「勇作さん」
そう呼べば、彼は柔和な微笑みを向けてから汽車に乗り込んだ。これが最後かもしれない。彼の顔を脳裏に焼き付けようと汽車の窓に縋る。
その想いに答えるように指先が彼の手によって覆われる。白手袋を外した肌の温もりに、目尻から涙が零れ落ち、そうしているうちに汽車が汽笛を鳴らして無情にも発進する。彼が大丈夫と口にする代わりに力強く頷いた。
私は気の利いた言葉を掛けることができず、何度も頷いた。喋ろうとすると目から涙が溢れてしまいそうになるからだ。彼を困らせたくなくて、私は震える唇を必死に噛みしめて、懸命に笑みを作った。私の心中を察した彼が、眉を下げて困ったように微笑んでいた。
「私、待ってますから! 美味しいごはん作って毎日勇作さんのこと待ってますから……!」
スピードを速める汽車を追いかけ、彼の名前を何度も何度も呼んだ。
駅の端まで走ると深い悲しみと虚しさに苛まれ、体がふらついた。肩で息をして咳き込めば、お付の女中が心配そうに私の肩を支えてくれる。私は倒れそうになるのをぐっと堪え、彼を乗せた黒い汽車が見えなくなるまでずっと見つめ続けた。
勇作さんは帰ってきた。たった一本の指となって。ああ、骨箱にぽつんと置かれた骨の寂しさといったら。
私は遺影を抱きかかえて泣き崩れた。指があるだけ良かった。誰もがそう慰めたが、私の心にはなにも響きやしない。義父の汚名を漱いだ彼は、もういない。どんな姿になっても彼に生きて帰ってきて欲しかったのに。
「おかえりなさい、勇作さん」
喪服に身を包み、遺影を持って赤く染まる一本道を歩く。骨箱を胸に抱きかかえれば彼のぬくもりを感じられるような気がして、頭を撫でるようにそれに手を滑らす。生温かい風が答えるように頬を擽った。まるで彼が微笑んでくれたような気がして嬉しくなった私はゆるりと口角を上げた。
傍から見れば夫を亡くして気を違った女だが、それでも私は彼が帰ってきてくれただけでもよかったのだと信じ込むことにしたのだ。だってそうやって流されて生きていくことのほうが、ずっと楽だと気付いたから。
だから、次の夫の話が持ち上がったときも、私は黙って再婚を受け入れた。
二番目の夫は一番最初の夫の兄であった。しかも腹違いの。妾の話は勇作さんから聞いていたが、実際に対面したのは見合いの席を設けられたとき。勇作さんもいつか私と三人で兄に会いたいと胸を躍らせていたようだが、夢はかなわぬまま終わった。
私は勇作さんの夢を叶えさせたくて彼と結婚したのだろうか。答えは否。ただ流されて私は彼の元にきた。それはこの尾形百之介も一緒のようで、彼は私に一切の興味を示さなかった。家に帰りもしない食事も共にしない、夫としての役目も果たさない。勇作さんとはまるで逆で、私は彼へ抱いていた僅かな希望を早々に捨てた。
彼は時折、私が死んでないか確認するようにのっそりと現れる。
「生きてたか」
「生きてます」
「またしばらく来てやれないが」
「ええ。わかりました……ああ、ちょっとお待ちになって」
「?」
家を出ていこうとした彼を引き止め、肌寒い日が続く北海道にしては心もとない首まわりに襟巻を巻いてあげた。猫を思わす目がほんの少し丸くなった。
「寒い日が続きますから……」
「……どうも」
「そういえば、夏にお会いした時よりも少し痩せました? 夏風邪はひいていませんね?」
「ああ……別に」
「ならいいのですけれど。なにか会ったら少しは私に教えてくださいね。私、奥様方の井戸端会議の話にもついていけないんですから」
「それはあなたが世間知らずのお嬢様だったから一般人の話題についていけないだけでは」
「……ならいいです、別に……お気をつけて、百之助さん」
恥かしさを誤魔化すように口早に言えば、夫は黙って出て行った。彼はそのまま数ヶ月姿を現さなかった。
次に夫が私の前に現れたのは、その顎にふたつの傷を作ってきたときのことだった。
「荷物をまとめろ。時間がない」
まだ深夜。夫は冷たい空気を纏ったまま私を叩き起こし、荷物を包む風呂敷を渡してきた。すっかり目が冴えた私は、風呂敷と夫を交互に見やる。どういう状況なのか説明もされないまま荷物をまとめろだなんて。そんなこと私が納得できるはずもなく、廊下を歩く夫の後を追う。
「どういうことですか」
「一から十まで説明している時間がない。捕まって面倒事に巻き込まれる前にさっさとお前を故郷に、」
「……それは私がいつ殺されてもおかしくない立場にいるということですか」
「さすがに殺されはしないだろうが……最悪の場合はそうなることも一応覚悟しておいたほうがいい」
「ではこの場で私を殺してください」
ボーン、ボーンと振り子時計が鳴り響く。夫は立ち止まり、背を向けたままなにも言わない。彼に巻いてあげた襟巻の裾が揺れている。
「……早くしろ。二度と親に会えなくなるぞ」
今度は何処へ行くのか。夫の後をアヒルの子のように追いかける。
「私は、私は、もう嫌です」
居間で止まった夫の背に向って訴える。口を開くと涙が零れ落ちそうになったが私はそれを懸命に堪え、唾を飲み込み、はあっと息を吐いた。
「置いていかれるのはもう嫌です。前の夫に死なれ、今度は貴方が死ぬ番なのでしょう? 貴方が殺される前に私をその腰に差してある銃で撃ち殺してください」
僅かに空いた障子の隙間から月明かりが差し込み、夫の背中を照らす。夫がこちらを振り向いたときにはもう付は雲に隠れ、その顔を見ることはできなかった。
「……俺は別にあんたが好きで結婚を受け入れたわけじゃない。かといってあんたの前の夫や義父に頼まれたわけでもない。ただの興味本位だ」
「……ええ、でしょうね。知っていました」
「ハハッ、わかっていて俺と寝ようとしていたのか」
「妻としても義務です。あなたは嫌がりましたが」
初夜でのことを思い出し、嫌悪と羞恥が入り交じる。
「俺はあの男と兄弟になるなんて御免でね。それなら野郎の穴に突っ込んだ方がマシだ」
「そう……でもこれで満足したでしょう? 始まりは前夫である勇作さんが、ならせめて終わりは今の夫である貴方が見届けていってください」
暫し無言の後、銃を取り出す気配がした。
そういえば勇作さんはよく兄は銃の扱いがとても上手だと睦言でよく話していた。夫婦の会話に出てくるのはいつだって百之助さんで、正直言うと私は彼のことなどどうでもよかった。勇作さんが自分の事のように話す横顔が好きだから微笑んでいられたのだ。
「……私は勇作さんを愛していました」
夫がちらりと、勇作さんの遺影がある方に顔を動かした。あれだけは私が頑として譲らなかったものである。
「再婚相手の家に前夫の遺影を飾るなんてことをするのはお前くらいなもんだ。前夫と俺があまりに似てなくてがっかりしたか?」
「いいえ。むしろ安心しました。貴方のことを好きにならずにすみましたから」
嘲笑する夫。銃口を私に向ける音がした。
「そうか。好きになってやれなくて悪かったな」
「いいえ……ありがとう、ございます」
「これから死人になる奴に礼を言われるなんざ縁起が悪い。やめろ」
「ふふ……そうですね……短い間でしたがお世話になりました……」
「……怖いのなら目を瞑れ。安心しろ、痛めつけたりはしない」
頷いて数秒後。銃声が鳴り響くと同時に私の体は床に倒れた。少しの苦痛に目を薄らと空ける。月明かりに照らされている畳に血が広がるのが見えた。死を眼前にした恐ろしさはない。私の意識は眠るように薄れていく。
頭上に置かれたなにかが、私の顔を覆う。
「襟巻、返すぞ」
足音が遠ざかる。ああ、待って。この襟巻はあなたが巻いて行って。外は寒いでしょう。ねえったら。
私の言葉は声になることなく、意識共に遠くへ消えていった。
*
暑い夏が終わり、緑葉も赤と黄に色づいた秋の日。
今日はいつもより肌寒くなるでしょうと知らせる天気予報を見て、ふと、先ほど玄関から出ていった相方の首元を思い出す。私は背後にある寝室の出窓を見た。隣家の敷地とアパートを隔てる柵の間をすり抜けた百之助くんが通り過ぎていくのがちょうど見えた。私は慌ててクローゼットを開け放ち、一番端にハンガーで吊るしてあったダークグレーのマフラーを手に取り、ベランダに続く窓を開けた。
「待って、待って! 百之助くん」
百之助くんがなにごとだと振り返る。
神経質なほどピシッとまとめられたツーブロックに、不思議な想いが胸にこみ上がってくる。まるで数ヶ月ぶりに見たような懐かしさ。そして憎しみに似た感情。マフラーを握りしめる手に力が籠る。
その間に、百之助くんがこちらに近づき、問いかける。ベランダは地面より一段高く作られているため、彼が私を見上げるという珍しい形になった。
「なんだ」
「あ、うん……今日冷えるからって、その、マフラー……持って行ったほうがいいんじゃないかと思って……」
歯切れの悪い私に百之助くんは特に気にする様子もなく、
「それほど寒いとは思わんが、夜は冷えるかもな。一応持っていく」
貸せ、と手を出す百之助くんに応えず、私は手に持っていたマフラーを彼の首に巻いた。太い首に巻きつく肌触りのいい生地を一撫でし、彼の顔を目に焼き付けるようにじっと見つめる。
「いってらっしゃい。気を付けてね」
急にしおらしい態度を見せてくる私に、百之助くんは少し怪訝そうに見つめ返す。百之助くんの顔も体も普段通りで、何も変わらない。なのにどうして私はこんなにも心寂しさとごくわずかの虚しさを感じているのだろうか。
気に留めるほどでもない小さな穴が心に空いて、そこから入り込む冷たい空気が空虚感を生みだす。それが後にどういった変化をもたらすのかなんて、きっと誰も知らないし私も、ましてや百之助くんだってわからないだろう。
いま確かなことは、目の前にいる男のことがこんなにも好きだということだけ。
「ちゃんと帰ってきてね。私、待ってるから。温かくて美味しいご飯、たくさん作って待ってるから」
今生の別れみたいに暗い声で出すなよ。と、百之助くんはベランダの手すりを掴む私の手を握り締めながら言った。馬鹿にしたような憎たらしい笑みを浮かべるその顔には見覚えがないと、頭のどこかで誰かが囁いた。けど私はそんな声など聞こえぬふりをして、ベランダから身を乗り出し目の前にいる愛しい男に顔を近づけた。
20*0605