首筋にじっとりとした汗が流れる夏。地獄の鬼とて年がら年中罪人の呵責に勤しんでいるわけではないようだ。地獄の蓋が開く時期がやって来ると名前之はよく悪夢に魘される。
 兄の亡霊に苦しめられ、夜は飛び起きることが多い。

「名前之、落ち着け」
「はあっ、はあっ」
「ゆっくり息をしなさい。名前之、私の目を見ろ」
「ちゅ、ちゅういっ……あ、私は私は」
「大丈夫、大丈夫だ」
「わからないんです。どれが夢でどこまでが現実だったのか。私が階段から落ちたことは本当のことなのですか、中尉の具合が悪くなったことは夢なのですか、中尉が小樽に向っているとき、私が鯉登少尉と不貞を働いたことは本当なのですか夢なのですかどっちなんですか、どうしてあのベッドはあんなにうるさく軋んだのですか、兄がこっちに来いと手を叩き、笑ったあの顔が恐ろしくて堪らないのです、教えてください鶴見中尉……!!」

 苗字野一等卒は今もまだ妹のことを諦めきれないらしい。鶴見は震える名前之の背を抱きしめてやりながら天井を仰いだ。
 やはり、苗字野一等卒は今年も旭川にある兵営に足を運んだようだ。死人には足がないと言うが、果たしてどうなのだろうか。
 時折、真夜中の廊下から足音が聞こえてくる。軍靴の音ではない。ぺしゃり、ぺしゃりと裸足で廊下を歩く、不気味な足音だ。明らかに生きた人間ではないその足音に、名前之はまだ気づいていない。足音は先ほどからこの部屋の前を行ったり来たり。
 今年も、苗字野一等兵が故郷の海を渡って、名前之に会いに来ていた。

 腕の中から聞こえた泣き声が止んでも、足音は消えない。
 彼はなにかを探している、いいや、誰かを探して連れて行こうとしているのだ。彼が血眼になって探している人間はただひとり。

「名前之」
 鶴見は名前之の耳にだけ届くように囁いた。名前之はぎょろぎょろと目玉を動かしながら部屋の窓や闇が固まる天井を見まわすと、ようやくこちらを見た。
「どれが本当で、どこまでが夢か教えてやるから、静かに聞いているんだ。いいね」
  名前之がこくこくと頷いた。

 まず、名前之が階段から落ちたことは本当だ。月島に具合が悪い将校がいると呼ばれ……ああ、私ではないぞ。その将校の部屋に行った帰りに君は足を踏み外して、階下に落ちた。私はいたって健康で、なにも問題はない。小樽へは明後日に向かう予定だ。鯉登少尉と不貞を働いたならまず彼の方が良心の呵責に苛まれ、それに耐えきれず直接私に白状するだろう。ただし鯉が君の腹に噛みついたことは本当だ。浮気は駄目だ、わかったな。
……それ以外は夢だ、夢、悪いことは全て忘れなさい。兄に許しを請うために自分の体を酷使するのはもうやめなさい。優しい兄も、かつての戦友をあの世に連れて行くわけがない。あれは皆事故だ。兄君も、悲しみに暮れる妹の顔を見るのは忍びないはずだ。きっとそんなことは誰も望んではいない。
……ほら、今日はもう眠りなさい。さ、目を瞑って。

 耳元でぼそぼそと囁かれる鶴見の低い声に安心したのか、名前之の表情が和らいでいく。程なくして、微睡み始める。まじないのようにもう一度「おやすみ」と言えば安らかな表情で眠りの中へ落ちていった。
 毎年、これを繰り返している。辟易している。名前之にではない、いつまでも妹に執着している苗字野一等兵にだ。心配でならないのは痛いほどわかるが、さすがにここまで我らに害を及ぼす存在になると放っておけない。
除霊を頼んでみるか、ただ一年に一回しか出没しない彼に効果はあるのだろうか。生きた人間をたくさん葬ってきたが、死人を相手に戦うのはこれが初めだ。
 だが所詮は亡霊。死神の首を刈り取ることなどできやしない。

 幸いというべきか、これまで自殺した兵らは皆造反の疑いがある者達ばかりで、しかもどうやら名前之をも引き抜こうとしていたらしい。こちらも彼らの動向を窺っていたが、結果的には掃除をする手間が省けた。死の真相はいまだ解明されていないが、取るに足らない問題だ。
それでも、まあ、奴の存在はどうしたものか。そろそろアレも片づけたいところだが。
鶴見が顎を撫でながら唸ると、腕の中にいた名前之がずるりと倒れそうになったので、起こさぬようゆっくりと布団の上に寝かせてやる。足音はまだ止まらない。

 やれやれ、耳障りな水音だなと鶴見は嘆いた。
そして変わらぬ夜を過ごすように、平然とした面持ちで名前之の横に寝転んだ。
 名前之の頬は涙の跡で濡れていた。伝うその跡を消すように、鶴見は手の甲で頬に触れる。目の下にはうっすらと隈ができていた。名前之の痛ましい姿に眉を潜めながら、目尻に溜まる涙を拭ってやる。
 
 鶴見はふふふと唇に笑みを乗せた。
 
 苗字野一等卒は嫉妬のあまり亡霊となって年に一度だけ現世に蘇る。幾度なく名前之を連れて行こうと試みているようだが、毎年周辺の兵を殺し彼女の精神を蝕む程度で終わっていた。やはり可愛い妹には手は出せないのかと鷹をくくっていたが、どうも今年は本気であちら側に誘う気らしい。
 
 夢と現実の記憶が混同している彼女は何が本当で何が幻なのか区別することも難しくなっている。ぎりぎりのところで理性を保っているようだが、精神状態はあまりよくない。これ以上ここにいさせないほうがよさそうだ。明日は仕事を休ませ、明後日は共に小樽へ連れて行くとしよう。彼女をひとり置いておくのは危険だ。外出したほうが良い気分転換にもなる。
鯉登に任せてもいいが……いや、やはりやめておこう。彼はいま黒青色の目に惑わされかけている。呪いは早めに解かねば。
 鶴見はそっと名前之の耳元に顔を寄せた。

「海の中に引きずり込まれないよう、足元には気を付けなさい」

 死にぞこないの兄は今年も故郷の海を渡った。重い足を引きずりながら、来年こそ彼女を海底に連れて行こうと目論んでいるに違いない。だがそうはさせん。こちらとて、この黒く輝く青を手放すつもりは更々ないのだ。

「死人の愛は底が見えなくて怖いなあ、なあ、苗字野」

 逆もまた然りである。
 

2018*0907

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