シュテンドウジは簡素な造りだが綺麗に掃除された和室の出窓の障子を閉め、振り返る。オノゴロ島の風は何も変わらずにありつづけている。
風に頬を撫でられるとつい睡魔に襲われるの、と独神はよく言っていた。
瞼を伏せて微笑む独神の横顔を見るたび、どこかへ連れ去りたいと思っていた。どこへ?わからない。独神が行きたいと願う場所ならどこへでも。大江山の鬼は気にいった女を攫って己の物にしてやるのが常識なのだ。
だがそれは許されないことであった。独神も望まない。以前のシュテンドウジならばその荒ぶる理性を押しとどめ、酒と一緒に喉の奥へと流し込んでいただろう。
けどいまは違う。この女は独神ではない。ひとりの女を攫ったって誰も困りはしない。彼女はもう独神ではないのだから。だから連れ去ることなど簡単で……。
「なあ、頭」
シュテンドウジの主はずっと、目の前にいる女だけだった。シュテンドウジは書物を片づける女の側に膝を突いた。気だるげに、女が顔を傾ける。愁いを帯びたその仕草に、シュテンドウジの胸に苦しいほどの情愛がこみ上げる。
「おれとここを出て行かねえか」
女の瞳が揺らいだ。
「大江山に帰るんだよ。なあ、覚えてるだろ?おれがお前を攫って連れてきた場所だよ。あそこならまだ俺の仲間が残ってる。おれが帰ればイバラキも着いてくる。イバラキもおまえのこと気に入ってるし、ほかの奴らもきっと頭の事好きになるに、」
「シュテン」
捲し立てるシュテンドウジを、女が遮った。目を細め、口元には笑みが浮かんでいる。子供を諭すような優しい目に、シュテンドウジの言葉は封じ込められた。その赤い瞳に射抜かれて、シュテンドウジは喉元を締め付けられたような痛ましさに襲われた。
頭、と掠れた声は独神に届くことなく消えた。
最近、女の顔色が悪い。あまり眠れていないせいだろう。
今日も女は布団の中で書物を読んでいる。飽きないのかと訊けば「あなたが毎日お酒を飲むのと一緒だ」と屁理屈を返された。
女の顏には生ぬるい生気のない色がふたつの窪みに浮いている。輝かしい光を燈していた女の瞳はいつのまにか暗く、泥のように澱んでいた。
頭の目玉は果実のように甘酸っぱいのだろう。そう思わせる彼女の赤い双眸が、シュテンドウジは好きだった。ずっと見ていても飽きない。きっと、女が本を好きな理由もこういう感じなのだろう。
だからこそ、その瞳の色を受け継いだようにして産魂した軍神が気に食わなかった。いまとなっては頼もしい仲間である軍神は、以前と同じように前線で剣を振るっている。あの男を主君と呼んで。
それなのにこの部屋の床の間にはあの軍神を思わす赤い花が飾られている。
「タケミカヅチがね、持ってきてくれたの。私に似ているって」
女は声を弾ませながら言った。赤い花だけではない。その隣には紫、黄、橙など色とりどりの花があった。全て英傑からの贈り物だという。いままでぎこちない表情だった女が心底嬉しそうに顔を綻ばせていた。
ここに来る者が自分以外にもいることはわかっていた。けれどこれほどとは。役目が終わったあとも、英傑は女を必要とし、求めている。彼らはまだ女をここに縛りつける気でいるのだ。
そのとき、彼らの浅ましい行為に苛立ちが募り、花を蹴飛ばしたい衝動に駆られた。だがシュテンドウジは女のためだと自分に言い聞かせ、怒りを逃がすように、はっと息を吐いて頬の筋肉を動かした。
「よかったじゃねえか、頭」
感情を抑えて笑えば、女は独神と呼ばれていたころのように朗らかに微笑んだ。この頃、彼女はよく笑うようになった。他の英傑も壊れる前の彼女が戻ってきてくれたようだと喜悦した。
そのことに手放しで喜べないシュテンドウジはどうしようもない苦悩に苛まれ、酒を飲むことで当り場所のない思いを発散させている。
ここにいれば女は幸せなのだろうか?
答えが出ないまま、月日は流れここまできてしまった。
ズルズルと引きずられたどり着いたこの小さな籠の中で、女は生きている。いいや、きっと飼われていると言った方が正しいのだろう。
今日もこの部屋には英傑の誰かが足を運んでくる。独神でなくなったのにも拘わらず、女の愛情はいまも尽きることを知らない。何があろうとも柔和な笑みを崩すことなく我ら英傑を迎えいれるのだ。
シュテンドウジは思う。輝きを失い、色を無くした目を見てなにが楽しいのだと。
シュテンドウジは思った。生き生きと八尋殿を動いている女の足音を聞かずに話す会話になんの楽しさがあるのだと。
「シュテン……シュテン? どうしたの? どこか痛い? 怪我でもしたの?」
シュテンドウジは思った。
両目から出てくる意味のないものなど、独神を困らすものなど全て無くなってしまえばいい。己の拳で何もかも粉砕して跡形もなく壊せたらどれほど楽だろうかと。
シュテンドウジは思った。
皆は知らない。春を告げる鳥のように感情豊かな声音がただの獣の雌に変わってしまうことがどれほど恐ろしいことかを。
他の奴らは知りたがる。独神と呼ばれた女が持つ雌の部分を。シュテンドウジは理解できない。どうしても、こればかりは。
シュテンドウジの一番の幸せは独神の隣で酒を飲むことだった。ここにいて酒があって独神がいて、ただそれだけあれば良かった。欲深い鬼にしてはちっぽけで、手のひらにおさまる程度の些細な幸福だった。だけど不思議と鬼の心は満たされていた。
「シュテン、泣かないで、シュテン……」
咽び泣くシュテンドウジの脳裏にかつて独神と呼ばれた女の顔が浮かんだ。女は笑っていた。まだ八傑だけで悪霊退治をしていたころのようにひどく懐かしい。無邪気に笑いながら両足で歩き、生気に満ち溢れたみずみずしい姿を持った女はこれ以上ないほど美しく、誰よりも輝いていた。
独神はこれからも祈り続けるのだろう。
この世界で暮らす者すべての人が幸せでありますようにと。
自分の役目が終わるまでずっと他人の幸を願い続ける女が哀れであり、どこまでも愛おしく果てしなく寂しかった。
シュテンドウジは独神の想いを潰すように細い背を掻き抱いた。あんなに幸せそうにあった独神の背は前よりずっとずっと小さくなっている。
「シュテン。大丈夫だから、大丈夫」
まじないのように女が言う。
三本の指がシュテンドウジの頭をたどたどしく撫でて、力なく垂れた。
それが無性に悲しくなって、シュテンドウジは女の体を強く抱きながら涙が枯れるまでずっと泣き続けた。