××上等兵が死んだ。厠で首を吊っていたらしい。××が夜中に用を足しに行き、明け方になっても戻らぬので、心配して様子を見に行ったら……××上等兵が変わり果てた姿でぶら下がっていたと同室の兵は証言した。
××の死は自殺として片付けられた。可哀想に。きっと苗字野に連れて行かれたなぁ。
食堂の片隅で兵らがヒソヒソと話す声がやたら耳についた。不快だ。
夏の風を背に浴びて、食堂の窓際の席に座っていた私は残っていた味噌汁を飲み干し立ち上がる。返却口に食器を返し、食堂を出ようと足を出口の方へ動かす。注意力が散漫していたせいだった。すぐ近くに人が立っていたことに気が付かなかった私は、思い切り誰かにぶつかってしまった。よろけながら「申し訳ありません」と顔を上げながら謝れば、褐色の肌が印象の鯉登少尉がいた。
仏頂面で私を一瞥した鯉登少尉は食器がのった盆を片手に横をすり抜ける。まるで物言わぬ柱にでもぶつかったような態度だ。
さすがに屈強な肉体を持つ兵隊にぶつかるとそれなりに痛い。肩を擦りながら食堂を後にする私の背に突き刺さる無数の視線、腹の底まで痛くなった。
苗字野の幽霊を見たものは死ぬ。くだらない噂が蔓延ったのはいつだったか。
一番最初の者は古井戸に飛び込んで死んだ。その日の前日に苗字野が井戸のふちに座り手招きしたと言っていたらしく、そのときは苗字野が親しかった奴を呼んだんだなと周囲は憐れんだ表情で手を合わせていた。
二人目は私室で頸動脈を切って死んだ。彼もまた窓に映る苗字野が首を押さえながら痛い痛いと嘆くのだ、気の毒でならないと知人にこぼしていたという。
それが三人、四人と続いた。さすがに皆が気味悪がった。
露骨に私を避けだす者もいて、医務室にいる奴があの男のきょうだいではおちおち寝てられん。私を辞めさせて別の医者を用意してほしい。最もな意見である。
だが、早く兄と同じ場所に行って俺たちを安心させてほしい、という陰口はいかがなものだろうか。私だってそのような言い方をされたら傷つくというもの。
そんな陰湿な者は数日後、ぴたっと唇を噤んだ。私の悪口を言っていた兵が階段から落ちたというのだ。たいした怪我ではないが、しばらくの間療養することになった。
彼と共にいた者は言う。「俺のきょうだいを悪く言うやつは許さん」と鋭く睨みつける私の兄が、踊り場に佇んでいたと。
最初は私かと思った。けどボロボロになった軍服を着て両足が無いとわかると皆気を失い、その場に倒れた。お前ら全員寝ぼけていたんだろう。苗字野一等卒の霊が出たなどと、戦死した彼を侮辱するようなことを言うな。ある者は言うが、三人は真っ青な顔をするばかり。
「名前之先生の悪口を言うやつは苗字野に殺される」
去年の夏のできごとである。そんな噂も晩秋になればすっかり消えていて、自ら命を絶つ者もいなくなり兵営は以前の日常を取り戻していた。
そして季節は巡り、再び夏。××上等兵が死んだことによりまた例の噂がぽつぽつと囁かれている。去年ほどではないが、今年もそれなりに視線を感じている。
今年の噂はいつ収まるだろうかと頭を悩ませながら医務室のカーテンに手を伸ばす。
外は夕暮れ。机に座り書類に目を通していたが、日差しが顔に当たって眩しかったので、少し早いがカーテンを閉めることにした。
医務室が少し薄暗くなると、ドアをノックする音が聞こえた。「どうぞ」と言う前に来客は勝手に部屋の中へ足を踏み入れていた。
来客は今朝ぶつかった鯉登少尉だった。鯉登少尉は医務室に私以外の人間がいないことを確認すると、医務室のドアを閉めた。
「ああ、鯉登少尉。どうしましたか」
相変わらず私には敵意を秘めた目つきと尊大な態度を取る鯉登少尉だが、笑みを絶やすことなく再度訊ねる。
「どこか怪我でもしましたか。それとも具合が悪い、」
「貴様は死神か」
「……は?」
予想もしていなかった。あまりにも無礼すぎる問いに笑顔が固まる。
「前々から思っていた。こうも立て続けに死人が出るなんてあまりにもおかしい。しかも全員自殺ときた。ここはいつから精神病院になったのだ、言ってみろ」
「…………」
「外見は優男だが、医者としての腕は確かだと鶴見中尉は言う。だが私には貴様が命を救う医者ではなく、それを刈り取る黒い死神に見えて仕方ない。苗字野一等卒が日露戦争で戦死し、戦争が終わってからも苗字野一等卒の霊とやらに惑わされ、自ら命を絶つ輩が後を絶たん。しかも貴様はそのきょうだい。
……端的に言うぞ。いますぐとは言わん。近いうちにここを出ていってほしい。そして二度と鶴見中尉に近づくな」
こちらを見下ろしながら矢継ぎ早に語る鯉登少尉に唖然とする。返す言葉も見つからず、ただぽかんと彼を凝視する。
「安心しろ。次の仕事先は私の伝手で探してやる。職を無くして路頭に彷徨われたりでもしたらそれこそ鶴見中尉のご迷惑に……おい、私の話を聞いているのか、おい」
呆気にとられている私に、鯉登少尉は渋面をつくる。
「……は、はは」
「……なにがおかしい」
突如笑い出した私を見て、鯉登少尉の眉がつり上がった。
「鯉登少尉、あの噂を信じているのですか。まさかそんな、子供じゃああるまいし、いくらなんでも、ねえ。ふふ、ふふふふ!」
「貴様……私を愚弄しているのか!」
「いいえ、けど、だってまさか、あの鶴見中尉が信頼を寄せる部下の方がそんな信憑性もない噂を信じ、そのうえ私にここを辞めろだなんて、ふふ、ふふふ……そんなこと、直接私に言いに来た方は鯉登少尉が初めてですよ。皆、陰ではこそこそと好き勝手言っているようですが、鯉登少尉のように面と向かって悪態をつく方はいませんでしたし……ふ、ははは! はああぁ、はあ……いえ大変失礼致しました。苦しいのでそろそろ胸ぐらをつかむ手を放していただければありがたいのですが……」
顔を赤くして、私の胸ぐらを掴んでいた鯉登少尉の腕に手を添える。鯉登少尉の目を覗き込みながら言えば、彼は案外素直に手を放してくれた。そしてそのまま窓際に移動した鯉登少尉は背を向けたまま口を開く。
「鶴見中尉は苗字野一等卒を気に入っていたらしい」
「はあ……そのようですね」
「もったいない兵を亡くしたと嘆いておられた」
「ありがとうございます。愚兄にはもったいないお言葉です」
「貴様も露西亜との戦争のとき戦地へ従軍していたと聞いた」
「はい。おかげで兄の死に顔を見ることができました」
「そうか。よかったな」
「ええ……」
そこで話は途切れた。しばらくしてまた、鯉登少尉はぽつりと話し出す。
「私は貴様が憎い。鶴見中尉に目をかけられ、先の戦争も共にした」
鶴見中尉の下であの戦争を生き抜いた者は皆同じではないだろうか、たとえば月島軍曹……と思ったが、口にはしなかった。どうせ私のことが個人的に気に食わないだけだろう。
「医療従事者としてです。銃や刀を持って戦ったわけではありませんし、私がお役に立てることといったら負傷兵を治療することくらいです」
「それでもだ。鶴見中尉が額にお怪我をされたとき、夜戦病院で治療をしたのは……貴様らしいな」
脳裏をよぎる凄惨な光景。私は表情をこわばらせた。
「はい、でも他の方の協力があってこそですから……私だけでは……」
「貴様は先ほどから謙遜してばかりだ。そういうところも気に食わん」
鯉登少尉が肩ごしに振り返ると、苛立ちを隠すことなく言い放つ。
「はあ……申し訳ありません……?」
首をひねりながら謝罪する。鯉登少尉は皮肉を込めて口角を上げた。
「その女みたいな容姿と振る舞いで、何人もの男をたぶらかしてきたんだろうな、貴様は」
鋭い刃物と化した言葉に、思わず思考が停止する。だがそれも一瞬のことであり、すぐに我を取り戻す。短い髪からのぞく項を擦りながら笑う。黒の詰襟を着ているから少し暑い。部屋は涼しいはずなのに、体温が上がってきている。
「はは、女、ですか……よく言われます。ははは……」
「笑うな。そのへらへらした顔を見ていると私は腹が立つんだ」
鯉登少尉がこちらに体を向ける。鬼のような形相、とまではいかないがそれなりに恐ろしい顔をしていた。
「昨夜、ここでなにをしていた」
「昨夜」
「ああ、貴様、昨日の夜医務室で鶴見中尉の額の消毒をしていただろう。その後だ」
冷たいものが背筋を伝う。薄々気づいている兵らもいるが、そこまで公になっていない事実に後ろめたさを感じて目を逸らす。
「それは……内密にしてくださると私も鶴見中尉も立場上助かるのですが……」
「助かる? 貴様だけが、だろう。一体なにを企んでいる」
コツ、と足音を鳴らして距離を縮めてくる鯉登少尉が身を屈め、椅子に座る私に顔を近づけて凄んでくる。険のある声にたじろぎそうになるが、ひるむことなく真っ向から見つめ返す。美しい白目、濁りのない黒い目が煌々と輝いている。青さが抜けない純粋なその目に嫉妬の炎が宿っていて、わかりやすい彼の態度がむしろ微笑ましかった。
可愛い人。つい本音を零してしまった。はたと口を隠すがもう遅い。鯉登少尉はなんとも言えない嫌な表情を浮かべている。
「この女狐が」
「女狐って……嫌ですね、私、ちゃんとついてますよ」
蔑む言葉も、体を擽られたような揶揄にしか聞こえない。唇に笑みを乗せる私を見て、鯉登少尉の顏から険が抜けた。気味が悪いと端正な顔がぐにゃりと歪む。そんな鯉登少尉はふいに私の左脇腹に手を置くと、容赦なく贅肉を掴んだ。ぐぅっと呻き声をあげる。
「だらしない体だな」
嘲る鯉登少尉は私の腹から手を放すと医務室から出て行った。掴まれた腹が痛い。痣が出来てなければいいが。窓に映る自分の横顔が兄に似ていて、一瞬幽霊かと思った。
2018*0801