「貴様、やはり次は鶴見中尉か。昨夜見ていたぞ。そのだらしない体を使い鶴見中尉を誑かしていたのだな」
 
 そう言うが、彼はどこからどこまで見ていたのだろうか。
 医務室の机で資料を作る手を止めて、座ったまま鯉登少尉と向き合う。

「はあ……そうですか。なんのことかさっぱりわかりませんが……それで、なんのご用でしょうか?」
 鯉登少尉の顔が険しくなる。
「とぼけても無駄だ。私はこの目でしっかりと見た。貴様が鶴見中尉の上に跨り、獣のように腰を振っていたところをな」

 決定的な現場を目撃したことで妙な自信を見せる鯉登少尉から視線を外し、そっとため息をつく。

「鶴見中尉の野望、何人たりとも邪魔はさせん」

 軍刀の鍔に手を添える。銀色に光る刀身が引き抜かれようとしている。もしかして私は殺されるのだろうか。芝居でも見ているかのように、それは他人事だった。鯉登少尉の目を見つめる。鯉登少尉がいかにも忌まわしそうな顔つきで私を睨む。

「やめろ」
「はあ……?」
「その目で私を見るな」
「はあ」
 目を閉じた。
「気の抜けた返事をするのもやめろ!」
「…………」
「…………」
「…………」
「おい」
「…………」
「おい」
「…………」
「貴様なにか言え! 黙るな!」
「見るな、黙れと命令したのは鯉登少尉です」

 目を開けて、視線は膝に落とす。手持ち沙汰に鉛筆を弄っていると、鯉登少尉は抜きかけていた軍刀を鞘に収めた。そして疲れた表情で溜息をつき、くるりと背を向けた。
 帝国軍人の背中は皆逞しい。特に彼はその軍服を纏うことに人一倍誇りを感じているらしく、いつも背筋がピンと伸びていて潔い。

「鯉登少尉」
 返事はない。
「鯉登少尉。私は鶴見中尉に寄り掛かり、ずるずると生きてきた出来そこないの男です。他の方よりも医学が得意なだけで、あとはなにもありません。
きっと、鶴見中尉がその偉大なる野望を叶えるとき、鶴見中尉のお側にいるのは私ではなく鯉登少尉や月島軍曹です。ふふ、当然ですね。
刀も扱えず、銃すら撃てない私の存在などとっくに忘れて、そのへんに捨て置かれるでしょう。それに……」

 男性は可愛らしい女性の方がお好きでしょう。こんな女みたいな男、そのうち飽きますよ。
 冗談交じりにそう言えば、鯉登少尉はやおら体の向きを変えた。対面する形となり、互いに互いの顔を見つめ合う奇妙な状況になる。そんな中、

「名前之……貴様、「先生、名前之先生、いますか」

 静かな医務室に第三者の声が響き渡る。廊下からだ。鯉登少尉の声を遮り、ドアをノックして返事も聞かぬまま部屋の中に飛びこんできた人物に、私と鯉登少尉は目を丸くさせた。あちらも同じような反応して、鯉登少尉に敬礼をする。

「月島軍曹じゃあないですか。どうしたんですか?」
「実は今朝から鶴見中尉の具合がすぐれないようでして、それで「なんだと?! 月島軍曹、それは本当か!?」
 
 鶴見中尉の腹心の部下、月島軍曹は私を見た後、次に鯉登少尉に視線を移す。なぜここにあなたが?と言いたげな目をしているのは、鯉登少尉が私のことをよく思っていないため医務室を滅多に利用したがらないと知っているからだ。
 初めてここを訪れたときの彼の渋い顔は今思い出しても笑ってしまう。頬の内側の肉を噛みつつ、気持ちを切り替える。月島軍曹が言うには鶴見中尉は今日の朝から具合が悪く、頭痛や眩暈の症状が出てるらしい。時折目頭を押さえ、痛みに耐えていたので容体を心配した月島軍曹が私に知らせに来た、というわけらしい。
 

 貴様のせいではないかぁあ……。
 背後から注がれる鋭い視線が私の頭を貫き、脳に直接文句を言ってきた、ような気がしてならない。私はちくちくと突き刺さるそれを無視する。
 険悪な雰囲気を察してくれた月島軍曹が、鯉登少尉を連れて医務室を出ていく。それを見届けてから、診察道具が入っている鞄を手に取る。鶴見中尉の部屋に向う準備を整え、医務室の鍵を閉めた。

 廊下の窓から見える晴れやかな空に、ふと足を止める。

 夏の青空を眺めると、いつも故郷の海を思い出す。太陽の日差しに反射して輝く海は私の人生だった。海と共に生きてきた私の瞳にも、深海のような深い青がある。間近でないと見えない色を見出したのは私の家族と鶴見中尉と残りの数人だけ。外見も周りの者とほとんど変わらないため、気付かれることはなかった。

 火が灯るように、優しい記憶が目の奥に浮かぶ。海で共に遊ぶ子供が二人、兄と私だ。それを見守る母の背中。写真のように鮮明に蘇った。懐かしい海、誰もいない浜辺。美しい、私達だけの世界だった。目に焼き付いて離れないその情景が私の心に暗い影を落とす。

 もうすぐ盂蘭盆。
兵隊が次々と亡くなるのも、やはり兄の仕業なのか。信憑性のない噂が、徐々に現実味を帯びてくる。
 もし、兄が私を呼びに来ているのなら、なぜ直接殺しにこないのだろうか。私が自ら死ぬのを待っているとも考えられるが、死人の目論見など到底計り知れない。

 いまもどこかで、兄が私のことを見ているならば、きっと医務室の廊下から見えるあの立木に登り、こちらの様子を窺っているに違いない。兄は悪戯好きな方だったから、きっとそうするだろう。

 ぼんやりと立木を見ていると、突然、眩暈に襲われた。視界が白く濁り、キーンと耳鳴りがする。ふらつく足取りで窓に背を向け、寄り掛かる。瞼を閉じてしばらく経てば症状は治まった。
私も疲れてるのだろうか、それとも……。横目で立木を見やる。そこには誰も、鳥一匹さえいない。


 私は床に手放した鞄を持ち直し、気怠い体を引きずるようにして鶴見中尉の元へ向った。
 背後からコンッと窓ガラスになにかが当たる音がしたが、私は少し振り向いただけで立ち止まることなく、階段を登った。



「疲労の蓄積は怖いんですよ。今日は一日寝ていてくださいね」

 疲労からくる頭痛と眩暈だということがわかり、安静にしているように言えば、鶴見中尉はベットに腰を掛けて「はは」と笑い、誤魔化した。
 
「軍服も脱いで、寝間着に着替えて、少しでもたくさんの睡眠を取って下さい」
「もう歳だ。昔のように無理はできんな」
「御冗談を。鶴見中尉はまだまだお若いでしょう」
「しばらく寝不足が続いたからなあ」
「……そうですね」
「今日こそ早く寝るとしよう」
「ええ」

 鶴見中尉に背を向けて診察道具を片づける。放たれる鶴見中尉の言葉を受け流していると、窓ガラスがガタッと音を立てて揺れた。何かと思い、音がした方を見る。鳥でもぶつかったか……?
不審に思い首を傾げる。一応窓の外を確認しておこうと、そちらに足を向ければ鶴見中尉に止められた。
どうしたんですか?と問うが、鶴見中尉は寝間着に着替えながら沈黙するばかり。
 とりあえず、言うとおりにして、途中だった診察道具の片づけを続けていれば、鶴見中尉がベッドに潜り込みながら口を開いた。

「苗字野一等卒が窓を叩いた音だ」

 筆入れに鉛筆を仕舞おうとしていた手が止まった。思考も数秒の間だけ停止したが、すぐに意識を戻す。

「はは、鶴見中尉、かなりお疲れですね。笑えない冗談ですよ」

 鶴見中尉は笑わない。重く圧し掛かる兄の名前に、私の笑顔も緩やかに消える。また窓から音が鳴った。
ふいに鶴見中尉が咳をした。風邪ではないはずだが……。思案する私の脳裏に、ある兵らの顔が過る。兄の幽霊を目撃して死んだ兵たちだ。

「私も」
「?」
「私も苗字野一等卒に呼ばれているのだ」

 いつになく弱弱しい声音だった。どうしよう、慌てるな、冷静になれ。取り乱す自分に言い聞かすが、脳は正反対の状態へと切り替わる。
 私は心臓が凍りつく思いでなんとか後片づけを終えて、鶴見中尉の部屋を後にした。
 

 医務室に帰る途中、潮の匂いが鼻先を掠めた。人の気配がして、反射的に振り返った瞬間、目の前の景色がぐらりと揺れて、体は宙に放り出された。




「……おい? おいそこのお前、どうし、あ!」
「なんだなにかあった……先生? 先生! おい! 誰か来てくれ! 名前之先生が倒れてるぞ!!」
「……階段の下ってことはもしかして落ちたのか?」
「わからん……」
「騒騒しい、いったい何事だ」
「こ、鯉登少尉!」
「おい……どうしてそいつが倒れているんだ。説明しろ」
「はっ! それが……」

 あれからどこをどうやって歩いていたのか。気付けば、私はどこかの階段の下で倒れていた。痛む足と体。意識が曖昧になる。
 先ほどの声を聞く限り、どうやら私は階段を踏み外して落ちたようだ。
 脳裏に明滅するのは落ちる前の記憶。階段を降りていた私の背を、誰かが押した。落ちる瞬間、私は見た。踊り場にいたのは私。いいや、私にそっくりな

「兄さん……」

 そこで私は意識を失った。

2018*0804

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