闇の中に閉じ込められた。それが、彼が眠れなくなったときの常套句であった。
山姥切が枕を片手に、私の部屋までやって来た。寝ていたところを叩き起こされた私は、うまく働かない思考回路をなんとか繋げて、こくりと頷く。
闇の中に閉じ込められたと言うが、彼はただ睡眠を取っていただけだ。
慣れぬ人間の器に戸惑い、困惑する山姥切のために、私は人間のいろはを必要最低限教えてきた。彼も時折疑問符を浮かばせてはいたが、素直に話を聞いてくれた。
山姥切が案外すんなりと人間の営みを覚えてくれたのはいいが、彼にもひとつだけ、どうしてもできないことがあった。
「眠れないの?」
「眠れない」
それは睡眠だった。・・・・・だった、だ。すでに過去形であることを忘れないでいただきたい。
山姥切は滑り込むように部屋へ入ると、障子を閉めて私のところへやってきて膝をつく。そして彼はさも当然のように布団の中へ潜り込んでくる。
一人用の布団なので私は片隅へ追いやられる形となる。自分の片足が布団からはみ出てしまうのも慣れてしまった。
「まんばちゃん、何度も言ってるけど、そろそろひとりで寝てね。明日はもう一緒に寝ないからね」
返事はない。いつも頑なに取ろうとしない布も、いまは被っていない。露わになったその美しいかんばせを、私はもう何度も見てきた。肩肘をたてて、山姥切の肩に毛布をかけてやり、寄り添うように寝転ぶ。
「ん」
山姥切が私の胸に顔を埋めて、甘えるように額をくっつける。きらきらと輝く金の髪を撫でてやれば、薄く瞼を開けて私の方を見た。
もっと、という催促だ。
私は仰向けにしていた体を横にして、山姥切の頭を抱え込むように、彼を抱き込んだ。
これは寝るのが怖いと訴えていた山姥切のために私が仕方なく行っていた対策であった。幼い子をあやすように抱きしめて頭を撫でてやれば、彼は次第に夢の中へ誘い込まれてしまう。
最初は少し恥ずかしそうにしていた山姥切だが、そんなものは一週間で吹っ飛んだらしい。今ではこれがないと眠れないと我儘を言うくらいだ。
「子守唄、歌ってあげようか」
「いらん」
「どうして。歌ってあげるよ?」
「いらないと言っているだろ」
「いたた、わかったからそんなに強く抱きしめないでよぉ」
「あんたが悪い」
「んもう、すぐそういうことする、ふ、ふはっ、あっはは、擽るのもっ、んっふふ、だあめ」
脇腹を擽られて身体をよじる。山姥切の背中をペシペシと叩き、止めてと訴えるが効果はない。
初めて出会ったころ、お互いにうまくコミュニケーションが取れなくてもだもだしていたのが嘘みたいだ。
いい加減擽るのを止めて欲しいので、山姥切の脇腹に仕返しをする。すると彼は大げさなくらい身体をビクつかせて「んふ」と声をあげた。
間抜けな声。反撃をくらった山姥切は顔を赤くしながら私を睨んでいた。けど全く怖くない。
「主のくせに生意気だぞ……」
「え、なにそれ」
「主のくせに」
「主だよ」
「主」
「山姥切のくせに」
「なんだそれ」
「山姥切」
「ああ」
「山姥切」
「なんだ」
「まんばちゃん」
「だから、なんだ」
「ふふ、なんでもない」
まんばちゃん。山姥切。国広。彼の名前を確認するように紡ぐ。
枕に頬を押し付けながら笑うと山姥切も少し、笑った。柔らかい碧の眼差しが私の目を射抜く。卑屈なくせに、その碧い瞳だけは、いつも私を真っすぐに映してくれる。しばらくの間見つめ合っていたが、なんだか照れくさくなって「んふふ」と吐息混じりの変な笑いを喉の奥から漏らして誤魔化した。
枕に顔を埋めて視線を逸らす。右足を前に動かすと、山姥切の脛にあたった。山姥切の足が私の足を軽く蹴る。
全く痛くないのに痛ーいと言えば鼻で笑われた。ねーねー、痛かったー。人差し指でしつこく山姥切の肩を小突くと、手首を掴まれて布団の中に仕舞われてしまった。
「もう寝ろ」
「えー」
「寝ろ」
「…………」
「俺も寝るから」
「……私はもう眠れない」
「…………」
「山姥切が起こしたせいだ」
「……悪かった」
山姥切が悪びれた様子もなく謝る。瞼を縁取る長い睫毛に惹かれて、山姥切の目尻に指を這わす。そのまま流れるように白い頬、顔の輪郭をなぞる。そうしているうちに、山姥切の手がこちらに伸びてきた。
真似をするように、私の目尻、頬に触れていく。指は唇まで下りてきて、止まった。先程私が彼にした手の動きが全部同じで、まるで鏡みたいだな、と私は思った。私は山姥切みたいに美しくはないけれど。
そう、この刀は私のものだった。美しくて強くて誰よりも大好きな神様。こんな私の側に、ずっと一緒にいてくれた。
「子守唄でも歌ってやろうか」
突然、山姥切が言った。不意を突かれた私は、えっ、と困惑した。私の反応を見て、山姥切がくつくつとおかしげに笑うので、ムッとしながら、いらないと答える。本当はちょっとだけ歌ってほしかったが、素直に言えなかった。
障子越しから射し込む月明かりが、山姥切の顔を照らす。ふたつの碧い海がきらきらと輝いて吸い込まれそうになったが、それもすぐに消えた。私は瞼を閉じた山姥切の旋毛に顔を埋めて、金の頭を抱え込むようにして抱きしめた。
山姥切も、私の背に手を回す。体ごと縫い合わされるような、そんな抱きしめ方に、胸がぎゅうっと締め付けられてた。強く抱きしめられているわけじゃないのに、なんだが息苦しい。
「明日……」
「ん……?」
「明日、俺がまだいたら、起こせ。すぐに出ていく」
「……うん」
「……明日からはもうひとりで寝るんだぞ」
「……なにそれ。それ、私の台詞なんだけどなあ」
山姥切がうつらうつらと微睡み始める。声も眠たげだ。そろそろ限界なのだろう。ワンテンポ遅れて、
「ああ……」
と山姥切が頷いたので思わず笑ってしまった。
「…………」
「……おやすみ」
山姥切はそれを最後に、喋らなかった。やっぱり私は眠れなかった。
しばらくして、時計の針がカチリと動く。本丸の玄関先にある振り子時計がボーン、ボーン、とないた。
夜の帳が下りてから、ようやく12時になった。
遠くに聞こえる寂しい音が、本丸の最後を告げる。私はその音を聞きながら、ずっと一緒だった刀を指先で撫でた。そこにあるのは熱を持たない一振りの刀。私は指先に残っていた彼のぬくもりを奪われぬよう、そっと手を離した。
最後にあった背中の腕も、初めからなかったかのようにあっけなく消えた。
山姥切は、もうひとりで眠れるだろうか。また私を探しにきたりしないだろうか。山姥切は、どこにいるのだろうか。
緩やかに繋がれていた糸がぷっつりと切れた。そんな感覚に、ふと襲われた。言いようのない寂寥が広がる。
ああ、さびしいな。
「時間が巻き戻ったりしないは、しないかあ……」
ひとりごちるが、返事はない。誰もいないのだ、当然である。
私はこみ上げてくる悲しさを自嘲するように、ふふ、と微笑む。そして、胸に詰まった想いを吐露するように大きく息を吐いた。
さあ、私もそろそろ寝よう。
「……おやすみなさい」
こうして、私は誰もいない本丸の片隅で、いつかやってくる朝の光に少しだけ怯えながら、ひとり布団の中に取り残された。
――――x月x日。12時01分。
歴史改変を目論んだ敵が滅びた日の、初めての夜。この本丸にいた最後の刀、打刀、山姥切国広の顕現が解かれた。
残ったのは、夜の闇に飲み込まれたひとりの審神者のみ。
明日、私はひとりで眠れるだろうか。