環状に連なる



今日も滞りなく朝議が終わった。解散となり部屋を後にする臣下達の流れを遡って、司馬昭の前に立つ男がいた。
大臣の補佐を務める男だと賈充は記憶していた。その男は恭しく拱手すると、三女の婚姻の儀が整ったと報告してきた。

「それはめでたいことだな。後で祝いの品を送っておこう。それで、お前の娘を娶るのはどこのどいつなんだ?」

司馬昭の斜め後ろに控える賈充にとって心底どうでもいい話だが、それを顔に出すほど間抜けではない。しかし、司馬昭の問いに答えた男が出した新郎の名前は賈充が一方的によく知る名前だった。
どうでもいい話が興味深いものとなったのだが、相変わらずの無表情で二人の会話が終わるまで無関心を装って司馬昭の側で控えていた。

「結婚相手はただの武官だから政略結婚ではないみたいね。どうしても結婚したいっていう娘の願いを聞くなんてあの人、意外と優しいのね」

男が退出し、部屋には三人しかいなくなったところで王元姫が口を開く。感心した口振りなのが賈充は気に食わない。

「俺は今日室に籠る。子上、さぼるなよ」

司馬昭と王元姫の会話が始まる前に一方的に告げて執務室へ戻る。練兵の予定を変更してひたすらに竹簡を相手する事、半日。終わりが見えてきた所で自身の副官を使いに出した。
それから更に数刻。春蓉が賈充の執務室を訪れた時には既に世界は闇に包まれていた。

「お疲れ様。……もう公閭の耳に入っちゃった?」
「今朝、子上へ報告があった。その様子だと間違いないようだな」
「うん、本当。噂はね、結構前からあったんだ。何かと都合付けられて中々会えていなかったし。で、ようやく会えたと思ったら直接別れを告げられちゃった」

春蓉は慣れた様子で茶器を取り出すとお茶を入れ始めた。伏せられた顔から表情は読み取れないが、いつになく言葉は途切れ途切れで響きも重い。だが、話したくないわけではないようなので賈充は柄にも無く安堵した。

「別れと言うほど綺麗なものではないだろう」
「……そうでもないよ。彼ね、深く頭を下げて家で待っていてくれる嫁が欲しかったんだ、ごめんって。理由なんか誤魔化しちゃえばいいのにさ、浮気してたくせに誠実なのか不誠実なのか分かんないよね。でもそれが彼らしいなって思っちゃった」

いつもより饒舌に話す春蓉の目元は若干潤んでいた。無理矢理納得しようとしているのが分かって逆に痛々しい。

「好きになるのは簡単だったのに嫌いになるのは難しいね」

そうぽつりと呟いた春蓉の頬には堪えきれずに流れた涙の筋があった。灯りが反射してきらきら輝いていて賈充には酷く扇情的に見えた。卓を挟んで正面に座っていたが、春蓉の隣へ移動する。この場にそぐわない不埒な感情は捨て去り、平常心を装い肩を撫でてやった。
しばらく互いに無言だったが、春蓉が袖で強引に顔を拭くと空気は一変した。それからは軍部についてや街の様子など、いつも通りの情報交換会はお茶がなくなるまで続いた。

「公閭、今日はありがとう。すごく楽になったよ」
「お前が勝手に話しただけだ。俺は何もしていない」
「友達にはこれ以上惨めに思われたくなくて話せなかったの。聞いてくれるだけで嬉しかった」

送り際、最後にそう言って部屋に消えた春蓉は確かにすっきりした表情をしていた。あの様子では傷が癒えるのはそう遠くないだろう。だからいつか酒でも飲みながら笑い話にしてやろうと思っていた。
その思いが瞬時に消失したのは、私用と同時に街の視察に降りた日だった。用事を済ませ遅い夕飯を酒場でとっていると、何故だか隣から春蓉の名前が聞こえてきた。
隣の席の男二人組はだいぶ出来上がっているらしく声が大きい。賑わっている酒場では大した声量ではないが隣で静かに箸を進める賈充には充分耳に入る。

「春蓉は正論に弱いからな。軍議や訓練で忙しい女に家まで守れん自覚があったんだろうよ、真摯に頭下げて言いくるめたら楽勝だったよ」
「悪いヤツだなお前。そんなヤツとも知らず一目惚れして求婚までする女がいるから不思議なもんだ。しかもいい所のお嬢様」
「これで俺も名家との繋がりができたからすぐに出世だ。最初は春蓉使ってやろうとしたんだけどアイツ頭堅くて」

聞こえてくる言葉に吐き気を催した。賈充も春蓉も己の才気のみで現在の地位を確立させたのでこの男の考えは全く理解できなかった。この男の考えのように家や金で買える地位があることは真実だが、少なくとも二人を見出してくれた司馬懿は家柄で評価をする男ではないことは確かだ。
それにしても春蓉は存外見る目がない。恋というものは盲目になるのは本当らしい。

「でもよー、いい所のお嬢さんだから扱いに困るんだよな。その点、春蓉は顔も気立ても悪くなかったな。ほとぼりが冷めた頃にまた擦り寄ってみるか」
「ひでー振り方したのにか?上手くいくわけないだろ」
「春蓉は俺にベタ惚れだから困った顔して近づけば一発だって」

これ以上この下衆な会話を聞いていればこの男を斬り刻んでしまいそうだった。賈充はそれでも構わないが、春蓉が知ると色々と面倒なことになるだろう。
人が人である以上多少のシミは仕方がないし、自ら選び取った結果に文句を言うつもりもない。その程度で春蓉の輝きが損なわれることは無いと賈充は柄にも無く信じていた。
だが本人に関係なく無遠慮にシミを拡げ侮辱する行為まで許容出来ない。今は真っ黒なシミでも徐々に薄まりいつかは無くなるだろう。むしろ無くすために賈充は労力を惜しまないつもりだ。

ふつふつと湧くどす黒い感情はそのままに店を出て執務室へ戻った。今度実施される大規模な野外演習について一度書き上げた竹簡を解き、編成を修正する。終わると窓を開け放ち闇夜に向かって賈充は鈴を響かせた。二、三言発するとすぐに窓は閉められる。

「演習といえど何が起こるかわからんからな。武官として名を馳せるつもりならば気概を見せてもらおう」

刻々と更けていく夜に賈充の言葉は溶けていった。