世間が慌ただしく動き出した午前9時。
今日も今日とて、私は学校へととぼとぼと向かう。その足取りは鉛の如く重い。さほど汚れていないスニーカーのかかとを睨みつけながらアスファルトを踏みつける。
私の横を忙しなく追い抜くサラリーマンやOLの背中を何度も見送ると、ようやく公園の前までやって来た。人気のない公園を通り過ぎると十字路に差し掛かる。そこの曲がり角を右に行けば目的地である学校が見えてくる。
そこまで行くと私の気分は一気に急降下する。お弁当と携帯、リップクリームと手鏡しか入っていない寂しいポーチが鞄の中でぶつかり合い、ゴツンゴツンと喧嘩している。
学校まであと少し。鞄の持ち手をぎゅっと握りしめる。そこで、いまさら指先が冷たいことに気付いた私は鞄の中を漁り、温かい手袋を探す。が……しまった。手袋を持ってくるのを忘れた。さきほどまでは寒さなんて気にならなかったのに、防寒具がないとわかると一気に体温が下がったような気がする。それが私をさらに憂鬱な気分にさせた。
はあ、とため息をついて、足を前へ前へと進ませる。とうとう学校の正門まで到着し、私を歓迎するチャイムの音が鳴り響いた。
ああ、一時限が終わってしまった。確か私のクラスの授業は数学だったはず。数学は嫌いではない。だが数学を担当している、いちいち嫌味の多い教師が苦手だった。あの意地悪そうな顔を思い出すだけで歩くのも億劫になる。
仕方ない、後で友達にノートを写させてもらおう。
上履きを履いて教室へ向かう。扉の前に来て私の足は止まった。扉で隔たれている向こう側へ行く瞬間が苦手だった。大きく深呼吸して扉に手をかける。ぐっと引けばごたごたとしたいつもと変わらない教室が目に飛び込んできた。
私は一歩、足を前へ踏み出しその騒音の中へ飛び込んだ。
*
ようやく放課後になり、私は足早に教室を後にした。
スニーカーに履き替えて、さっそく正門を出る。
朝とは違ってすっきりした気持ちだった。気分が軽い。思わず鼻歌でも歌いたいほどに。私は鞄からスマホを取り出し、イヤホンを差し込んだ。音楽でも聞きながら歩こう。スマホの画面をタッチしながら歩いていると、突然背後から肩を叩かれた。
「名前子!」
明快な声で名を呼ばれて振り返る。
「ああ……」
「ああ、じゃないよ。ねえ、なんで今日遅れて来たの?具合でも悪かったの?」
話しかけてきたのは同じクラスの友人であった。
美しい黒髪を揺らして私の顔を覗き込んでくる。彼女の黒い眼が探るように細められて、ドキリろ心臓が跳ねる。
私は緊張が悟られないように口角を上げ、彼女に愛想笑いを向けた。
「ああ、ごめん……そう、具合が悪くて」
「そうなんだ! 駄目だよちゃんと体調管理しなきゃ」
私は彼女が苦手だった。できれば避けて生きていきたいがそうもいかない。理由としては、彼女と私が親戚同士で幼馴染だからである。
仮に彼女の名前をA子としよう。
A子は天真爛漫で誰にでも分け隔てなく接するクラスのリーダー的存在である。運動神経は抜群だが学力は平均ラインのようで、よくここがわからない、あれはどうやってやるのなど私に教えを請いに来る。A子が苦手な私だが、NOとは言えないのが私である。私は毎回言い淀みながらも、渋々頼みごとを引き受けるしか選択肢がなかった。
A子は卵型の顏に意志の強さを爛々と表す大きい黒い瞳を持っていた。それはまるで勝気な猫を思わすもので、その目力に圧倒されたのは一度や二度ではない。だから私は彼女の頼み事が断れないのだ。しかもその上には縁無しの眼鏡がかけられていて、それがA子の印象をさらに強くさせていた。
つまり、私は一方的にA子が苦手だ。
「ねえもう帰るの? ちょっと遊んでかない? あ、あとこの前教えたあの曲、もう聞いた?」
私の気持など露知らず、A子はにこやかに話し続ける。早く何処か行ってくれないだろうか。そう思いながら適当に笑みを浮かべながらA子の誘いをどう断るか考えていた時、後ろから男の声が投げかけられた。
振り向けば、同じ高校の制服を身に着けた男子学生がいた。
「A子! 今帰り? 一緒に帰ろうぜ」
ぺたんこの鞄を持った男がそう言うと、A子はすぐさま「うん。帰る帰る!」と返した。
背を向けるA子にホッと胸を撫で下ろすと男がこちらに視線を寄越した。そして、友達?とA子に訊ねる。
A子は、
「そうだよー、幼馴染なの」と男を見上げながら髪を弄ったいた。疑問だが、どうして女子はみんなああやって前髪や髪の毛を頻繁に弄るんだろうか。不思議だ。
心ここに非ずの状態でぼんやりとA子を見ていると、男はA子の方に視線を戻し、
「なんかぼーっと奴だなあ」と鼻で笑い、靴底を地面に擦りながらだらしなく歩きだした。男が横を通り過ぎるとき、一瞬だが私を値踏みするような目を向けた。そしてなぜかニヤニヤと笑い、「ばいばい」と手を振った。その口元が下品な笑みを作っていたことに私は嫌悪し顔を背けた。
それを見ていたA子も「そんなこと言っちゃだめだよ」と軽く男を咎めるだけで、その後は私の方を一瞥し、ふふふと笑うと、男の後を追いかけた。しかも背を向ける直前、私に手を振るというありがたくないサービスも置いて。
彼らとのやりとりはそう長くないはずだ。恐らく五分程度。しかし私はその数分の間だけで私は非情に不愉快な思いを味わされた。あの男もA子の顏もさっさと忘れたい。早く、早くあの場所に行かなくては。
私はふたりの笑い声を背に、その場から逃げるように立ち去った。
*
左には二階建てのビル、右にはコンビニ。その間にある古い二階建ての家。鶯色の屋根が目印のそれが、私は好きだった。昔は古本屋だったため、作りはかなり年季が入っている。外の窓から室内を覗き込み、中の様子を窺う。
「いるかな……」
私は入り口のドアを押した。入り口はガラス張りで、掃除をしてないガラスはかなり汚れている。
中に入れば、ちりんちりんと来客を告げる鈴の音が頭上で鳴った。心地よい音に自然と笑みが浮かぶ。
元は古本屋だけあって、室内は背の高い本棚が五列ほど並んでいる。文学書、歴史書、さまざまな本が所狭しに並んでいて、私はこの場所に来ることがなによりの楽しみだった。
室内は暖房が効いていて、やわらかい温かさに包まれると寒さで強張ってきた肩の力が徐々に抜けていった。先ほどまであった苛立ちや嫌悪の塊も、魔法にかけられたようにすうっと溶けた。
私は心地よい空気に酔いしれながらもなんとかドアを閉めて、家の奥に声を掛けた。
「先生……先生?」
古書が並ぶ本棚の間から呼びかけるが返事はない。そのまま奥へ進む。懐かしさを感じる本に見下ろされながら、私はある人物を探す。
誰も使われなくなったレジが置かれている、これまた年季が入った古いカウンターがある奥まで来たが、彼はいない。
もう一度、先生と呼ぶ。やはり返事はやってこない。やれやれと再度呼びかけようとしたとき、二階から足音が聞こえてきた。ギシ……ギシ……と天井が鳴る音に慌てて身だしなみを整える。
レジのすぐ側にある階段から、長い足が見えて、やっと待ち望んだ人物の顔が表れた。しなやかな動きで一階に降りてきた彼は私の姿を捉えると微笑した。
「先生」
「ああ、いらっしゃい。よく来たな」
鶯色の髪、若苗色の瞳。その下には整った顔立ちがあり、背筋は天井から吊るされているように人形のようにピンと美しく伸びている。
初めてこの人を見たとき、彼はきっと神様なのだと思った。それくらい私の心はこの人に惹きつけられた。
「はい……先生、やっぱり一階に誰もいないなんて不用心ですよ」
本が盗まれちゃいますと、これは何度も注意していることだが彼は全く聞こうとはしない。今だって笑いながら
「仮に盗んだとしても二束三文だろうな」
と言うのだから。
私はそんな、とかぶりを振った。
先生は笑みを深めるとカウンターの前に座った。
「で、どうだった?」
「あ、はい」
鞄の中から一冊の赤い本を取りだして先生に渡す。これはこの店に置いてあった本であるが、先生のご厚意により無料で貸し出してくれている。最初は申し訳ないから買うと申し出たが先生は頑なに首を振った。根負けした私が何度か先生の元に通った結果、とうとうここの常連客となった。
そしてなぜか、先生と感想を言いあう中になった。
「いえ、だってこの主人公、人の彼氏を奪っただけでも許せないのに後からになって「別れましょう」だんて・・・・・・都合よすぎません? 人の事散々引っ掻き回したあげく男の人をポイッてゴミみたいに捨てて最低・・・・・・とか思っちゃうんですよね・・・・・・」
先生がなるほどと頷いた。
感想会と言いつつ、私が一方的に話しているだけだ。こんな話を聞いて楽しいのかと疑問に思うが、先生が笑って耳を傾けてくれることが嬉しくて一生懸命話を繋いで喋り続ける。
「はい。結局主人公は亡くなっちゃいましたけど、自業自得の結末だと思います……けど先生、先生も恋愛小説とか読むんですね。しかもこれ、まるで携帯小説みたいな感じしません?」
「本はジャンル問わず何でも読む方だ。気になる本があったらととりあえず買って読む、そんなことを繰り返していたらいつのまにかこんなに集まってしまってな」
先生は大量の本たちをぐるりと見渡しながら感慨深い顔をした。
「そこにある本なんてずっと昔の物だぞ。いまでは絶版している」
「え、どれです?」
「あれで、目の前にある本棚の一番下に置いてある・・・・・・ああ、行きすぎだ。そう。それだ」
本棚から一冊の本を指さす。かなりの古書らしく、タイトルの一部分が消えかけている。
「見てもいいぞ」
「いいんですか? 大事な本じゃ・・・・・・」
「いいんだ。人に読まれないで仕舞われ続けるのも可哀想だからな。読んでやってくれ」
「じゃあ・・・・・・」
そろそろここの本もなんとかしないとなあとぼやく先生を一瞥してから表紙に目を落とす。紙はだいぶ古くなっていてかなり年季が入っている。ひっくり返して背表紙を見る。裏にはなにも書かれていなかった。もともと真っ白な装丁だったらしく、残念なことに少し焼けてしまっていた。
表紙を捲り、出だしを読む。五行ほど読み、親指で適当に真ん中のページを開く。そこでまた三行くらい読む。そして最後のあとがきの部分に移る。・・・・・・どうやら私には向いてない本のようだ。文体が読みにくく、小難しい言い回しが多い気がする。私の頭では理解できない一文が多すぎる。
本を閉じてそっと元に戻そうと背の部分を押して棚に置いた。
すると、向かいの本棚で何か作業をしていた先生がこちらに顔を出した。
「それはきみにあげよう」
作業を終えた先生が、カウンターの椅子に座りながら言った。私は「え!」と飛び出そうになった声をなんとか喉に留めた。
「いえ、もらうのは……あの、じゃあいつものように借りますね」
「もらってくれないか」
「えっと・・・・・・申し訳ないのでそれはちょっと」
「どうしても?」
「う、ううん・・・・・・」
やけにこの本を押し付けてくる先生に困惑した。たまに先生は私が気に入った本を与えようとする。それは幼い子にいらなくなった絵本をあげるのと同じニュアンスだった。だが何度か断るうちにそれも言われなくなり、図書館のように貸し借りが当たり前になっていた。
「でも絶版なんでしょう? かなり価値があるのでは・・・・・・」
「俺にとっては、な。だがいつもでも同じ人間が持っていても仕方ないだろう。読まれない本に意味はない」
「そんなことないです」
先生はふふと唇に笑みを乗せて目を細めた。
「そうなのか? 本当に?」
子供に答え合わせをしているような問いかけだった。その表情にぎくりと心臓が跳ねる。困惑の陰から怯えの感情がそっと顔を出して、じわりじわりと私を侵食していく。
「い、いえ・・・・・・あの・・・・・・」
私が返答に困っている間、先生は頬杖をつきながらレジの横にあるペン立てに目を落とし、おもむろに手を伸ばした。先生の長い指先がペンの上で彷徨い、適当に赤いボールペンを取った。赤いペンは先生の手の中で弄ばれ、くるくると踊らされる。先生は答え合わせをする教師のような目付きでじっと私を見つめた。
その力強い若苗色の目が私の目を捉えた瞬間、思わず全身が強張った。本を持つ掌に脂汗が滲み出る。
なにか言わなければ。どの答えが正解かな、どうしよう。
悩みに悩んで選んだ答えは。
「あ、ありがとうございます・・・・・・大事にします」
「・・・・・・そうか。よかった。もらってくれて」
先生は瞼を閉じて微笑しながら言った。先生がほんの少し気落ちしたような顔を見せたのは気のせいだと目を逸らした。
「じゃあ、そろそろ失礼します」
「ん、帰るのか」
「はい。本、ありがとうございます。大事にします」
「ああ、そうしてやってくれ」
「はい。さようなら」
先生が納得する態度と答えだっただろうか。わからない。はっきりしない子だと思われていないだろうか。
先生の反応に不安を抱きながら、私はそのまま後ろ髪を引かれる思いで店のドアの取っ手を引いた。
「名前子」
先生に呼び止められ、足を止めて振り返る。
先生は微笑んで手を振っていた。
開かれたドアから冷たい風が吹き込み、先生の髪を揺らした。先生が目にかかった髪を指先でどかし、微笑しながら「外は寒いな」と伏し目がちに呟いた。長い睫毛が瞬いて、まるで鳥の羽根のようだった。
私はその美しさに目を奪われて、はっと息を飲んだ。
やっぱり神様みたい。
「どうした? ああ、外は寒いし茶でも飲んで温まってから帰ってもいいんだぞ」
「いえ・・・・・・あ、大丈夫です・・・・・・」
力の抜けた手でなんとか手を振り返す私は先生の目にどう映っただろうか。
「さようなら・・・・・・鶯丸先生」
「さようなら。またな」
店の外のドアの横に貼られている「鶯丸」と書かれた表札を見つめながら、せめて少しでも奇麗でいたくて、私はA子のように前髪を整えながら店を後にした。
ーーー
過去作のうぐさに。