「つ、鶴見中尉殿にあなたの様子を見てきて欲しいと頼まれてお伺いしました」
冷たい風が吹きすさぶ中、褐色の肌をした背の高い将校が家にやってきた。突然の訪問に、私は髪を整えられないまま玄関の戸を開け、どうぞ家の中へと誘う。目を丸くさせている将校を招き入れ、背を向ける。
「みごっか……」
後ろで将校が何か呟いたが、聞き返すほどでもないので聞こえぬふり。まあ、将校のぼんやりとした顔を見れば、だいたいのことは想像がつく。
上官の、しかも娘しかいない家に上がるのは気が引けたのか、将校は家の中に上がろうとはしなかった。開け放たれた戸から冷たい風が滑り込み、肩を撫でていく。いつまでたっても将校が玄関先でもだもだするので私は
「家の中が冷えますから早く閉めてください」と言い放ち、居間へ行くよう促した。
将校は少し肩を揺らすと、意を決したような面持ちで戸を閉めると靴を脱いだ。それを尻目に洗面台へ向かい、髪を適当にまとめる。
居間に戻り、突っ立っている将校に座布団を用意して座らせる。その間に台所へ行き、茶を煎れる。そわそわと落ち着かない将校の様子が背中越しからでも伝わってくる。なにをやっているんだか。見合い相手の家に招かれたような男の反応に肩を竦め、食器棚から飴色の取り皿を出し、羊羹を二切ほど置く。いい加減、父も貰い物の羊羹を私に押し付けるのはやめてほしい。
「どうぞ」
茶と羊羹を出せば、将校は礼儀正しく会釈をした。
ここまでは「以前」と同じ。この不毛なやり取りにもいい加減うんざりしている。
*
そもそも父の部下がこの家に来るのは彼が初めてではない。
母が亡くなってからというもの、父は小樽にある本宅ばかりに居座っていて、私が住む旭川の別宅には全く顔を見せなくなった。理由としては、母によく似た私がいるからである。父は私を見ると亡き母を思い出してしまって辛いのだ。
だから、父は早く私をここから追い出したい。
母が死んだことも影響しているだろうが、父は戦場で前頭葉を吹き飛ばされてからおかしくなった。
「私は帰ってきたぞ、名前子」
私を映す父の目には見覚えがある。あれは獣だ。戦場から帰った父は、野心と見果てぬ野望を抱えた恐ろしい獣に変貌していた。
「さあ、おいで」
頭に触れようと手を伸ばしてきた父の手を、私は振り払った。そのとき父は怒るわけでも嘆くわけでもなく、ただ静かに私と己の手を交互に見下ろしていた。父がどんな目で娘を見ていたのかすら、私は覚えていない。
その記憶を最後に、父は私の前に姿を現さなくなった。戦地から生きて帰ってきてくれた父に、なんてひどいことを。
別宅に取り残された私は激しく悔やんだ。父に会いたいと何度も願った。本宅に赴き、父に会いに行こうか。そう考えた日も幾度なくあった。けど、父に会いに行って拒絶されたら?
数時間後の未来を考えると途端に怖気づき、靴を履く手も止まった。
なにもできない自分が情けない。いっそのこと消えてしまいたい。お父様、お母様。助けて。
夜になると、寂しさからくる不安が身心を蝕んだ。雷が鳴る日は部屋の隅に蹲り、ここにはいない両親の名を何度も呼んだ。それでも、私はひとりでいることを選んだ怯者だった。
しかも引っ込み思案な性格が災いし、近所には親しい友人もいない。喋る相手すら見つからない私は家の中に引きこもることが多くなった。何の変化すらないまま、時間だけが過ぎていく。これからの行く末に憂いを感じながらも、私は色のない毎日を孤独に過ごしていた。
ある日、することもないので二階の窓から外を眺めていると、ひとりの珍客が来た。いや、正しくはふたりだった。私は熱さにやられて、てっきり「彼」が分裂したものだと勘違いしていたのだ。
ふたりの兵隊は双子だった。彼らは父にあなたの様子を見てきてほしいと頼まれ、この家を訪れたらしい。
「父が……まさか……父は私のことを覚えいたのですか?」
「覚えていたから、鶴見中尉は私達にあなたの様子を見てくるよう頼んだのでは?」
もっともな意見に私は黙るしかなかった。
「これは鶴見中尉からお預かりしたものです」
にわかに信じがたいが、ふたりから貰った手紙には父の名前が書かれていた。筆跡も父のもので間違いない。お父様。あまりの嬉しさに頬が緩み、胸の奥が熱くなる。
「あ……すみません……」
「いえ……」「…………」
兵隊さんがこちらを食い入るように見てきたので、私は気恥ずかしくなって俯き加減に視線を下げた。
涼しい北海道にしては珍しく初夏という言葉がそっくりそのまま襲い掛かったような日だった。きっちりと軍服を着込んだふたりの額には、じんわりと汗が滲み出ていた。
熱い中来てくれた兵隊さんをそのまま追い返すわけにはいかない。私は彼らを家に上がらせ、麦茶を飲ませた。同じ顔が同じ動作で茶を飲む光景はなんとも奇妙である。好奇心を擽られ、私はふたりの兵隊さんにほんの少しだけ興味を持った。
会話もなく、終始無言のまま互いに見つめ合う。蝉の鳴き声が妙に大きく聞こえ、いたたまれなくなった私はつまらない話題を持ち出すが、それも長くは続かない。
しかもふたりはなにを言っても真顔を貫くので、私はとてつもなく居心地が悪かった。麦茶を飲んだら早くお帰り頂こう。私は膝の上に置いた拳をじっと見て、時が過ぎるのをひたすら待った。緊張と暑さで首筋に汗が流れ、それを手の甲で撫でるように拭くと、突然あちらが口を開いた。
「鶴見中尉の娘さんだから変な方だと思ってましたが、意外と普通ですね」
どちらかは忘れたが、片方が言った。弾かれたように顔をあげれば、やはり表情の変わらないふたりがいた。それきり黙ってしまったので、切り返しに困った私は引き攣った笑みを浮かべ、
「羊羹、好きですか」
と口にしてしまった。しかも返辞は、
「そんなには」
それにたいして片方が「え」みたいな顔をしたから、私は少しだけ笑うと、ふたりに水羊羹を出した。人前で笑うなんて久しぶりだ。鬱々した気持ちが消えて、心も軽い。ふたりの兵隊さんは私の顔を穴が空くほどじっと見つめていた。
結局、ふたりは水羊羹を三切食べた。やがて満足げに腰を上げ、帰り際にふたりは「こっちが浩平で」「こっちが洋平です」と言い残し、今度こそ帰って行った。名乗るのが遅いわよ……。ぼやいた私の声は風鈴の音によって掻き消された。
彼らは週に一回、家にやって来るようになった。
そして一度だけ、彼らに贈り物をもらったことがある。
「万華鏡と……双眼鏡?」
「いつも外眺めていますし、同じ景色ばかりでは飽きると思って」
「ああ……」
「ほら見ろ浩平。女性は双眼鏡なんて貰っても嬉しくないって言っただろ」
「洋平こそ。万華鏡なんて子供の玩具だろ」
頭上で不穏な空気を感じ、慌てて口を挟む。
「あっ、いえ。どちらもとても嬉しいです。ありがとうございます。双眼鏡もですが、万華鏡なんて幼い頃父に買ってもらった以来です……懐かしい……その、大事にしますね」
*
「いつも家にいるんですか」
縁側に座り、風鈴の涼しい音を聞きながら何気ない話をしていると、洋平さんの隣にいた浩平さんがふと思いついたように訊ねてきた。
途端に、私は言葉に詰まった。私が外に出る機会なんて買い物と早朝の玄関掃除のときくらいなもので、あまり触れられたくない話ではあった。
それにしても、いつ嫁に行ってもおかしくない年頃の女がずっと家にこもりきりだなんて。私が雌のミノムシのようになってしまったのは亡き母と頭がおかしくなった父のせいだと少なからず思っていた。けれどもそれは殻を破ろうともしないやつの都合の良いいい訳であり、世間一般からしたらただ甘やかされた出来の悪い娘でしかない。穀潰しと言われても仕方ない身分であることが急に恥ずかしくなった私は膝に視線を落としながらぼそぼそと答えた。
「ええ、まあ……」
「つまらなくないですか」
「散歩くらいなら行きますので……ひとりでいたほうが気が楽です、し……その……」
もごもごと口を動かしているうちに会話は途切れた。風鈴の音のだけが静まり返った場を和ませようとして懸命にちりんちりんと鳴り響く。そこはかとなく気まずさが流れるなか、いままで口を噤んでいた洋平さんが口火を切った。
「……お天道様が出てるのに外に行かないなんてもやしになっちゃいますよ」
視線を上げると、隣には表情の乏しい顔があった。無表情である彼の横顔がどことなく得意げに見えるのはなぜだろうか。
「もやし……?」
「ガキの頃よく親に言われませんでしたか。暗い所にいるともやしになるぞって」
「……どうでしょう、父は言いませんでしたね。ふふ、もやしになるぞだなんて、面白いご両親ですね。きっとお二人はお日様の光をたくさん浴びたから、こんなにも背が大きくなられたんでしょうね」
「実は洋平の方が少し小さいんですよ」
「嘘つくなよ浩平」
「ふふふ」
洋平さんの気遣いに有難さを感じつつ、私は己の身の振り方について考えるようになった。
二階堂さん達と親しくなりつつあった十月のある日。私は彼らに求婚された。あら面白い冗談ねと笑い飛ばそうとしたが、二階堂兄弟の顏はどうみても冗談のそれには見えず、私は黙するしかなかった。
そりゃあふたりは意外にもお喋りが得意で、時折冗談を交わしては私を笑わそうとしてくれたので嫌な印象はない。けれどもそんな突拍子もないことを告げられても……と困惑する私を余所に、
「鶴見中尉が娘のことを気に入ったならふたりにやるって。なあ洋平」
「ああ、浩平」
ああ、なるほどと思った。父は誰でもいいからとにかく私を娶ってくれる男を探していたのだ。だからふたりをここに寄越した。それほどまで私を追い出したいか。私は落胆し項垂れた。お父様は一体なにを考えているのだろうか。娘である私にもさっぱりわからない。
私は畳の目を数えるふりをして「いいですよ」と二階堂兄弟に返した。途端にふたりは表情を明るくさせ、嬉しそうにお互いの顔を見やる。
「みかんは好きですか」
「ええ」
「俺と浩平、どっちと先に結婚する?」
「……どうでしょうね」
「ふたり一緒にしよう」
「……そうですね」
共に生を受けた双子ってどっちが先に死ぬのだろうか。そんなことを考えながら、私はひぐらしの鳴き声をぼんやりと聞いていた。
「また来ます」
「はい」
「さようなら」
「ええ……さようなら」
それきり、二階堂兄弟はぱったりと来なくなってしまった。なぜかは知らない。もしかして何か事故にでもあったのではと心配になり、思い切って彼らに手紙を書いて送ってはみたが、梨のつぶてだった。
頭に残る二階堂兄弟の顔が徐々に薄れていき、なんだかうら寂しい気持ちになった。ふたりを区別するのにあれほど苦労したのに、こんなにも簡単に忘れてしまうとは。
山を越えて降りてくる冬の風が体の芯をこれでもかと冷やし、温まっていた心までもが氷のように凍てついていく。
そういえば、二階堂兄弟は冬になったらみかんをたくさんくれるって言っていた。実家が静岡だから冬になるとみかんがたくさん送られてくると、郷愁の念の強さを感じさせる口調でふたりが語っていたのを思い出す。
「冬が終わるころには食い飽きたなあて思うのに夏が来るとまた食べたくなるんです」
「へえ、ご実家のみかんはとても美味しいのでしょうね」
「今年の冬も腐るほど送られてくると思うし、今度名前子さんにも持ってきますよ」
「ありがとうございます。ふふ、楽しみです」
今年のみかんはどこで買おうか。箱で買ってもいいが、それだと底にあるみかんがだいたいかびてしまうから、今年はお隣さんに分けよう。
みかんは冬がくれる素敵な贈り物だ。
みかんの皮を剥くときにも各自性格が表れるといもので、私は人が食べるみかんの剥き方を観察することが妙に好きだった。
人様が食べた皮の残骸がその人の内面を表しているようで楽しいと父の膝の上に乗り、こっそりと伝えれば、父は叱ることなく盛大に大笑いして、みかんの皮をこれまた大胆に千切り、私に渡してきた。いつもはこんな剥き方をしないくせにと言ってやれば、知らん顔で私の口にみかんを押し込んでくる父の目つきは実に愉快気だった。
その父は積み重なる人の死骸を眼前に、どうやってここまで命を繋いできたのだろうか。死屍累々とは程遠い庇護下で暮らしてきた私には到底想像もできないが、きっと二階堂兄弟がいたら、あの戦争のことを聞けたのかもしれない。私はまた遅すぎたのだ。
私は宝物が入っているお気に入りのつづらに双眼鏡と万華鏡をを仕舞おうと蓋を開けた。仕舞う前に一度だけ、と万華鏡のちいさなのぞき穴を覗く。広がる異空間の世界。キラキラと踊るように形を変えるその美しさは幼い頃から私の瞼に焼き付いて離れない。
ずっと見ていると目の奥がチカチカして、私は筒を回す手を止めて、目頭を擦った。しばらくぼんやりとしていれば急に脱力感が襲い、萎んだ紙風船のように気を沈ませた私は万華鏡をつづらの中に転がした。
旭川が冬景色になっても二階堂兄弟が私に会いに来ることはなかった。
2018*0608