「月が、綺麗だね」
「……? そうですね……でも今日は曇っていて月は見えませんね」

 勇気を振り絞って告げた愛は見事に砕け散った。

夜の作戦室。
朽ちた屋根から覗く空は厚く曇っていて、マスターの言う通り月なんて見えないし、星だってひとつも輝いていない。
そういう意味じゃない。伝えたかった二文字の言葉は喉の奥に消えた。急に気恥ずかしさが生まれたキセルは己のシャツを握りしめ、俯いた。


マスターは西洋の血が濃い。初めてマスターの瞳を見たとき、なんて綺麗な瞳の色なんだろうかとキセルは見惚れながら思った。目を合わせることが苦手だったキセルだが、マスターのそれは吸い込まれそうなほど美しく輝き、強く惹きつけられた。日差しを浴びた水面のようにキラキラしていて、透き通るような二つの目。

心根さえ見透かしてしまいそうな彼女の双眼に、心臓を掴まれたような苦しい痛みを時折覚える。
その痛みの正体をキセルはまだ知らなかった。まだ、そのときは。
 この痛みはなんだろう? 自分はマスターが嫌いのなのだろうか? いいやそんなはずは……。眠れぬ夜に何度も自問自答した。しかし答えは出ず、目の下のクマが日に日に濃くなるだけ。心が晴れないまま、キセルは何度も戦場に立った。

そしてついに、キセルはある答えにたどり着いてしまった。
好意のその先にある底知れない想い。その感情に戸惑い、部屋の片隅で膝を抱えた記憶はまだ新しい。
「煙管」が[[rb:人 > マスター]]に恋をするなんて。自分はなんて愚かなやつなんだろうか。ああ、物言わぬ煙管に戻り、マスターの所有物として生きていればどれだけ楽だっただろうか。貴銃士ではないただの煙管になりたい。
そのときは、この恩知らずと罵られてもいいと思うくらいキセルは苦悩に苛まれていた。夜が明け、太陽が昇る。今日がやってくることがとても苦しかった。
それでもキセルの想いはマスターの顔を見るたびに大きいものになっていく。


そんなある日の夜、たまたまランプ片手に作戦室の階段に腰掛けていたマスターを見つけた。キセルに気づいたマスターが呼びかけたことがきっかけとなり、キセルはかの有名な逸話の言葉を借りて、そっと愛を囁いたのだ。
だが結局、なにも伝えられないまま終わった。自分はなんて間抜けなやつなんだと、キセルは恥じた。

マスターが東洋の生まれなら月の意味をわかってくれたかもしれない。そんな淡い期待をつい抱いてしまう。けれど仮にマスターが意味を理解してくれたとしても、返ってくる答えなど決まっている。

「でも、手が届かないから月は余計に綺麗に見えるんでしょうね」

空に手を伸ばして微笑むマスターの横顔は相変わらず優しい。だがいまのキセルにとって、それはとても残酷なものだった。柔らかいマスターの言の葉は鋭利な棘に変わり、キセルの胸に深く突き刺さった。

「うん……そう、だね」

紫煙を吐く息に混じって、音のない愛を囁ける煙管になれたなら。彼女のことが好きだと思うたびにキセルの心はシクシクと泣いた。
マスターが綺麗だと、好きだと思うのはきっとマスターがあの月と同じような存在だからだ。


煙管の煙は月には届かない。