先生は完璧であった。
無駄のない美しい所作に作り物のような容貌。天才が作り上げた最高傑作の球体関節人形であると言われても「ああやっぱり」と私はすんなり信じてしまうだろう。
「でも君、ああいう人形は好まないと前に言っていなかったか?」
奥からヤカンを沸かす音がする。
私はカウンターの横の椅子に座りながら、奥の簡易台所でカセットコンロの火を止めている先生の背中を見つめたまま、話を続ける。
「言いました。でも綺麗だなとは思うんです」
「買ってやろうか」
先生が沸いたヤカンの湯を急須に注ぎながら、からかうように言った
「いらないです」
「そうか」
「はい」
「ああ、今度一緒に洋画でも観ないか。ホラーなんだが」
「ホラー……あまり得意じゃないですね。どういう映画なんですか?」
「人形が動き出して持ち主を襲う。確かタイトルがチャ、」
「いやです、嫌です。それ私が苦手だって言った映画じゃないですか! 先生ったら嫌なこと言いますね!」
怒る私を横目に、先生が肩を揺らしながら笑った。そこで会話は途切れた。
その合間に私は手で口元を隠し、だらしなく緩む頬をぐっと押さえていた
鶯丸先生は球体関節人形のように奇麗だと思い切って伝えたところ、意外な嬉しさが見つかった。
彼は私が前に人形はあまり好まない話をしたことを、きちんと覚えてくれていたのだ。どうでもいいことはばっさり切り捨ててしまうところがあるから、先生は相手が何気なく話したことなんてすっかり忘れてしまっているだろうと、私は勝手に思っていた。
「さあ、茶が入ったぞ」
奥から先生が戻ってくる。お盆を持っていて、その上には湯呑みと茶菓子が載せられている。
「ありがとうございます」
「茶菓子もあるぞ」
「わ、ありがとうございます。美味しそう」
食べやすい大きさに切られたつるりとした羊羹を見て、思わず声が弾む。茶托に載せられた湯呑みを覗き込めば、茶柱が立っていた。
「茶柱だ」
「縁起がいいだろう」
「はい。ふふ、すごい。私初めて見た、嬉しいです」
「それはよかった。テスト勉強頑張れよ」
テーブルの上に広げられた教科書とノートに目を落とし、先生は柔和な眼差しを向けてくる。
この家の一階の、カウンターのすぐ横にある小さめの四角いテーブルで勉強することが、私の密かな楽しみだった。それは試験前だけの特別な時間であり、いつもより長く先生と同じ空間に居ることができる貴重なひとときである。
事の始まりは私が中学二年生の時。
先生に何気なく数学の問題集の解き方を訊ねたときであった。先生もわざわざ「教えてやろう」と言ってくれたのでお言葉に甘えてしまった。それはもう心底丁寧に教えてもらい、先生のこともすっかり忘れて、私は黙々と問題を解き続けた。はっと気付けばもう外は薄暗くて、その日の帰りは先生が途中まで送ってくれた。先生と肩を並べて歩くことに浮かれてしまってみっともなく転びそうになって、すごく恥ずかしくて――――。
そこで、はたと思い出す。
そうだ、その時期から私は鶯丸さんのことを「先生」と呼ぶようになったのだ。
数学の教え方があまりにも上手くて、私が冗談めかし「先生」と呼んだことが始まりであり、先生も可笑しそうに笑っていたからそのまま使い続けた。
「先輩」より「先生」らしいから、と。
言葉遊びのように私は笑いながら鶯丸さんを何度も先生と呼んで、先生も眼差しの中に柔らかい甘さを含めて微笑みながら私の手に触れて――――。
「・・・・・鶯丸様って、先生みたいです。また戦術について教えてくださいね」
突然紡ぎだされた言葉に、誰よりも驚いたのはそれを口にした自分自身だった。
訳が分からず、ぽかんと口を開けて先生を仰ぐ。先生も面食らって私を凝視している。
「・・・・・・あれ? え、ええ?」
慌てて先生から目を逸らしてこめかみに指を当てる。
戦術とはなんだ。おかしなことを言ってしまった。かあっと羞恥で赤くなる頬を隠そうと髪の毛を弄りながら俯く。
「ごめんなさい、変なこと言いました、あの気にしないでください。私、ちょっと疲れているみたい、で、」
口早にそう言うと、先生がいきなり私の手を奪うように掴んだ。いつもと違って荒々しい所作に驚いて、パッと顔を上げる
「あの、せんせ・・・・・・」
あまりに強引な掴み方に、おずおずと顔を上げた。その刹那、私は再び先生の空間に閉じ込められた。
例えるならば、それは私の中にある血も肉も細胞も全部奪われたような感覚だった。
先生の唇に私の手の甲が当たる。ふるふると震えている薄い皮膚から冷たい戦慄が走り、脳天から爪先まで支配する。
「名前子」
名を呼ばれるだけで心臓が鷲づかみされように息が苦しくなる。先生がなにか不思議な魔法でもかけたのではと疑うほど、私の神経は研ぎ澄まされていた。
私の全てが先生によって支配されている。それは背筋が震えるほど恐ろしくて、けれど幸福だと感じずにはいられない。その形容しがたい感覚に捕らわれながら、私は神様の頬を滑る雫を、若苗色から流れる美しい宝石に魅入られずにはいられなかった。
その日、先生が流した涙の意味がわからないまま私は家に帰された。
後日、先生のもとを訪れても彼はいつものように飄々と振る舞っていた。問いだすことも許さないと先生の背中が拒絶しているようで、私もそれ以上言及することはできなかった。
先生が流した涙は幻だったのか。どんな宝石よりも輝くあの雫は私の手の甲に落ちて壊れてしまった。
私は先生の唇に触れた手の甲に、己のそれを合わせた。