諏訪の姿がない。机に置いてあった煙草も一緒になくなっているから一服しに行ったんだろう。
 分煙が叫ばれる昨今、居酒屋とて例外ではなくテーブルで酒を飲みながら一本、なんて権利は剥奪されている。
 外に出れば案の定、紫煙をくゆらせる諏訪がいた。深く長く吐き出すその姿は惚れたひいき目抜きにかっこいい。

「ね、それ私にもちょうだい」
「はぁ?お前吸わねーだろ」
「好きな人の好きな物がどんなのか知っておきたいじゃん?」

 出入口を向いていた諏訪に声を掛ける。今まで口に出せなかった好意の欠片は腹をくくれば、いとも簡単に音に乗ってしまう。
 長いこと溜め込んでいた想いを発散出来て満足感すらある私とは違い、諏訪は手に持っていた煙草を落としてしまうほど驚いていた。
 友人と思っていたヤツに好意を匂わせられた程度でここまで驚くような人物だったのかと新たな発見をした気分だ。
 落ちた煙草を足で揉み消してから捨てて、酔っ払ってんのか?ってそりゃそう言いたくなるよね。酔っ払ってれば、つまんないギャグだって言って終わらせられるから。
 ズルい私は何も答えない。無視を決め込んで諏訪に手のひらを向ければ、パッケージを指先でトントンと叩いて飛び出てきた煙草とライターを差し出された。
 見よう見まねで煙草に火をつけるが何故だか火は付かない。

「マジで吸ったことねーんだな。火は吸いながらじゃねーと付かないぞ」

 見かねた諏訪が私の手の中のライターを奪っては火をつけ近付けて来た。
 言われた通り吸い込みながらその火に煙草を近付ければ、ジジっと先端が灰になる。思いっきり吸っていたので大量の煙が口内に流れ込み驚きのあまりすべて吐き出してしまう。

「にがい…」
「まぁそうだろうな、全然吸えてねーけど」

 そう言って新しく取り出した煙草を咥える。諏訪といえばコレと言ってもいいぐらいの見慣れた姿。誰もが知ってる屈託なくて憎めない笑い顔。私は特別なんかにはなれなくて、誰もが知ってる諏訪しか知らない。

「大きく吸ってそのまま深呼吸するみたいに肺に入れちまうんだけど」

 指に挟んだ煙草をもう一度唇で挟んで喉の奥から吸い込んでみる。一気に口内に満ちた気体は吸ったそのままの勢いで圧倒的な存在感で肺に到達するも、私の身体は異物の侵入に過剰反応して、瞬間気体は逆流していった。
 目の端から涙が滲むほど盛大にむせる。口に、喉にと残る独特な苦味に顔が歪んでしまう。そしてこれは決して美味しくない。諏訪はあんなにも美味しそうにしているのに。

「話は最後まで聞けって。最初はふかした方がいいぞーって今さらだけどな」

 大丈夫か?と、背中を叩いてくるその手は狡いぐらいに優しい。目の前でこんな醜態晒しておいてなんだけど、優しくなんかしないでほしい。諦めきれなくなるから。

「なー、さっきのマジなん?」
「なんのこと?」
「好きな人が、ってやつ」
「ホントだったらなんなの?」

 咳も治まり丸めていた背中を真っ直ぐ伸ばすと思っていたより近くに諏訪はいた。
 真っ直ぐに目が合う。射抜くような視線からは逃れられない。

「あー……付き合う?」

 諏訪が来る者拒まずなんて信じられない。そんなやつじゃないなんて私の勝手な思い込みだった。

「最低、二股なんて。彼女もっと大切にしなよ」
「は?」
「最低」

 最初に好意を仄めかした私がそんな事言える立場じゃないけれど。なんだか蔑ろにされたようで、悔しくて、自分のことは棚に上げて文句しか出ない。下から睨みつける私を諏訪は目を細めて見ていた。

「待て待て。何の話だ、誰と勘違いしてんだよ」
「こんな目立つ男間違えるわけないでしょ」
「いーや、俺じゃない。彼女なんかいねぇし」
「仲良く二人歩いてるの見たし。煙草一緒に吸う理解力のある彼女」
「そりゃゼミ一緒なだけの喫煙仲間だ、あいつ男いるし。で、それだけかよ」

 鼻で笑った諏訪の目にあるのは怒りで。そのまま黙りこくってこちらをじっと見ている。

「笑ってたから」
「そりゃ俺だって笑うことぐらいするわ」
「知らない顔して笑ってた、すっごく幸せそうに」

 こんな事本人に言うべきではないのに。分かってるのに口からぽろりと零れてしまった。急速に熱が引いた頭を下げて、ごめん、戻るねと呟く。もらった煙草はとうに燃え尽きていてフィルターだけが指に残っている。

「そりゃマジでお前の勘違いだ」
「そっか……変なこと言ってごめん」
「信じてないな……いいか、二度と言わねぇからな」

 刈り上げられた後髪をガリガリとかきながら諏訪が真面目な顔してこちらを見る。

「多分、俺はお前といる時そんな顔してんだと思う。お前が言う、その……幸せそうな顔ってやつ」

 そのまま声にならない声と共に諏訪はその場に沈む。ふわりと諏訪の匂いが舞った。煙草と体臭とが混ざって本来好ましい匂いではないはずなのに、好きになってしまった匂い。

「なー、さっきの返事は?」
「は?」
「付き合うか、ってやつ」

 座り込んで頭を抱え込んだ諏訪が遠慮がちに尋ねる。いつも自信満々で強気な諏訪の聞いたことない細い声色。これを引き出したのは自分なのだと思えば、えもいわれぬ感情に包まれた。
 と、同時に胸がムカムカしてきた。心情的なものじゃなくて胃の底からせり上げてくる何か。

「吐きそう……」

 そう答えるので精一杯だった。ぎょっとした諏訪にそのままトイレに放り投げられる。ようやくトイレから離れられた時にはやつれた気さえする。
 諏訪はと言えば、私がトイレにこもっている間「そんなキツイものをいきなり吸わせるお前も悪い」とみんなに責められたらしい。
 そして私のせいでうやむやになって出来ていないはずの返事は、いつの間にか肯定したことになっていて、私はちゃっかりと諏訪の隣を自分の場所にしてしまっている。
 直接的な好意は互いに言葉にしてくれないけれど、それでもいつか見た顔で笑いかけてくれるから、私は不本意ながら満たされてしまっている。