グッデイ、グッナイ


 脳みその端っこのほうでインターフォンの音を捕まえた。起き上がるのは億劫だったけれど何とかベッドから降りて、もたもたと玄関に向かっていると二度目が鳴った。
 あるかないか分からない三度目が鳴る前に、不用意に扉を開けてしまったのは、頭の回転が鈍いせい。普段は決してこんなことはしない、と胸を張って言えるのだけど……私の主張は頭一個分上から注がれる強い眼差しの前では何の意味も持ちそうにない。

「何の確認もせずに開けるとはどーゆう了見だ?」
「つい、ね。つい開けちゃった」
「あ?不用心にも程があるだろうが!」
「ごめんなさい!!」

 反射で頭を下げると、急な重心の変動に体がついて行かずに世界がぐらつく。バランスを取るために伸ばした腕は壁に届く前に何かに掴まれた。
 手だ。弓場の大きな手のひらは私を簡単に捕まえて支えとなってくれている。
 掴まれた部分の私の熱は弓場の手のひらに吸い込まれていくみたいで、熱を奪われていく感覚がとても気持ちいい。

「あついな……」
「熱出しちゃったみたい」
「何度だ?」

 熱があると視覚でも認識してしまえば途端に体が怠くなると分かっているのであえて測っていない。そう伝えると、呆れたように深い溜め息が落ちてきた。

「薬は飲んだんだろうなァ?」
「まだ飲んでない。とりあえず寝てた」

 そこではたと自分がどんな状態なのか思い至った。
 ふらふらと帰ってきて、楽な格好になりたいと着替えたのは部屋着。気休め程度におでこに貼り付けた冷却シートは前髪で隠れて見えていないはず。まさか弓場が訪ねてくるとは思っていなかったが、めんどくさがってメイクもそのままにベッドへ潜り込んだのは結果的に正解だった。崩れてる可能性が高いけど、すっぴんよりかは百倍マシだ。あと、部屋着もスウェットとかじゃなくてちゃんと可愛いと定評のあるブランドのものを着てて良かった。
 そんな私の健気な乙女心も知らず弓場はまるで母親のように次々と問いかけてくる。

「メシは?」

 自炊派なので材料はあるが作る気力は皆無。レトルトもあるにはあるが、今の胃腸が受け入れてくれそうなものはない。あぁ、でも何か胃に入れてからじゃないと薬飲んでも胃がやられる。何より昼前に体調不良で帰ってきては、すぐに寝てしまったから少しだけお腹が空いてる気がする。

「あー……後で何か買ってくる」
「熱持ってて、さらにはふらついてんのにかぁ?」

 行間を読んだ弓場が怪訝そうに尋ねる。掴まれたままの腕の熱はとっくに混ざりあって、それどころか弓場の手のひらまで侵食し始めている。さらには熱のせいか関節が軋むように痛み出した。
 黙りこくった私をよそに弓場は上がるぞと返事も待たず靴を脱ぎ始める。きちっと靴を揃えて立ち上がった弓場は私が動き始めるのを待っている。
 部屋は綺麗ではないけど最低限片付いてるはず。招き入れても問題はない……あ、さっき脱いだ服片付けたっけ?ベッドに放り投げたまま?とかとか色々考えてしまって、回転の鈍い頭を沢山働かせたものだから脳みそは簡単にオーバーヒートした。

「病人を立たせたままにして悪ぃな、歩けるか?」

 支えてくれていた大きな手のひらはすでに離れている。ここで無理だと言ったら弓場はあの大きくて、ひんやりと冷たく気持ちのいい手で私にまた触れてくれるのかな、なんて不埒な考えが脳裏をよぎる。
 でもそんな心の弱さを弓場に見せてしまうなんて絶対に嫌で、最大限虚勢を張って大丈夫、と笑ってみせる。そんな私が再びベッドに潜り込むのを見届けてから、弓場はおもむろにキッチンに向かって行った。

「粥ぐらいなら喰えるか?」
「えっ、と……雑炊、たべたい」

 さして広くはない1DKの部屋。開かれたままの仕切り扉から見える弓場の後ろ姿をぼんやりと眺めていたので、つい正直に答えてしまった。台所借りるぞ、と言いつつもすでに冷蔵庫は開けている。
 病人を放置するような人じゃないことは分かっていたから、コンビニかどこかで食べ物と飲み物買ってきて差し入れてくれるかな、なんて実は期待してた。なのに、まさか作ってくれるなんて想定外もいいところ。
 私の部屋のキッチンで、弓場が私のために料理をしてる。こんなさめない夢をずっと見ていたい。うまく息ができなくなるぐらいの幸せを、ずっと見つめていたい。そう願っていたのにあっという間に雑炊は完成しちゃって、すごく美味しかったのにびっくりするぐらい食べることが出来なかった。

「ごめん、せっかく作ってくれたのに……」
「病人が余計な気遣いするんじゃねェーよ。ちったぁ食えたんだから良かったじゃねェか」

 そう言いながら今度は薬と水の入ったコップを差し出してくれた。弓場がこんなに世話焼きなんて知らなかった。風邪をひいて良かったとさえ思ってしまう甲斐甲斐しさだ。

「そういえば用事ってなに?何かあったから部屋まで来てくれたんだよね?」
「あぁ……今日はいい、急ぎってほどのことじゃねぇ。とりあえずさっさと寝て早く治してしまえ」

 よく分からないが考えるのもしんどいし、寝ろと言われたので素直にベッドに横になって目を閉じてみた。
 僅かに感じる人の気配が、熱でやわになってしまった心をさらに弛ませる。空に投げ出されてふわふわと漂うみたいな心地になって体の力も弛んでくる。

「おい!やっぱり寝るな、鍵閉めてから寝ろ」
「無理……」
「それじゃ帰れねぇじゃねーか」
「もうちょっと傍にいて……寝るまで。鍵、玄関にあるから。合鍵あるし大丈夫」

 薄らと開けた目でぼんやりと見えた弓場はたいそう困った顔をしてて、あれはきっと眉間に盛大に皺が寄ってるなと思った。あんな優しさを味わった後だから、今の私は病人だから、と言い訳を重ねて思い切って甘えてみたことに後悔はないが、わずかにあった理性と羞恥心がこれ以上弓場を見ていられないと瞼を落とす。
 沈黙が続く中、びりりと額の皮膚がゆっくりと引っ張られる。ほんの少しの痛みが冷却シートを貼ったままだということを思いださせた。
 程なくひんやりとした重みを額に与えられた私は、その蕩けるような心地良さに抗うことなんて出来ず、眠りの渦に引き込まれて行った。