「月が綺麗だね」

 作戦室の階段に腰をかけていたキセルはそっと愛を囁いた。その隣にはマスターがいる。サングラスの力を借りずにいるキセルの小さな心臓は暴発してしまいそうなほど大きく高鳴っていた。戦闘時とはまた違う緊張と不安がキセルを襲い、唇をカラカラに乾かした。


今日の夜空は月が浮かんでいない。月明かりが差し込まない作戦室は暗く、マスターが持っていたランプの火もちらちらと消えかかっている。

ランプの火はキセルの気持ちを代弁してるかように心許なくゆらりゆらりと揺れている。わざわざこんな日の夜に月が綺麗だね、だなんて。なんてわかりにくい告白をしてしまったのだ……とキセルは後悔したが、サングラスがない状態ではこれが己の限界である。らしくないことをしていると自分でもわかっているが、マスターへの想いを止めることができなかった。


そのマスターはまだ口を開かない。

静かな沈黙が異常に長く感じる。マスターは顔を俯かせ、口を噤んだまま瞼を伏せている。彼女の膝の上にある手は石像のようにぴくりとも動かない。その代わりに丸い瞳を縁取る睫毛がひっそりと震えたのを見て、キセルはサッと青ざめ、その次に落胆した。


やはりこんなことを言っても、マスターを困らせるだけだった。心優しいマスターのことだ。きっといきなり月が綺麗だなんて告白をしたせいで返答に困っているのだろう。
そこでキセルはアッと気づく。もしかしたら月の意味がわからず訝しんでいるのかもしれない。だがマスターなら「今日は月なんて出てないですよ」とはっきり言うだろう。なら答えは決まっている。

沈黙に耐えきれなくなったキセルは逃げるように腰を上げ、シャツを握りしめながら言った。

「ご、ごめんねマスター………!俺、あの俺っ、俺……!!」

声が上擦り息が震えた。そのあとに続く言葉は形になることなく、キセルは「あ……」と小さく漏らす。

タイミングを見計らったように作戦室が真っ暗になった。ランプの火がとうとう消えたのだ。暗闇のなかマスターが身じろぎをしてランプを動かす。
重くのしかかる絶望にキセルは固く目を瞑る。肩を落とし出口に向かって足を動かしたとき、ガシャンとランプが倒れる音がした。キセルが驚いて振り向く前に、

「い、いまなら月に手が届くかもしれませんね…」
「えっ……」
「わ、私もキセルさんのことが好き、です……だから、あの、行かないでください……」

つん、とキセルのシャツが引っ張られた。反射的に振り返った先にはマスターの顔があった。彼女の顔は驚くほどはっきりと見える。なぜ、とキセルは空を仰ぐ。夜空にはいつの間にか月が出ていた。
暗闇に包まれていたマスターの顔が月明かりに照らされる。

「すみません、どう返事をしたらいいか悩んでしまって…月が綺麗って、あなたのことが好きってことであってます、よね……? キセルさん……キセルさん?」

恥じらいの色が溢れる顔に、キセルは目を丸くさせたあと信じがたいといった表情で返す。

「…………俺、死んでもいいよ」
「キ、キセルさんが死んじゃったら私困っちゃいますよ……」
「あっ、いやそういう意味じゃなくて…」
「え、ああ、そ、そうなんですか……? 私よく知らなくて……ごめんなさい」
「いや俺こそ紛らわしいこと言ってごめんね……ああでも本当に暴発しちゃいそうなくらい全身が熱い……」
「えっ、爆発?!」

マスターが驚いて声を上げたのでキセルは慌てて頭を振った。

「だ、大丈夫。しないから……多分」
「……本当に? 衛生室に行きますか?」

ふふふ、とマスターが可笑しそうに吹き出した。茹でだこのように赤くなったキセルの顔を隠してくれようとしたのか、月がまた雲に隠れた。その暗闇に乗じたマスターがキセルの手に触れた。

「本当だ。キセルさんの手、すごく熱い。私の手は冷たいから繋げばちょうどいいですね」
「あ、あぅ……」
「嫌、ですか?」
「嫌……じゃない。むしろ嬉しい、嬉しいんだけど……ああ、俺、なんか本当に死んじゃいそうだよ」
「あらそれは大変。ならメディックである私の出番ですね。ふふ、キセルさんの熱が引くまでもう少しだけここにいましょうか」

マスターが、ね……?と熱が籠もる声音で笑うのでキセルは今度こそ自分の体がどうにかなってしまうのではないかとひどく心配になった。
明日、自分がただの煙管に戻っていませんように。キセルはこれが夢ではないことを祈りながら、マスターの存在を確かめるように己の手に触れている冷たい指先をぎこちなく握り返す。

煙になりそのままとろけてしまいそうになる気持ちを抑えながら、キセルはいつものように独特な笑みを溢したのだった。