ランク2あたりのネタバレあり。
・主人公の口調はボイス9をイメージしています。
・看守からの性的暴行を匂わす表現があります。苦手な方はご注意ください。



 灰嵐から、そして地獄にも勝るあの劣悪な環境から一時的とはいえ逃れることができたのはあまりにも突然のことだった。


 私はミナトに迫る灰嵐を目の当たりにして愕然とした。このままではミナトにいる仲間達が危ない。
状況を打破しようと策を考えているユウゴの横顔を見つめ、神機を持つ手に力を込めたとき、インカムからノイズ交じりに声が聞こえてきた。
 
 チャンスの神様は前髪しかない。私たちはその神様の前髪を運よく掴むことができたのだろうか。



「イルダさんって女神さまみたいにきれい」
「ふふ、そうね。イルダさん、きれいだったね」
「いい匂いもしたし、大人の女ってかんじ」
「そうねぇ。じゃあ、リルもイルダさんみたいな大人の女性になれるようまずは髪を綺麗に洗いましょうね」
「うん!」

 頭上から温水が降りそそぎ、体についた汚れをみるみるうちに落としていく。シャワーの時間がこんなにもあたたかいものだったなんて、知らなかった。

 ペニーウォートで「PW-01408」と呼ばれていた私は、クリサンセマムで与えられる人としての権利に正直戸惑っていた。
 ペニーウォ―トでは何に関しても常に制限時間を設けられている。食事や睡眠、排せつ。人間ならあって当然の権利が看守によって支配され奪われていた。それは自分の胸にある心臓も同じ。

 ペニーウォートに所属しているAGEの生命は常に看守の手の中にあった。腕輪が二個あるだけでどうしてこうも扱いが違うのか。幼いころからの疑問であった。
だがAGEにされてしまった以上この腕輪の呪いは永遠に続く。そう思っていた。

「バケモノめ」

 看守の言葉がシャワールーム反響する。それは私の頭の中にだけ響く幻聴だ。そう理解していても、つい辺りを見渡してしまう。当然あの看守はここにはいない。
 言葉の暴力は慣れている。だが肉体のそれは違う。右の耳朶を擦るように触れながら、排水溝に流れていく泡をぼんやりと眺める。
 はたと顔を上げる。そうだ左耳のピアス、つけっぱなしだ。左耳にぶら下がる金のチェーンピアスが相棒を失ったまま寂しそうに泳いでいることに気付き、それをそっと外す。一度脱衣所に戻ってピアスを置いてこようとシャワーを止めて、足を動かす。

 ちょうどそのとき、右斜め上に七色に光る球体がふよふよと浮いていることに気付いた。
 リルの方を見る。隣では体を洗い終えたリルが石鹸の泡で遊び始めていた。
 人差し指と親指で輪をつくり、中心に向かって息を吹きかけている。そこから丸いシャボン玉がぽわんと飛び出し、宙を泳いでいく。

「こら、遊んじゃだめよ。石鹸はとても貴重なものなんだから」

 リルが持っていた石鹸をそっと取り上げれば「だってすごくいい匂いがするんだもん! ここって天国みたいね!」とあまりにも無邪気な笑顔で言われてしまった。頬を赤く染めて屈託なく笑うその姿を見せられたらもうなにも言えない。

「そうね、でも石鹸を使うのはまた今度にしましょうね」
「今度っていつ?」
「さあ、いつかしら」
「う〜ん、ペニーウォートでもなかなかシャワーを浴びさせてもらえなかったし……来週?」
「どうかしら。あとでイルダさんに聞いてみましょうね」
「うん!」

 リルの濡れた髪を絞ってあげながら言えば、彼女は目を輝かせながら年相応の笑顔で頷いた。
 きっとあのままペニーウォートに居続けていたら、リルは一生その愛くるしい笑みを私たちに見せてくれることはなかっただろう。
 そう思うと、ごみのように扱われ死んでいった仲間たちの顔が脳裏に浮かんでは消えていく。

「洗い終わったから先に出てもいい?」
「ええ、走って転ばないようにね」
「ペニーウォートのシャワールームみたいに滑らないから大丈夫だもん」

 ペニーウォートのシャワールームはクリサンセマムと違って綺麗とは言いがたい。床には体から流れ落ちた皮脂や石鹸のカスなどの汚れがこびりつき、そこら中にカビが生えていた。
 所詮はAGEが使う場所だ。あのシャワールームも、もう長いこと掃除されていなかったに違いない。

「ふふ、そうね……あ、待って。あと私のピアスも一緒に持っていってくれる? 外し忘れちゃったの。私の服の上に置いておいてくれればいいから」
「うん、わかった。じゃあまたあとでね」
 
 慌ただしく出ていくリルの姿を見送り、シャワーの蛇口をひねる。リルがつくったシャボン玉が温水から逃げるように壁の方へ泳いでいく。
 シャボン玉は天井まで高く飛ぶと、そのまま壁にぶつかりあっけなく割れた。

「……あっち側のシャワーの音が聞こえないのってすごく不思議」

 たぶん、向こうも同じことを思っているだろう。


 穿きなれていない丈長のスカートを用意されてしまい、嫌だなと思いつつそれに足を通す。なるべく女らしい格好をしたくない私は、スカートを穿くことに抵抗があった。けれど文句を言える立場ではないため我慢して穿いてみたが、やっぱりなんか……。
 足元に違和感を覚えながらぎこちなく脱衣所を出れば、よく知った声に呼び止められた。

「お、ちょうどいいところに」

 顔を上げれば、柔らかい金の髪を湿らせたジークがエレベーターの近くで手を振っていた。彼は一瞬、私が穿いているスカートに目を滑らせたが特に触れることなくそのまま話を続ける。なんとなく気恥ずかしさがあった私はホッと安堵した。

「なあ一緒にトランプしようぜ!」
「いいけど……ここでもトランプするの?」
「いいだろ別に、楽しいじゃんトランプ」
「まあ、そうだけどね……」

 ジークがいつも身に着けているトレードマークのマフラーは珍しく外されていた。彼も私と同様、クリサンセマムで用意されたラフなシャツを着ている。唯一違うのは、彼がスカートではなく黒のスラックスを穿いていることだ。
 いいな、私もスラックスが良かったな。胸の内で不満をぼやきながらジークの肩を見る。
 ジークの肩は少し濡れていて、彼の髪の毛から滴り落ちる雫に気づいた私は思わず眉を潜めた。

「ジーク、ちゃんと髪の毛拭いたの? 服が濡れてるじゃない」

 私は自分の肩にかけてあったタオルをジークの頭に被せようとした。が、素早くかわされてされてしまう。

「大丈夫だって! お前、ガキ共だけじゃなくて俺にも姉貴面するときあるよなー」
「私のほうがお姉さんだからね」
「いっこだけな。一歳差じゃそう変わらねぇだろ」
「そうね。いいからほら、髪の毛拭いて、ちょっと逃げないで……ああ、もう、風邪をひいても知らないからね」
「AGEがそう簡単に風邪なんかひくかよ。それより早くトランプしようぜ」

 人の意見を聞かないまま、エレベーターのボタンを押したジークにやれやれとため息をつく。
 そういえばリルもちゃんと髪の毛を拭いただろうか。はしゃいでいたから心配だ。

「おーい、早くこいよ」

 ジークがエレベーターのボタンを押しながら私を急かす。

「はいはい」
 
 看守の目を気にすることなく、仲間となんてことない会話をすることができる日がくるなんて。まだ夢の中にいるみたいで私は少し怖かった。





「うし! また俺の勝ちだな」
「…………」
「弱いなー、お前」

 男性乗組員室でジークを相手にカードゲームをした結果、見事に惨敗。
 部屋の真ん中に配置されている長椅子のひとつを占領したジークが、カードをきりながら憎たらしい笑みをニヤニヤと浮かべる。

「どうせイカサマ使ったんでしょ……」
「しゃしゃしゃ、相手にバレなきゃイカサマじゃあねぇんだよなあ」
「…………ずるい」

 というか私にイカサマしたってバレてるじゃない。文句を垂れる私にジークは「でもゲームの最中に気づかなきゃ意味ないよなー!」と言いながら、カードを私と自分のところへ交互に放り投げるように置いた。

「んじゃ、もう一回しようぜ」
 
 配られたカードを何気なく捲らながら、うんざりと肩をすくめる。

「ええ……私もう飽きちゃっ…………あ」
「あ? なんだよ」
「…………ジーク、これあなたがやったものじゃないわよね」

 手に取ったカードをジークに見せる。私のもとに配られた一枚のジョーカー。一見なんてことないただのカードだが、よーく目を凝らしてみると、四つの角に小さな穴が開いている。ジョーカーを取らないために工作された立派なイカサマの証拠だ。

「……いやいや、それはもとからあった穴だろ? 俺じゃねぇよ」

 身を乗り出し、ぎゅっと眉根を寄せるジークが顔の前で手を横に振りながら否定する。
 にわかに信じがたい。が、たしかにこのカード、新品というわけでもなさそうな手触りである。何枚かは真ん中に折れ目が入っていたり、カードの端に切れ込みがあったりする。

「きっとクリサンセマムの乗組員の誰かがカードに細工したんだろ。このトランプ、そこのゴミ箱に捨ててあったし」

 ジークは部屋の入り口近くにある丸型のダストボックスを指さす。なんとなく中を覗き込んだらたまたま見つけたそうだ。
 免罪をかけられたジークは心外だと鼻息を荒くしている。

「ごめんなさい……疑っちゃって……」
「いいってことよ、それに俺はそんなわかりやすいイカサマしねぇよ」
「そうね……私いつもあなたに負かされているものね……ごめんなさいね」
「それ、謝るところがなんかおかしい気がするけど………まあいいって。カード貸せよ、もう一度きり直すから」

 持っていたカードを揃えてジークに渡す。ジークは無言でカードを受け取り、ふと感慨深そうに口を開いた。

「なんか、ウソみたいだよな。こうして堂々とイスに座りながら遊んでんの」

 ペニーウォートじゃ絶対にできないだろ。ジークはポツリと言った。いつもより声のトーンが低い。

「夢なんじゃねぇかって思うよ」
「…………そうね、私もそう思ってた」
「だろ? シャワーから出る水は温かいし、服はキレイなやつを用意されるし、しかも食事まで出されるんだからな」

 最後の晩餐かよ、とジークは半笑いでおちゃらける。だがその眼差しは自嘲めいた色があった。

「……夕食も用意してくれるって、イルダさん言ってたわ。リガルドさんも贅沢な食事は用意できないけど腕をふるって作るって……ふふ、ほんと嘘みたいね」
「……ああ、マジで信じられねぇよな。あのガタイのいいオッサンがガキ共のためにニンジンを星形にくり抜いてるなんてさ」
「は……? ニンジン……?」

 瞠目するが、ジークは至って真面目な顔で話を続ける。

「いや本当だって。お前をトランプに誘う前に俺は食堂で見たんだよ、あの人がせっせとニンジンを星形にくり抜いてるところ」
「……あら……見かけによらずずいぶんと可愛らしいことをするのね、リカルドさん」
「な、聞いただけじゃ想像つかねぇだろ」

 真剣な眼差しから打って変わって、ジークが白い歯を見せながら冗談を言った。湿っぽくなりつつある空気を吹き飛ばそうとしてくれているのだ。
 彼はいつだって持ち前の明るさを忘れない、心優しい少年だった。あの牢獄でも何度彼に救われたことか。

「一時はどうなるかと思ったけどさ、ガキ共も助かってよかったよ。ショウも医務室で治療を受けてるみたいだし」

 そうねと頷き、牢獄で虚ろな目をしていたショウの痛ましい姿を思い出す。
 あの場所では苦しそうに咳をしている彼の背を擦ることしかできなかった。AGEという立場は変わらないのに、環境が違うだけでこうも扱いが変わるものなのか。あまりにも待遇が良すぎる。口には出さないが何か裏があるのではないかと勘ぐってしまう。

 それでも多分、イルダさん達はペニーウォートの看守たちよりもずっとマシな「いい大人」に分類されるのだろう。
 私たちがクリサンセマムに保護されてまだ数時間程度。判断材料が少ないため憶測に過ぎないが、なんとなくそう思う。
 劣悪な環境にいたペニーウォートのAGEを特別扱いせず、かといって冷遇もせず対等に扱う。AGEに推奨されている腕輪の連結でさえ、いまだにしようとしていない。

「にしても腹減ったなー。なあ、お前なにか持ってない?」
「ないわね、残念ながら」
「だよなぁ。うーん……ペニーウォートにいたときはそこらへんに生えてた草をしゃぶって空腹を紛らわせてたときあったけど、クリサンセマムには草なんて生えてなさそうだったしさ……クリサンセマムの人達ってそこんとこどうしてんだろうな」
「うーん……どうなのかしらね。クリサンセマムで与えられるものすべてが未知の体験だから想像もつかないわ。花の蜜でも飲んでるのかもね」

 ふたりでウンウン唸る。そんな中、部屋のドアが開く音がした。つられてそちらを見ればその人はだしぬけに、

「兄ちゃん、すげぇ! シチューってこんなにも美味い食べ物だったんだな! すげぇよ! マジで!」
「キース、お前何言ってんだよ。状況を説明しないままひとりで感動すんなって」  

 ごめん兄ちゃん! 
 部屋に入ってきたのはジークの弟、キースだった。彼もAGEのひとりだが、戦闘を専門とする兄とは反対に技術系の仕事を得意としている。
 キースは頭の後ろで一本にまとめた髪を犬の尻尾みたいに振り乱しながらジークの腕を掴む。煌めく彼の瞳はシャワールームで見たリムのそれと全く同じだった。

「俺、シチューの味見を頼まれてさ、ためしに一口食べてみたんだ。そしたらもうすっごく美味くて! ペニーウォートで出されるシチューとは大違いだよ!」
「うぉぉ、マジか。早く食べてみてぇなあ!」
「もう一回味見させてくれるかもしれないよ、兄ちゃん! 行ってみよう!」

 意気揚々と立ち上がるジークを目で追っていると、キースは興奮が冷めぬといった様子で

「先輩も行こう。ニンジンがさ、星の形になってて可愛いんだ!」

 と誘ってきた。
 クリサンセマムのシチューがどんなものなのかはとても気になるし、ふたりが言う星形のニンジンとやらも見てみたい。けど私はキースの誘いを断り、部屋に残ることにした。
 あまり外を歩き回りたくない気分だったのだ。

「じゃあ俺ら先行ってるからな!」

 騒がしかった部屋はあっという間に静かになり、私は何をするわけでもなく、部屋の中をぼんやりと見渡す。特に面白そうなものは見当たらない。

 ふたりが我先にと食堂へ向かっていく姿を見送り、数十分が過ぎた。穏やかすぎる時間に居心地の悪ささえ覚える。
 テーブルの上に置きっぱなしだったカードを手に取ろうとしたとき、背後からドアが開く音が聞こえた。
 振り向く前に、あちらから声をかけられた。

「よお、来てたのか」
「ユウゴ」
「ん? ジークは一緒じゃないのか」

 お前とトランプするって言ってたからてっきり部屋にいるのかと思った、と見慣れない服に着替えたユウゴがタオル片手に訊いてくる。
 見慣れない服といってもユウゴだってクリサンセマムが用意したシャツとスウェットを穿いている。どことなく別人のように思えるのはやはりここがペニーウォートの牢獄ではないからだろうか。

「おい、どうした? 気分でも悪いのか」

 黙っている私を不審に思ったのか、ユウゴが隣に腰を下ろして顔を覗き込んでくる。彼の黒髪はしっとりと濡れていて、ほのかに石鹸の匂いがした。

「大丈夫よ、なんでもない」
 
 笑みを作りながら答える。石鹸の匂いが鼻腔を擽ってなんとなく気持ちが落ち着かない。

「ならいいんだが。具合が悪くなったらちゃんと言えよ。少し前までは普段より灰域濃度が高いエリアにいたんだからな」
「わかってるわ。なにか異変を感じたらきちんと伝えるから心配しないで」

 幼馴染は相変わらず心配性である。私は苦笑しながら、手に取ったカードを弄った。
 するとユウゴがカードに気づき、私と同じような表情を浮かべる。「やっぱりな」といった顔だ。

「で、ジークは?」
「シチューを求めて食堂へ」

 キースと一緒にねと付け足せば、ユウゴは私が持っていたカードをやんわりと奪いながら、はっと笑う。

「なんだそりゃ」
「ニンジンは星の形をしているそうよ」
「へぇ、ガキ共が喜びそうだな。にしてもシチューなんてそんなに美味いもんじゃなかった気がするけどな」

 カードをきりながらユウゴが言った。
 彼が渋い顔をするのも無理はない。ペニーウォートで出されるシチューは色がついただけの味が薄い飲み物であった。具は野菜のみで、しかも固い芯がついた葉野菜が数枚入っているだけ。肉なんてものは一年に数回食べられればいい方で、AGEにとっては涎が垂れるほど贅沢な食べ物である。

 といってもユウゴやジーク、私もそうだが、いわゆる「先輩」にあたるAGEは後輩的存在である幼い子どもたちに肉をあげてしまうことが多い。そんな先輩らに気を使いつつ、固い肉を咀嚼する子どもたちの姿はあまりにも不憫であり私達の心を大いに悩ませた。

「クリサンセマムのシチューはすっごく美味しいそうよ。ふふ、楽しみね」
「……そうだな」

 ユウゴは少しだけ目を細めるとカードを手の中で揃え、きり混ぜる。

「それ、ジークがわざわざ見つけ出したの。ほら、あのダストボックスからよ」
「ゴミの中から掘り出し物を見つけるのは俺達AGEの得意分野だからな。それで? トランプはどっちが勝ったんだ?」

 カードゲームが得意ではないことを一番よく知っているくせに。私はため息をついた。

「訊かなくたってわかるでしょ。私が負けたわ、ジークにイカサマを使われてね」

 ユウゴはやっぱりなと肩を揺らしながら笑うと、きっていたカードを一枚手に取った。
 ぺいっとカードが目の前に置かれる。テーブルの上に次々と配られていくカードに、私はユウゴを一瞥した。

 どうやらゲームはすでに始まっていたらしい。