まあるくおさまる


軽く握った拳を三度、リズム良く扉に打ち付け自分の名を告げる。
この行動が無駄なことだと分かっていてもナマエはやらずにはいられない。
組織に組み込まれている下位の者の性だ。
この支部でそんな細かいことを気にするのはナマエだけだ。
共にここへやってきた同僚も同様の行動をとるだろうがこんなことは間違いなく考えないだろう。
なんだか胸がモヤモヤとする。
何だか分からないそのモヤモヤが形になる前に頭を切り替えるべく、返答のない部屋に踏み入ると予想に反してこの部屋の主は在室しており執務机で新聞を読んでいた。

「いるんだったら返事して下さいよ、スモーカーさん」
「どっちにしろ入ってくるんなら返事しても意味ねェだろ」
「……それもそうですね」

やはり先程の行為は無駄なようだ。
考えを読まれているようで何だか嫌な心持ちになりつつも、職務達成のためにスモーカーのいる執務机に歩みを進めた。
目的の書類はあったが、それは今朝ナマエが置いたまま触れられた形跡が全く見受けられなかった。

「スモーカーさん、定時前に取りにくるのでサインお願いしますと言いましたよね?」

書類を手に取りペラペラとめくってみたが、どの紙にもサインは見当たらない。
なるべく声を低くして怒ってますよとアピールをしてみるのだが、新聞に落とされているスモーカーの視線を捉えることは出来ない。

「どうせクソみたいな内容だろ。お前適当にサインしといてくれ」
「文書偽造になりかねないのでお断りします。内容については否定はしませんが目を通して下さい」

窓から吹き込んでくる風によって煙草の煙が顔にかかるが、そんな事にはもう慣れたものだ。
ナマエが一方的な視線を無言で送り続けていると、観念したのか新聞を手放し机に転がっているペンを持って次々に書類にサインを書き始めた。

「目を通して下さいって言ったんですけどね」

ガリガリと自らの名を書き付けて行くスモーカーに向けた言葉は先程に比べて早口で抑揚もないものだった。
きっとたしぎならもっと上手く言うだろう、そんなことを思ってしまう。

「お前が見てるなら問題ねェだろ。なにかあったらたしぎに片付けるよう言っておけ」

スモーカーはそう言うなり書類を投げるように渡してきた。
これを送り返すように情報部に伝えれば今日の業務は終了となる。

「今日はえらくカリカリしてるな」

書類全てにサインがあることを確認していたが、思わず顔を上げてしまった。
スモーカーと目が合ってしまい瞬間視線をそらす。
これでは肯定しているようなものだ。
そんな事ないですよ、と最早手遅れだろうが動揺が顔に出ないよう取り繕って笑いかけてみるものの、さっきとは逆にスモーカーの視線が無言で送り続けられてくる。
こんな時、たしぎならどうするだろうか。
素直に理由を話すのだろうか。
指摘されてようやくカリカリとしていた事に気付いたが、その原因が何なのか分からないナマエには話せそうもない。
でもきっと彼女なら「すみません、理由が分からないんです」と、これまた素直に話すのだろう。
また胸がモヤモヤとしてきた。
どんどんとモヤモヤが形作られ胸を占めていくのがわかる。
これ以上いたたまれない気持ちに耐えられそうにもないので礼を言い、早々に退出しようとスモーカーに背を向け扉に手を掛けた時だった。

「何と比べてやがる。ナマエ、お前はお前だろう」

言霊とは良く言ったものだ。
いくら自分で思っていてもどうにもならなかったのに、その一言はストンと胸の最深部に落ちてきて、大きく形作られ侵食し始めていたものを霧散させてしまった。
他の誰でもなく、きっとスモーカーだからだろう。
この厳つくて粗暴な上司は殊更部下に目敏い。

「スモーカーさん、今日飲みに行きましょう。これ出したらすぐ迎えに来ますからね!」

扉を閉める時に見えたスモーカーは入ってきた時と同じように新聞を読んでいた。
こちらにはもう目もくれない。
返事がないと言うことは了承しているのだろう。
飲みに誘って断られたことは一度もないのだから。

ーーもう一度この扉をノックする前にメイクを直してこよう。

その時間を捻出すべく足早に情報部へ向かうナマエだった。