私は先生を神様みたいに崇拝している。あんなに美しい人、見たことなかったから。
鶯という名の通り、歌うように言葉を紡ぐ低い声が好きだった。若苗色の輝く瞳に自分が映っていると思うだけで身悶えるほど嬉しかった。
だから、私なんかが神様の物を貰うだなんて・・・・・・なんて烏滸がましい。そう考えていただけだった。最初は。
しかしそれは次第に欲求へと変化し、先生のものなら全て手に入れたいと思うようになった。けれど、いざそれらを手にする寸前のところまで来ると、怖気づいて手を引っ込めてしまう。
一度手にしたら、もっともっとと渇望してしまうと思っていた。
私があの場所を知ったのは中学一年生のころ。
友達の家に遊びに行った帰り道、運悪く雨に降られてしまった私は、あの家の軒下で雨宿りをしていた。
ハンカチで顔や髪を拭いていると、ちょうど先生が傘をさして家に帰ってきたのだ。私はこの家の住民が帰ってくることなど全く予想していなかったので、大袈裟に驚いてしまった。
会釈をして慌てて軒下から出ようとすると「待て」と低い声で呼び止められた。そのときの先生は傘で顔が見えなかったものだから、少し怖かった。
しかし、傘を閉じる先生の横顔を初めてみたとき、私の警戒心はあっという間に別の感情によって塗り替えられた。恋をした少女のように心臓が大きく高鳴り、全神経が彼によって奪われ、他のことなど一切考えられなかった。
雨の音や車が横切る音。遠くでなっていた踏切の音も一瞬で消え去り、私は彼の空間に閉じ込められた。
「傘を持っていないんだろ? こんなところじゃなくて、中に入って休んでいくといい。なに、別に怪しい奴じゃないさ。本と茶が好きなただの爺だ。だからそんなに警戒してくれるな」
先生は家の鍵を開けると、私を中に招き入れて暖かい飲み物を出してくれた。そしてそれからというもの、先生が持っている珍しい本を借りるという名目をつけて、私はせかせかとあの場所へ足を運び続けた・・・・・・というわけだ。
あれから四年が経っている。
私は先生のことが好きだった。
*
「先生」と呼ぶのも私が勝手呼んでいるだけであり、私があの場所に通うのも私自身が勝手にしていることだ。
先生はいつでも来ていいとは言ってくれるが、やはり迷惑だったのだろう。
雨に濡れた可愛そうな小娘の話し相手になってやっただけなのに、聞いてもいない本の話を喋り続ける馬鹿な学生。
あの日から、私は先生のところへ一度も足を運んでいない。もう二度とあの場所には行けないし行く勇気もない。先生とお喋りすることもできない。本を借りることも、感想を言うことも。全部全部、一生できないのだ。
「・・・・・・きもちわるい」
浴槽の中で足を抱えて呟けば、水面に映る自分が同じ顔できもちわるいと言い返してきた。
私は先生になにも言えないまま、逃げた。先生の顔も見ずに。
外は雨が降っていたから、着ていた服はびっしょりと濡れてしまった。履いていたスカートに泥水が跳ねる。でもそんなことお構いなしにそのまま家まで走って、私は飛び込むように家の中に入り。自分の部屋へ飛び込んだ。
物音に気付いた母親が、階段下で「帰ったの?」と声をかけてきたが無視してしまった。母が部屋の中まで様子を伺いに来なくてよかった。全身びしょ濡れで靴下はどろどろ。濡れた髪が顔に張り付いて、まるで幽霊のように醜かった。いいや、それ以上に私は醜い。こんな姿、誰にも見られたくなかった。
その日、私は嗚咽が聞こえないように、顔を枕に押し付けたまま泣いた。
結局、私はあのバラを贈った女性の足元にも及ばないただの餓鬼でしかなかったのだ。
*
それから、一週間、二週間と過ぎ、一ヵ月が終わりそうなある日。
耐えきれなくなった私は、とうとうやってしまった。
この日、私は家に居ても憂鬱な気分になるだけだから外に行こうと、宛もなくふらふらと街を彷徨っていた。くらげのように流されてたどり着いた先は、鶯色の屋根が目印の家の前。
気が付けば、私は先生の家の前まで来ていたのだ。だが中に入る気はない。少しだけ、少しだけ窓から中を覗いてから帰ろうと決めている。
そっと、ストーカーの如く小窓から家の中を除く。ここの小窓からはちょうどあのカウンターが見える。
どうやら誰か中にいるようで、心臓がどきりと跳ねた。よくよく目を凝らして見れば、私は思わず「あっ」と声をあげた。
中にはなんとA子がいたのだ。驚愕のあまり目を丸くする。目玉が零れ落ちそうなほど大きく見開き、もう一度よぉく見る。やはりA子だ。なぜここにA子が。
A子の隣に先生がいる。先生はいつものようにカウンターの椅子腰を下ろすと、私がいつも使っていた椅子を指さした。どうやらA子にそこに座るように手で促しているようだ。
A子は遠慮なく椅子に座ると、スカートから伸びる足を組んだ。いつも掛けている眼鏡はなく、そのせいかいつもより大人びて見える。
ふたりはなにやら話し合っているようだが、その内容まではわからない。だが会話は弾んでいるらしく、先生が楽しげに笑っていた。A子も映画の女優を真似するかのように、カウンターに頬杖をついて、時折髪を掻き上げている。
その光景を見て、私は激しい嫉妬を覚えた。身を焼かれ、悶え苦しむ囚人のようにのた打ち回りたい。
A子が先生の腕に触れた。先生も嫌な顔をせずにA子を見つめている。そしてそのままふたりは視線を絡ませ合う。
まるで洋画に出てくる男女のように熱く、目で愛を囁いて、ついに。
A子と先生の顔が近づいて、先生の唇がA子のそれとくっついた。