以前、基地の作戦室に広げてあった紙に、赤い絵の具がぶちまけられていた。あのとき、不思議に思ったのだ。誰が色を塗ったのだろうと。ああ、そういえば……。
ああ……そうだ……そうだった!
キセルはぐったりとしているマスターを抱えながら吠えた。
「マスター!! マスター、しっかりしろ!! くそッ、マスター、もうちょっとだからな、頼むからこんなところで死ぬんじゃねェぞ……!!」
洪水のように止めどなく広がる赤黒い血。荒く息をしながら苦しげに表情を歪めるマスター。キセルの頭に過ぎったのは赤く染まった一枚の紙きれ。なぜこんなときに思い出してしまうのか。
マスターが敵に撃たれた。
キセルは弾雨の中、倒れたマスターをなんとか物陰まで運んだ。周辺を警戒しつつ、怪我の深さを確認する。キセルは目を大きく見開き、息を飲んだ。胸から腹にかけて無数の綬弾を浴びている。出血量もひどい。
……ここから基地に戻るにはかなり時間がかかる。周りには世界帝軍の兵士があちこちに身を潜めている。他の貴銃士も敵の撹乱作戦にはまり、散り散りになってしまった。この四面楚歌の状況でマスターを抱えて逃げる体力も、敵を蹴散らす薬莢も、キセルには残されていなかった。己の右足と腹部からは血が滴り落ち、黒い軍服をべったりと汚している。そこに手を当てて見れば、指にも真っ赤な血がついた。眩暈がするほどの色に、目を瞑る。
近くに衛生兵もレジスタンスの仲間もいない。マスターが持っていた救急バッグも途中で落としてしまった。もう手の施しようがない。
ならば、残された選択肢はあとひとつ。
長いこと葛藤したが、キセルにとっては一時間、だが実際に過ぎた時間はたったの六十秒であった。
キセルは意を決したような面持ちで、ゆっくりと目を開いた。
キセルはマスターが使用していた銃を手に取り、銃口をマスターの額に当てた。はあっ、はあっとキセルの息が乱れる。いつもと同じことをするだけなのに、手はぶるぶると震え、こめかみには大量の汗が伝い落ちた。サングラスのレンズを涙で濡らせば、それがマスターの顔に滑り、彼女の頬を濡らした。
こうしてためらう間にも、マスターは苦悶に満ちた顔で浅く息をし、薄い腹から大量の血潮を流し続けている。
マスターの手で壊れることを望んで、常にその夢を受け入れてきた。けれど、自分がマスターを壊すだなんて。そんなこと、考えただけで身の毛がよだつ。何度夜を繰り返しても、それだけは全く想像していなかったことだ。
頬を濡らす感触に反応したのか、マスターが薄らと目を開けた。辺りを見渡すように、ぎょろりと目玉が動く。いまの現状を咄嗟に理解したマスターは、ああ……と吐息交じりに喘いだ。次にキセルの方を見た。それなのに、不思議と焦点があわない。命の火が消えようとしているのだと、キセルは悟った。
「ごめんね……最後の最後まで……迷惑かけて……」
マスターがキセル以上に手を震わせながら、引き金に指を添えた。キセルの指にマスターの指が絡まる。
マスターは痙攣する唇に赤いルージュを染み込ませながら、鮮やかに微笑んだ。
「また、どこかで会いましょう」
どちらともなく、銃の引き金を引いた。同時に、別の銃声がキセルの鼓膜を打った。どこからか銃声が鳴り響いたと共に、キセルの体にも大きな衝撃が伝わり、次第に目の前が真っ暗になった。
*
マスター、これ、なに……?
「ああ、これ? 私が白い紙に塗ったの……え? なんでって? ほら、いまの折り紙って昔とは違ってちょっと値段が高いでしょう? 売ってるお店もなかなか見かけないし……だからね、倉庫にあった絵の具を引っ張り出していらない紙に色を塗ったの。私、折り紙やったことないからこれを正方形に切ってちょっと試してみようかなって思って……」
そうなんだ……あ、あのねマスター。俺、折り紙得意なんだ……えっと、それでね、マスターさえよければなんだけど、俺と一緒に折り紙してくれたら嬉しいな……なんて。
「ん? キセル君、折り紙の折り方教えてくれるの? ふふ、ありがとう。嬉しい。じゃあ、次の作戦が終わった夜にでもお願いしようかな。覚えててね、忘れちゃダメよ」
うん、絶対に忘れない……俺、何枚か新しい折り紙を持ってから、今度持ってくるね。
だからマスター、マスターも絶対に忘れないで、ね。
「……マスター」
チラチラと瞼を射す赤い夕陽によって、キセルは意識を取り戻した。目を開ければ、視界に赤い空が飛び込んでくる。
楽しみで仕方がなかったあの日の約束を、キセルは夢の中で思い出していた。
喧騒に満ちていた戦場は不気味なほど静まり返っている。もう戦闘は終わったのだろうか。遠くのほうで誰かが誰かの名前を呼んでいる。
他の貴銃士はどうなった? 無事なのだろうか?
自分はちゃんとマスターを壊すことができたのだろうか。
ぼんやりと空を見ているうちに、キセルは緩やかな眠気に襲われだす。目を瞑る前に、顔を横に動かす。隣にはマスターがいた。マスターの横顔はただ眠っているだけのような穏やかなものだった。よかった、と少しだけホッとした。
「俺……上手に壊せたかな……」
キセルはいうことを聞かない腕をなんとか持ちあげて、マスターの頬に指を這わすように触れた。皮膚は冷たく、硬い。まるで人形のようだとキセルは思った。
キセルはマスターの頬についた乾いた血を指で拭ってやりながら言った。
「ねえ、ますたー……今日が約束の、作戦の日……だったんだよ……ますたーは、覚えててくれたの……かな……」
視界が霞みだす。落ちる意識の中、瞼の裏に描かれるのは目頭が痛くなるほどの眩しい赤。
あの「色」はマスターだ。脳裏に焼き付いて離れない愛しい人。彼女のことをずっと見ていたかったのに。
マスターがいない世界に存在する煙管なんて何の意味もない。
血に塗られた地面の上で、キセルは息絶えたマスターの横に寄り添いながら生の終焉を願った。
ああ、マスターと一緒に折り紙したかったなあ。
2018.0507