土曜日の午後、空はあいにくの雨模様。
それでも私は先生の家に足を運んでいた。この前貰った本はまだ十ページの三行目で止まっている。本に挟んでいる栞が紙の間から顔を出して、早く読めと日頃から訴えてきているが、なかなかその要望には答えられずにいる。
「綺麗なバラですね。どうしたんですか?」
いつもは殺風景なカウンターに、めずらしく先客がいた。白い花瓶に赤いバラが一輪。しかも茎には緑色のリボンが結ばれている。可愛らしく洒落込んでいるバラに微笑めば、先生がいつものように茶を煎れながら
「もらったんだ」
と言った。
誰にとは言わない先生に、へえと相槌を打つ。頷く声のトーンが僅かに低くなったことに、先生は気づいていない。私に背を向けたまま、茶に熱い視線を送っている。
赤いバラの花言葉を、先生は知っているのだろうか。きっとこの花を贈った人は、先生にその意味が伝わるように淡い期待を抱きながら、このリボンを結んだに違いない。
先生のことを想いながら選んだであろうバラに見知らぬ女の影が浮かび上がる。
頬を染めて、瞳を輝かせながら先生にバラを渡す女の顏はうっとりととろけている。甘く染め上げたその瞳に先生の顔が映るだけで、私は女の両目を潰してやりたくなった。
持っているバラを握りつぶして「先生はお前のものにはならない」と凶弾してやりたい。
「茶が入ったぞ」
コト、と音をたてて、先生が湯呑をカウンターに置いた。嫉妬のあまりくだらない妄想に耽っていたようだ。先生が関わればたった一輪のバラでさえ憎いと思う自分に嫌気がさす。
難しい顔をして突っ立っている私に、先生が不思議そうな顔で椅子に座るように促してくる。私はなんとか先生に笑みを返して、椅子に腰を下ろした。
「そのバラ」
先生も向かい側の椅子に腰を下ろすと、バラに視線をやりながら言った。
「よかったらきみにあげよう。女性は花が好きだろ。今日貰ったから、しばらくは綺麗に咲いてくれるはずだ」
先生が愛おしそうにバラの花びらに指を這わす。まるで女性の頬を愛撫するような仕草に、そわりと背筋に黒い物が這い上がった。
「いらないです」
思いのほか冷たい声音が出てしまった。気を悪くさせてしまっただろうか。
そんな心配を余所に、先生は私の態度なんか無関心といった様子で「そうか」と頷いた。バラの花びらに当てていた指が、そっと離れる。
先生の後を追うように、バラが名残惜しげに揺れた。
「そうやって」
「え?」
しばらく沈黙が続くと、先生が湯呑を持ち上げながら、ふと口を開いた。私は弾かれるように顔を上げる。
「読みたくない本も素直に断ればいいのにな」
一瞬、言葉の意味が飲み込めなかった。
一拍置いて、何度か言葉を反芻して、ようやく理解した。瞬時に血の気が引いた。頭から冷水を浴び去られたような怖気が走る。私はいたずらがばれた子供のように、顔を下に向けて視線を彷徨わせた。
先生はいつもように澄ました顔で、湯気の立つ茶にふうふうと息を拭きかけているようだった。まるでどうでもいいことのように告げられたことにもショックだが、それ以上に先生に嘘がばれていたことに対して動揺が隠せない。
なんて釈明したらいいかわからない。喉がカラカラに乾いて音が出てこない。
「別に責めているわけでも怒っているわけでもないぞ。ただ、きみがあっさりと断ってきたから不思議に思っただけだ。俺があげようとする本は少し躊躇してから断るだろう。少し前の事だが、俺が使っていた栞をきみにあげようとしたときも、物欲しそうな顔をしつつ、いらないと言っていたからな・・・・・・覚えているか?」
ほら、これだ。と、先生が自身の膝の上に置いてあった本から一枚の栞を引っ張り出して、カウンターの上に滑らすように指で押して、見せつけてきた。
栞には桜の花びらが透明のフィルムの下で押し花にされていた。栞のことを知ったのは、たまたま私が床に落ちていた栞を拾い、それを先生に返したことがきっかけだった。
可愛いですねと笑えば、
「知り合いが落ちていた桜の枝を持ってきてな、そのまま枯れさせてしまうのももったいなくて押し花にしてみたんだ」
そのとき先生は、いつものように「あげようか」と差し出してきたが、私は「ううん・・・・・・」と悩みながらも首を振った。でも、私の目に宿る欲望は隠すことができなかった。先生は、それを見抜いたうえで、私に物を与え続けていたのだろう。
なんせ、先生が作ったものだ。本当は喉から手が出るほど欲しかったが、欲しいと頷く勇気がなかった。なぜと問われてもそれが先生の私物だからだ、としか言えない。
黙り続ける私を、先生は容赦なく追い詰める。
「きみはどうしてここに来るんだ? 本が好き、という理由だけじゃないだろ。ああ、それとも俺が煎れた茶が好きなのか?」
湯呑がカウンターに置かれて、それが私の目の端に映った。
「それを口実にしてなにか期待でもしていたのか、それとも本当にただの読書家だった女学生か・・・・・・さて、どちらが正解かな」
外でバイクが走り去る音がした。小窓からそれが見えたのか、先生はバイクの後を目で追ったのが気配でわかった。それくらい、先生にとっては些末な質問であった。
私は恥ずかしかった。顔が上げられない。これは夢なのでは、夢だったらどれだけいいか・・・・・・とにかく思考回路がパニックを起こして、正常な指示を私に与えてくれなかった。
膝の上に置いた拳が、べったりと気持ち悪いくらい汗をかいている。
恥ずかしい、気持ち悪い。勝手に嫉妬して、きもちわるい。やだ。わたし。
「わ、わたし、」
手の甲に、ぽたりと汗が落ちていた。