降谷さんに説教されたあと、やっと解放された私は二人分のコーヒーを用意する。彼が来る時はいつも諸伏さんもいるから二人きりで部屋の中にいるのは少し不思議な感じだ。諸伏さんが良く座る座布団に腰掛けた彼の目の前にコーヒーを淹れたマグカップを置く。彼は少し不機嫌そう(と言ってもいつも不機嫌そうだが)に「ありがとう」と言うと、それに口をつけた。
私はというとどうしても彼に聞いて欲しいことがあったのだが、説教された手前強気に出ることも出来ず、「どうしてここへ?」と問いかける。諸伏さんの親友である降谷さんのことだ、今日が飲み会だってことも知っているだろう。
「やはり、ヒロから聞いてないんだな」
「なにか事件でも?」
「いや、“君の様子がおかしいから俺が帰るまで様子を見てほしい”と言われたんだ」
「それは……すいません」
小さく頭を下げると、降谷さんは肩を竦めた。
諸伏さんに飲み会があると言われた時、私が感じたのは孤独感だったのだと思う。少し時間をおいて、実際その時になればイヤというほど理解した。私は生まれてからずっと道具のように扱われてきたから、大切に扱ってくださる彼への距離感がわかっていないのだ。温もりになれていないから余計独りが悲しくなる。
いつもそうだ、私は私の意思だけでは生きられない。死ぬ前は弟のために、今は諸伏さんのために生きている。だから諸伏さんに“私が知っている以上の世界がある”ことを突きつけられて虚しさを感じてしまった。これじゃただのエゴだ。彼には彼の人生があるのに、それは私よりもはるかに広いはずなのに、私にそれを狭める権利はないはずなのに。そう思うだけなら許されるかもしれない。でも諸伏さんが降谷さんに私を見ておいてくれと言ったのならば、そのエゴはカケラ程でも彼に見抜かれていると言うことだ。負担と、迷惑をかけてしまったと言うことだ。それをじわりと理解して視線を下げる。視界に入った指先が少し震えていた。
違う。諸伏さんは私をそんなふうに扱ったりしない。そんなことする人じゃない。理解している。信じてる。なのに、私は自分を信じることができない。諸伏さんを信じている自分自身を信じられない。
ーーいや。今は私の都合なんてどうでもいい。
震える指をギュッと握り込んで顔を上げる。鼻の奥がツンとするのを必死に我慢した。
「その顔は俺に何かあるんだろう?」
少しだけ眉をしかめて言葉をすすめる彼に頷いて見せる。降谷さんはコーヒーをもう一口飲むと、「で?」と先を急かす。彼の無駄のない生き方は楽だ。私はお風呂場で思い出したことを口にするために息を吸った。
……はずだった。
「……」
吐き出そうと思った言葉が喉に突っかかる。一瞬の躊躇いは私に一つの疑念を抱かせた。
自分の記憶に差異はないと思うし、この未来が訪れることを知っているのだが、だからと言ってそれを他人が信じると言うのだろうか? そもそも降谷さんは私の罪の話を“受け止めただけ”で、“信じた”とは限らない。私が暴力のようにぶつけた告白を聞いてくださっただけなのだ。それも“よく知らない上に、そう言うことにしておいたほうが都合がいい人間”の、だ。
今しようとした話は違う。きっと彼にとって一番信じたくないことなのだ。”幼い頃からよく知る親友が自殺してしまう“なんてことは。
「…………」
「なぜ黙ってる」
「えっ……と」
今言わないともうチャンスはない、そんな予感がしているのに言葉が出ない。諸伏さんを救いたいと言う気持ちと、自分の言葉を否定されるのでは?という気持ちで板挟みにされている状態。それは、誰にも”虐待のことを告発できなかった“ときの気持ちと似ている。
思いを否定されたらどうしよう。そんなわけないと言われたらどうしよう。笑われたらどうしよう。信じてもらえなかったらどうしよう。
どうしようもない。
結局一人で抱えて生きていくしかないんだ。
いつもそうだ。
いつも……。
「背中のは、タバコか?」
それは、どんどんと落ちていく思考を無理やりに引っ張り上げる光だった。
弾かれたように顔を上げると至っていつも通りの降谷さんがそこにいる。本当に降谷さんの言葉かわからず固まっていると、彼はゆっくり形のいい唇を動かした。
「さっき君を風呂場に押し込むとき見えたんだ、背中の痕をな。記憶が正しければタバコを押し付けた痕だと思うが……」
「ぁっ……」
暗い部屋の中、うずくまって恐怖に震えていた私がずっと言って欲しかった言葉だ。
守るために口を閉ざすことしかできなかった私を引き上げる言葉だ。
自然と目頭が熱くなる。
「虐待されていたのか?」
ぶわりと、何年分かの涙が溢れ出す。
誰からも言われないと諦めていた言葉。
まるで救いの手のように、彼はそれを当たり前に差し出す。
言葉を発することもままならず何度も頷く。拭っても拭っても涙は途切れなかった。
降谷さんはなにも言わず、黙って一度だけ私の頭を撫でてくださった。それだけで心の中の不安が拭い去られる。この人なら……全てを告げてもいいのかもしれない。そう思うには十分で、数分泣きじゃくった私は必死に呼吸を整えて、彼の骨張った手をギュッと握りしめる。
「きいて、ください」
「名字の“罪”の話か?」
「……っ、信じられないと思いますが」
「信じることにした」
「え……?」
私の罪の話なんて今はどうでもよかったのに、彼の言葉が意外すぎて思わず聞き返してしまう。降谷さんはそんな冗談を言う人ではないはずだ。もちろん私は嘘を言っていないが、あんな突拍子もないことを信じるなんて……。
「もちろん簡単に信じたわけじゃない」
「じゃあ……どうして…」
「ヒロからPTSDの症状があることは聞いていた。その時点で“殺した”という発言を信じることはできるだろう。妄想なんかでPTSDが発症するとは思えないしな。動機もあるようだ。あの時言っていた“父が殺した弟”という言葉と背中のタバコ痕……。事情は察するにあまりある」
降谷さんはまるで台本があるかのように言葉を紡ぐ。いや、台本があるにしては言葉が淡々としすぎているのだけれど。事実だけを連ねる彼は警察というより探偵のようだった。
「しかし“罪が消えた”ということは信じることができなかった」
「……」
それはそうだ。自分でもトンチンカンなことを言っていた自覚はあるのだ。それがリアリストの降谷さんであれば余計信じることは難しいだろう。
「だから調べた」
「しら、べた…?」
「過去に解決していない殺人事件について」
「え……?」
「該当はゼロだ。君が言った通り“罪が消えて”いた」
「…………」
今感じたのは安堵なのか、落胆なのか。もう、私自身罪を裁いて欲しいのかがわからない。
「だがそうなると矛盾する。PTSDを発症するほど気が動転した人間が証拠を消すことなどできると思えない。他にも疑問点は多々存在する。存在しない制服。存在しない戸籍。なのに殺害した家族。高校二年生以上の学力。…………まるで、ある日世界にポツリと生まれたような。17歳の名字 名前として突然現れたような…」
「!!」
あまりにも“正しかった”。
彼の言っていることは正しすぎる。
「……”ありえないことを排除したあとに残ったものは、それがどんなにありそうにないことでも、真実である“」
「あ……ホームズ…の」
それは聞いたことがある台詞だった。”作中“小さくなった探偵が、何度も口にした”名探偵“の言葉だ。
「さて、聞こうか」
降谷さんはまるで犯人を突き止める探偵のように、私に鋭い視線を寄越す。きっと彼は”答え“にたどり着いている。それが”真実“だと。だけど、それでも私に聞くのは、それが余りにも突拍子ないからだ。
「君は、いったい”どこ“から来たんだ?」
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