世界帝軍が滅びた。これでようやく平和が訪れると誰もが喜んだ。
人ならざる力を持つ者は強大な敵がいない限り畏怖されるものである。古銃から貴銃士を呼び覚まし、彼らを従えることができるマスターはその恐怖の対称となった。
石を投げられ、目が合えば罵声を浴びせられる。そんな毎日にマスターはすっかり気落ちしてしまった。笑うことを忘れてしまったように、ただしくしくと泣くばかり。
「大丈夫だよ、マスター。僕が必ず君を守って見せるから。だからほら、泣かないで」
もうマスターの心には慰めさえ届かない。マスターは時折「死にたい」と目で訴えるようになった。
安全だった基地でさえ、彼女の身に危険が迫るようになってしまった。
レジスタンスの兵士に扮した市民がマスターに近づき、彼女の身にナイフを突き立てようとしたのだ。間一髪で奴は貴銃士によって捕えられた。だが、市民が隙をついて基地から逃げだそうとしたとき、それを捕まえようとしたレジスタンスの兵士が失態を犯した。誤って、奴を射殺してしまったのだ。
彼の死を皮切りに、市民らはこちらに正義をありと声を荒げ始めた。獣のように目を血走らせて、ここぞとばかりに我らを糾弾する。マスターだけではなく、レジスタンスや貴銃士までもが敵意の対象となった。世界帝軍がいたころはあれだけ頼っておきながら。手のひら返しもいいところだ。
「マスター、見て」
「これ、こんぺいとうって言うんだ。ねえ、マスター。食べてみてよ」
ニコラとノエルは子供の振りをして街へ偵察に行くと、必ずマスターに手土産を買ってくる。他の貴銃士もマスターのために紅茶を煎れたり、くだらない話をしたりしてなんとか笑わせようとした。だがマスターは以前のよう笑顔を見せてはくれなかった。
あんなに美しかった赤いバラは、奴らが放つ熱罵のナイフによって散らされ、踏みつぶされた。耐えていた小さな芽すら、無残に摘み取られたのだ。
彼女の体を悪魔の炎で燃やされてたまるものか。なにが魔女だ、なにが売女だ。
お前らは前線に立って、銃弾が飛び交う中、負傷兵の手当てをしたことがあるのか。身を粉にして役目を果たそうと、涙を流すこともしなかった彼女の背中を見たことがあるのか。
そんな彼女はいま、泣くことしかできずにいる。なにも知らないくせに。奴らはいまも、街で啓蒙活動をするどこかの教祖みたいな面で、彼女への罵倒を繰り返し叫んでいるのだ。血を流し、カラカラに干からびた彼女の心はもう悲鳴を上げている。いつ死んでもおかしくない。それなのに、奴らはまだ彼女の体に穴を空けようと無数の銃口を向けてくる。
シャスポーは、マスターが死にたいと思わせるまで追いつめた彼らの存在が憎かった。そして誰よりも許せなかった。
*
マスターが避難している隠れ家に向う。近くにはレジスタンスの見張りがいて、シャスポーは目で挨拶を交わすと家の扉をノックした。返事はなかったが、シャスポーは慣れた様子で扉を開けた。
家の中ではマスターがなにをするわけでもなく、部屋の隅にあるベッドに腰を掛けてぼんやりと虚空を見ていた。 彼女はこうやって、時間が過ぎるのをひたすら待っている。以前のように忙しなく動く彼女はもうどこにいない。
「マスター」
声を掛けると、マスターは少し遅れてからシャスポーの方へ顔を向けた。彼女の輝く双眼は一体どこへ奪われたのか。いまでは虚ろな目があるばかりだ。
彼女の無気力な目を見ると、シャスポーの胸はひどく締め付けられる。
自分の膝をじっと見つめるだけのマスター。まるで人形のようだ。
シャスポーはそんなマスターの隣に座り、今日も懸命に語りかける。けれどやはり返事はない。それでもシャスポーは気にすることなく、マスターに話し続ける。
「……もうすぐ昼食の時間だね。待ってて、僕が取ってくるから。今日のランチはね、君の好きなクレープが付いてるんだ。タバティエールがきみのためにって特別に作ったんだって。
クレープはね、僕の故郷であるフランスのブルターニュ地方が発祥だって言われてるんだよ。タバティエールのは、まあ、フランスの職人が作るものと比べたら味は劣るだろうけどね。ね、マスターも一緒に食べてみよう」
膝の上に置かれた手が少しだけ動いた。シャスポーの言葉に反応してくれたのだろうか。もし違うとしても、マスターが少しでも興味を示してくれれば、シャスポーはそれだけで嬉しかった。
昼食を取りに行こうと、シャスポーが部屋の扉を開けようとした、そのときだった。
「……シャスポー……」
耳を疑った。
久しぶりにマスターの声を聞いた。驚いたと同時に胸に熱いものがこみ上げる。シャスポーは慌てて振り返ったが、それは彼に少しの絶望を与え、そして心に暗い影を落とした。
ようやく喋ってくれたいうのに、マスターの目はシャスポーを捉えてはいなかったのだ。
光りを宿さないマスターの瞳はシャスポーの向こう、もっと遠い場所を映していた。虚無を映すだけの瞳を見て、シャスポーはマスターの元へ駆け寄るようにして戻る。そしてマスターの足元に膝をつくと必死な表情で語りかける。
「なあに? マスター」
「……私、死にたいの……死にたい……」
「マスター、そんなこと言わないで。お願いだ、僕と一緒に生きよう。君がいなくちゃ、僕はここにいる意味がない」
シャスポーは笑みを浮かべた。
「そしてまたいつか、僕と一緒にフランスに行こう。フランスに行ったらいろんな場所に行ってたくさん楽しいことをして、いっぱい笑おう。外が怖いのなら僕がずっと手を握っていてあげる。夜が怖くて眠れないなら、眠くなるまで僕と一緒に温かいミルクを飲んでお喋りをしよう。ああ、僕、久しぶりにマスターがくれたあのキャンディーも食べたいな。ねえマスター。なにかしたいこととか行きたいところとか、ある? 僕に教えて」
心に染みわたるような優しい声に、マスターは悩んだ素振りを見せてから、表情を変えずに言った。
「……私、死にたくないって思ってもいいの……?」
返ってきた言葉にシャスポーの笑顔が消えた。言葉を失うほど、シャスポーは愕然としていた。生きたいと思う権利さえ、彼女の中ではすでに剥奪されていたのだ。
気が付かなかった、彼女の気持ちを汲んでやれなかった。これほどまで己の無力さを呪ったことはない。シャスポーは拳を固く握り締めて指の肉に爪を立てた。
シャスポーは赤い爪跡がついた手で、マスターの手を包み込むようにして握りしめた。手をそのまま己の額に当てて、震える唇をなんとか動かそうとしているうちに、頭上からか細い声が不安げに降り注いだ。
「シャスポー……? 泣いてるの……? ごめんなさい、いまキャディーをもってないの。ごめんなさい……」
シャスポーは鼻を啜り、精一杯の笑顔を作ってから顔を上げた。
「泣いてないよ。いいんだ、気にしないで。ごめんね、名前子」
シャスポーがマスターの名前を紡ぐと、彼女の瞳の奥に僅かな光が宿った。それを見て、シャスポーはまた泣きそうになった。
「今度は僕が君にキャンデイーを持ってくるよ。もういらないってくらいたくさん」
シャスポーは思う。マスターであることが彼女の最大な不幸であったとしても。彼女がそのせいで石を投げられてしても。それでも自分は彼女のそばにいたいのだ、と。
これはきっと自分の傲慢なエゴでしかない。
それでもシャスポーは「マスター」だった彼女をずっと守っていきたかった。
――――きっと僕は彼女を幸せすることはできない。それでも
「愛してるよ。マスター」
シャスポーはバラの傷跡がある彼女の手に誓いのキスを落とした。
六月のある日。窓の外を見れば、いつの間にか雨が降っていた。
雨が降った日に愛を誓い合うふたりは神に祝福される。そんな言い伝えがフランスにはある。ならばこの瞬間、我ら二人は神に祝福されたに違いない。
シャスポーは熱を持ちつつあるマスターの手の甲にもう一度、口づけを落とした。
2018*0804
だいぶ前に書いた作品です。
引っ張り出しました。