モブからの性的暴力表現と独神の人体欠損表現あり。
人生で一番好きなものは?
そう問われれば、彼女は決まって「八百万界だ」と答えるのだ。
その答えにどこか物足りなさを覚えながらもシュテンドウジは酒を煽る。
「お前は四六時中八百万界のこと考えてんのな」
独神がきょとんと眼を瞬かせる。赤い目を縁どる睫毛がほんの少し揺れて、唇も僅かに引き攣ったのをシュテンドウジは見逃さなかった。
一瞬だけ垣間見えた独神の歪み。はたして本人は気づいているのか。その疑問を打ち消すように独神は三日月型の目を作り首を振る。どうやら何が何でも自分の立場を崩すことはしたくないらしい。呆れさえ覚えるほどの独神としての完璧な振る舞いにシュテンドウジは感嘆した。
海のように深く広い慈しみを持つ彼女こそ、この世界を救う唯一の希望。そう言われ続けてから何年が過ぎただろうか。
釈迦が垂らす蜘蛛の糸のように、誰もがその糸に、独神に救いを求めた。だがその糸は脆かった。脆い糸を千切られたのはあまりにも突然のことであった。
布団の上で上体を起こす独神の膝の上には数冊の書物と巻物がある。相変わらず、知識を増やそうという懸命な努力は欠かさないようだ。本を捲る動作も馴れたもので、活字を追う速さも異常に速い。紙を捲ろうと独神の手が動く。シュテンドウジは寝転がり肘枕としながらそれを見守る。ここにいるときは特にすることもないので、意味もなく独神を眺めているかその横で寝ているかのどちらかだった。
突き刺さる視線など気にも留めない独神は真剣な眼差しで書物を読んでいる。この様子では後数時間は相手にされないだろう。鬼である自分をここまでぞんざいな扱いをするのはこの世で独神くらいなものだ、と肩を竦めたシュテンドウジが酒の入った瓢箪に口を付けようとしたそのとき、開いていた窓から風が吹き込んだ。舞い込んできた風は独神が読んでいる書物を悪戯に捲った。
あら……と慌てて捲られた頁を止める独神の右手は丸い。正確に言うと手首から先がないのだ。綿を詰めて縫い付けたように丸くなった右手が本を押さえ、左手は元のページを探す。白魚のような手にあった五本の指はもう三本しかない。左手も右手同様に欠損しているのだ。
その手を見るたびにあの忌まわしい男の声が蘇る。頭の中で何度も反復する記憶に、窓を閉めようと障子を掴んでいた手に力が籠る。
障子はミシッ……ミシッ……と音をたてて悲鳴を上げ、ついに一筋の亀裂が走りだした。
*
「お前は希望なんかじゃない、厄災だ……!!!」
独神を連れ去った男はぼろぼろになった独神を指差しながら嘲笑った。独神の衣服は乱暴に破られ、露出した肌には打撲痕や切り傷があった。顔は大きく腫れあがり、見るに堪えないほどだった。美しい指も数が減っている。あちこちから血を流す彼女だが、一番ひどい場所は腹から下の部分であった。
英傑たちは瞬時に悟った。独神がこの男になにをされたのかを。彼らはたちまち怒りに震えた。英傑達は男に独神と同じ、それ以上の苦痛を味あわせた。当然の報いだった。男は許しを請う暇もないまま死んだ。哀れだがそのほうが男にとっては幸せだっただろう。
それでも独神の傷は癒えない。男は肉体だけでなく独神の精神までもズタズタに犯していったのだ。
「いや!!来ないで!!近づかないで!!!!」
喉が潰れるのでは思うくらいの声で独神は叫び、英傑を拒絶した。腫れた顔を隠し、声を枯らしながらひたすら泣いていた。聞いたこともない金切り声を放つ独神に、英傑達はどうすることも出来ずただその場で立ちすくんだ。
あの八傑も同じだった。男神が恐ろしいのではと推測して女神が独神に接触しようと試みたが、やはり返ってきた答えは悲鳴のみ。
以前の優しい独神を知る英傑達の衝撃は大きかった。悲しみに暮れ、みな項垂れた。
悪霊どもはこれが好機といわんばかりに猛攻撃を仕掛けてきた。士気が高まった悪霊どもの勢いに押され、英傑達は次々と撤退を余儀なくされた。独神に指示を仰ごうにもろくに口を訊くことも出来ない状態。これには八咫烏も嘆くのをやめ、どうしたものかと頭を抱えた。そして八咫烏は悩んだ末に苦渋の決断を下した。
主さま、お許しください、お許しください。全て力不足のワタクシが悪いのです。どうかこのワタクシを恨んでください。気のすむまで殴ってください。
八咫烏は丸い目に涙の膜を張りながら何度もそれを繰り返した。そのときだけは独神は叫ぶことなく八咫烏の言葉に耳を傾け、彼の謝罪を静かに受け止めていた、ように見えた。なにかを思いついたように独神がのろのろと左手を動かす。するとなんと、いままで泣き叫ぶだけだった独神が八咫烏の乱れた羽をぎこちなく梳いてやっていたのだ。口から飛び出そうとする恐怖の声を我慢しているのか、指先は死に際の老婆のようにぶるぶると震えていた。懐かしい手のひらのあたたかさに、八咫烏がハッと顔を上げる。
大丈夫。耳を澄ませばなんとか聞き取れる声で、確かに独神は八咫烏の為に囁いたのだ。
主さま。
頬を痙攣させ懸命に笑おうとしている独神の顔を見た八咫烏は、とうとう堪えきれずに声を上げて泣いた。
その数日後、八咫烏はオノゴロ島から姿を消した。
次に八咫烏が帰還したとき、彼の側にはひとりの青年がいた。
それは、新しい独神だった。
「お前らそれでいいのかよ! ここまで一緒に戦ってきたのはあいつだろ!? なんでそんなあっさりとあの男のこと主って呼べるんだよ!!」
皆、新しい男のことを「主」として仕えだした。最初は男を独神と認めない者がたくさんいたが、その彼らも次第に考えを改めだした。それでも、中にはやはり彼を主にはできないと言い残してここを去った者もいる。
シュテンドウジも、男を独神と認めない一派であった。あの八傑も、突然連れてこられた独神の存在に困惑しつつこれからどうするべきかを沈思した。
独神の精神が崩壊したことをきっかけに、優勢だった戦況も英傑達の士気もじわじわと崩れ始めた。民が住む村は焼き尽くされ種族問わず大勢の命が奪われた。
八百万界は再び数多の血を流そうとしている。この事態に危機を感じた八傑はついに動いた。独神がいない軍議の中、彼らは頭を突き合わせて数日間話し合った。その彼らが出した答えはあの男を新しい主として迎え入れよう。というものだった。
反対派だったシュテンドウジは当然それを受け入れられなかった。そして声を荒げた。なぜ、と。
七人の出した結論にどうしても納得できない。
だが八傑の中でただひとり最後まで反対していたシュテンドウジも、頭の片隅では最善の選択がどちらかなど反吐が出るほど理解していた。他の面々だって、好きで主を変えるわけではない。八百万界のため仕方ないことなのだ。
怒りを露わにするシュテンドウジを見たアマテラスが、震えた吐息を漏らしながら肩を震わせた。そこでついにツクヨミが顔を覆い、堰を切ったようにわんわんと泣きだした。周りの者も沈痛な面持ちで床を見つめている。誰も異を唱えるやつはいなかった。シュテンドウジは肩を脱力させて口を噤んだ。
ここから見える八尋殿の庭には人っ子一人いない。空からは暖かな日差しが降り注いでいるというのに話し声すら聞こえてこない。独神がああなってから、誰も部屋から出てこないのだ。不気味なほど静かな八尋殿の様子は、悪霊たちに犯されつつある八百万界の現状を淡々と伝えていた。
こんな光景、毎日見ていれば嫌になる。シュテンドウジはツクヨミの泣き声も風の音も、太陽の日差しも、なにもかもが遠くに感じた。
残った英傑達は八傑の決断に従った。こうして、新しい「独神」は無事誕生したのだった。
皆の判断は正しい。この世界に必要なのは「彼女」ではない「独神」だっただけのこと。
けれどシュテンドウジにとって必要なものは独神の皮を被った器なんかではない。オノゴロ島の一角に住まいを移した「かつて独神だった女」だけが、シュテンドウジの求めるものであった。