シャンデリア・ワルツ



 今まで世界というものを意識したことなんてなかった。テレビや雑誌で仕入れる世界各地の情報は確かに存在するんだろうけど、日本でさえとてつもなく広く感じる私にとってそれは最早絵空事にしか聞こえない。
 毎日仕事へ行って休みの日はバイクを走らせる。趣味もあるし遊ぶ友人もいる。特に不満もないけれど、このままでいいのかなと眠れなくなる夜がたまにある。気付いたら朝を迎えているから真剣に悩んでいるわけじゃないのだけれど。

 バイクが好きだ。その一心で進路を決めて仕事をしている。雇ってもらっている店はオーナーの趣味の延長みたいなもので割と大雑把。しかもオーナーの独断と偏見によるサービスは人によって内容が変わるから困ったもんだ。
 その困ったサービスの一つが年間定額点検。しかも出張サービス付き。もちろん派遣されるのは私だ。救いはこれが適用されているのが一人しかいないということだろう。
 今日もその人物に呼び出され家を訪れていた。オートロック操作盤で部屋番号を押してチャイムを鳴らすとあまり間を置かず低い声が聞こえた。

「バイク点検に来ました。鍵、お願いします」

 用件だけ伝えてさっさとバイクの方へ歩き出す。向こうには私の顔がカメラを通して見えているのだから充分だろう。機械越しに聞こえた返事にはいつもの覇気がなかった。どうやら仙石さんはお疲れらしい。
 仕事道具を広げているとコツコツと軽い足音が聞こえてきた。手を止めて立ち上がる。首を持ち上げないと目が合わないほど仙石さんはデカいのだから話すのも一苦労だ。

「お久しぶりです。今回は二ヶ月振りですかね?」
「おぅ。覚えちゃいねーけどそんなもんか? 相変わらずナマエは元気だな」
「お陰様で元気にやってますよー。仙石さんは何だかお疲れみたいですね」
「帰ったのが夜中だったんだよ。しかも時差ボケであんま寝れなくてなー」

 出張か旅行なのかと思ったが疑問をぶつける前に鍵を差し出されたので受け取ってエンジンをかける。すぐに快調なエンジン音が響いた。

「いい音だ。調子良さそうじゃねぇか」
「ですね、問題なさそう。一応一通り確認しとくんで小一時間ってとこかな。あ、でもサイドカーの方もあるからやっぱ一時間半ですね」

 大体の所要時間を告げるも返答がない。エンジン音にかき消されて聞こえなかったのかと思ってエンジンを切ってもう一度同じことを言うと仙石さんはその場に胡座をかいて座り込んだ。

「部屋戻ったら寝そうだから、ナマエが整備するとこ見とくわ」

 お客さんの目の前で弄る事はよくある。だけどこれまで何度か点検しに来ているが仙石さんの前で整備するのは初めての事だ。点検を進めていくとあれこれと仙石さんに質問された。丁寧にかつ簡潔に答えようとするがなかなか難しい。好きなものについて話す時はつい雄弁になってしまう。質疑応答を繰り返しているともう一台のサイドカーの点検を終わらせた時にはゆうに二時間は経ってしまっていた。

「自分でするならこんなに細かく見なくても大丈夫なんで、整備の方法覚えた方が楽ですよー。わざわざ私を呼ぶ手間省けますし」
「なんだ、職務放棄か?」

 ニヤニヤ笑いながら言う仙石さんはなんだかいじめっ子のような顔をしている。確かに出張点検サービスなんてなくなればいいと思っているがそうですと認めるわけにはいかない。というか、整備の方法は知っていて無駄になるわけじゃないし。

「いやいや、そーゆう意味じゃなくて!仙石さんお忙しいみたいだからと思って」
「まぁ、今日見た感じ自分で出来そうだけど万が一の事考えるとプロに見てもらって安心して乗った方がいいだろ」
「そんな慎重なバイク乗り初めて会いました」
「しょうがねーだろ、身体が資本なんだ。整備不良で事故って怪我しました。じゃ話にならねぇ」

 仙石さんはさっきまでのニヤついた顔から一変していた。真面目な表情を向けられると何故だか自然と背筋が伸びる。

「身体が資本? 仙石さん何者なんです?」

 以前プライベートな話をしたお客さんにしつこくツーリングに誘われ断り続けるうちに顧客を失ったことがある。その教訓を生かすべく私は基本的にプライベートな質問をお客さんにする事はなるべく避けてきた。でも今回は考えるより先に言葉が出てしまっていた。

「ダンサー。ボールルームダンスの」
「ボールルーム、ダンス? 」
「まぁ知らねぇよな、社交ダンスって言えばわかるか? 」
「社交ダンス! 体格いいなとは思ってましたがまさかダンサーとは……」

 何とも頭の片隅にもなかった言葉が出てきた。よく聞けば仙石さんはプロのダンサーらしい。何をもってしてプロなのかよく分からないが海外に行くぐらいなのだから凄いのだろう。とりあえず馬鹿みたいにへぇーとしか言えない。
 数ヶ月おきに点検の依頼があってその依頼がメールで、しかも夜中の変な時間帯に受信していたのは海外から送っていたからだったのか。仙石さんの言う通り身体は大事だろう。でもそれならバイクなんて危ないから乗らない方がいいのに、とはバイク屋として言ってはいけないだろうからその言葉は飲み込む。

「社交ダンスって芸能人が踊ってるのテレビで見たことあるぐらいなんですけど、きっとそれとは違うんでしょうね」
「お、ナマエ興味出てきたか? 踊ってみるか」
「いやいや、私には無理ですって。未知すぎて遠い世界だ」
「知らなかったんだからそりゃそうだろ。近づいていかねぇと世界が始まってることにも気づかねぇぞ」

 言うだけ言って仙石さんは駐輪場にから出て行った。その姿を見ることが出来ず足音だけが耳に入る。今の言葉はちょっと、いやかなりグサリと来た。現状にとりあえず満足しているフリをして、目の前にあるものを手に取ろうともしない自分を見透かされているのだろうか。
 このちょっとした会話でそんなこと分かるわけないと言い聞かせながら、手早く片付けを済ませる。汚れた手を洗ってタオルで拭いていると額に冷たいものを感じた。思わず一歩下がると目の前にチルドカップのコーヒーがあった。仙石さんが戻って来たことにも気づかないほど考え込んでいたことにも驚いたが、お礼を言って受け取ったものが普段から好んで飲んでいるノンシュガーのコーヒーだったことにもっと驚いた。わざわざコンビニで買って来てくれたのだろうけど意図して選んだのか計りかねる。

「とりあえずアレだ、大会見に来い。わからずやに教えてやるよ」

 さっきの気障な言葉も今の自信たっぷりな言葉も仙石さんらしいなと思う。その結果、連絡先を交換してしまった。初めて会った時に同じ苗字の知り合いがいてややこしいから、といきなり名前で呼んできたのを思い出した。強引にも程があるが巻き込まれても嫌じゃないから不思議だ。
 店への帰り道、バイクを加速させると同時に自分の心も加速する気がして何だか見えない魔法をかけられたようだった。きっと私は大会の詳細を送るという仙石さんの連絡を心待ちにしてしまうだろう。大事な約束をしたんだから当然だと呟いて徐々にスピードを上げた。



IMAGE SONG: シャンデリア・ワルツ