私は異人と日本人の混血である。母が日本人、父は外国人だ。そして、兄と私は異母きょうだいである。
兄の父のことはよく知らないが、私の父は母が私を孕んだ後、外国に戻ったきり姿を見せていない。港に近い場所に家を持っていた母の実家はそれなりに裕福であった。
母は夏になると、よく私と兄を連れて海に足を運んだ。父は夏の日、貿易船に乗った。遠いお家に忘れ物を取りに行ったのよ。と母は言う。母は父の帰りをずっと待っていた。父は二度とここには来ないと、私はなんとなく察していた。それは兄も同じであり、信じているのは母だけだった。
このときからすでに、母の魂は死んでいたのかもしれない。
そしてついに、魂が抜けた母の体は朽ちた。
それはひぐらしが鳴く夏の終わりのことだった。
母は夢に出てきた父の姿を追うように、明け方の海に入り、そのまま姿を消した。容姿の美しい母は見るに堪えない姿で家に戻ってきた。
祖父母は母の遺体を私に見せまいと自分の体で壁を作っていたが、もう遅い。ふたりの間から見えた母の死に顔は一生忘れることができないだろう。それくらい強烈だった。だから私は母の背中しか思い出せない。
「名前之」
「なに? 兄さん」
「…………」
「兄さん?」
「……いや、なんでもないよ」
恐らく、兄は私のことが好きだった。きょうだいとしてではなく、ひとりの女として。
そのことに気付いた私は兄から距離を取るわけでもなく、嫌悪を露わにするでもなく、ただいつも通りに接していた。知らぬふりをする私に、兄はなにを思ったのか。
ある日、兄はふらりと姿を消した。まさかと青ざめる私を見て、祖母は言った。「あの子は北海道の軍隊に入るんだよ」と。ああ、これで兄とは二度と会うことはないんだなと思った。
柿の木に登った兄が私に甘い柿を投げ渡すことも、暑い日にうちわで仰いでくれるあの心地よい涼しさも、兄が自分の心を殺してまで優しい目を向けるあの表情も、もう二度とないのだなと思えば、私の心はぽっかりと大きな穴が空いた。
私は兄として兄が好きだった。
その後、私は心の虚しさを埋めるようにひたすら勉強に没頭した。十代後半を過ぎたころ、医療を学ぶ道を選び、その後医者になった。
貿易の仕事をしていた祖父が跡継ぎを欲しがったので、いずれ形だけの結婚をし、養子を取るつもりだった。しかし、徐々に近づく不穏な足音によって、私の人生は大きく狂っていく。
兄の手紙が手元に届いたのは、ちょうどそのころであった。
*
私が兄と再会したのは野戦病院の片隅で、それはあまりにもひどいものだった。
医療従事者として戦場に召集されて数か月。
野戦病院は負傷した兵で溢れかえり、その光景は悲惨なものだった。言葉では言い表せないほどの現場。生きたまま地獄の中に放り込まれたと言わざるを得ない。そんな戦場に、私は心身ともに疲労していた。
気をしっかりもってください! 年下の看護婦に*咤された私はなんとか取り繕い、次の負傷兵がいるテントへ飛び込む。うっと顔を顰める。その負傷兵は前頭葉を吹き飛ばされていた。
そう、その負傷兵がいまの鶴見中尉だ。彼は非情に危険な状態であった。
鶴見中尉より前に運び込まれていた隣の兵はまだ生きていた。が、すでに虫の息だった。顔を銃で撃たれ、首から上は包帯でぐるぐるに巻かれている。血が滲む包帯の隙間から見える左目は虚ろで、焦点があっていなかった。別の看護婦が手当てをしているが、どうやら助かる見込みがないらしい。残念だが、手の施しようがない。私は隣に寝転んでいる兵士から目を逸らし、鶴見中尉の治療に取りかかった。
周りの協力を得ながら懸命に治療をする。すると鶴見中尉の目が薄らと開いた。ぼんやりとこちらを捉えたらしく、私の目をじっと見てくる。彼の目が何かに惹きつけれたように、一瞬だけ大きく揺らいだ。だが痛みに耐えかねたのかすぐに閉ざされた。
私は彼の命を繋ぎとめることに必死だった。すぐ隣にいる負傷兵の視線にも気づかないまま、汗を流し、黙々と手を動かし続けた。
懸命な治療のおかげで鶴見中尉は命を取り留めた。鶴見中尉の容態を見て、ホッと息をつく。外は休戦。テントには負傷兵が次々と運ばれてくる、休む暇もない。中尉の隣にいた負傷兵はすでに息を引き取ったらしく、これから火葬場に運ぶらしい。手を合わせる看護婦に倣い、隣にいた負傷兵の顔を覗き込む。看護師がせめて目瞼を閉ざしてあげようと、巻かれている包帯を取る。兵士の顔が少しずつ見えてくる。血が染みこんだ包帯が全てとれたとき、その瞬間、私は絶望した。悲鳴を上げなかったのはまだ医者としての理性が残ってたからだ。中尉の隣にいた負傷兵は、兄だった。兄は私の顔を見ながら死んでいったと治療をしていた看護婦は後に語る。その日、私は激しい眩暈に襲われ、倒れた。
私は冷たい床の上で目を覚ました。空いている場所がなく、看護婦が仮眠するテントに寝転がしておいたと看護婦が申し訳なさそうに謝罪するので、気にしないでと右手を軽く上げる。
私はぼんやりとする思考の中、決めた。
この戦争が終わったら死のう、と。
・
・
・
戦争は終わった。
異国の地の風がカラカラになった肌を撫でて、私を黄泉の道へと誘う。
右手にある銃を頭に押し付ける。
「死ぬ気か?」
のろのろと振り返ればと、鶴見中尉がいた。額当てをした彼の目はまだ煌々と輝いている。そこに、死人のような目をした私の顔が映っていた。もはや自分が生きているのか死んでいるのかすらわからないまま、彼の顔を凝視する。
鶴見中尉は私の右手にある銃に視線を滑らせ、なにを考えているか読めない表情のまま続ける。
「兄君の後を追うのか」
「………」
「あなたの兄君はそんなことを望んでいない」
陳腐な台詞だ。笑いもこみ上げない。
「もし死ぬのなら、その命、私に売らないか? 苗字野名前之」
鶴見中尉の双眸は爛々として、実に愉快げだ。
そろそろ彼の存在が邪魔になってきた私は銃の引き金を引こうと、体の向きを前に戻し、指に力を込めた。
だが不思議なことに、いざ引き金を引こうとすると死への恐怖がじわじわと芽生えてくる。それを見越していたかのように、鶴見中尉がくつくつと喉の奥で笑った。
「どうした。引かないのか」
「……はあッ、はっ……」
「うん? どうした。医者は銃の撃ち方すら知らんのか? メスで人の肉を切るんだ。銃の引き金を引くことくらい造作もないはずだ」
「は、はっ、はっ……!!」
「さあ、撃ってみせろ。私が舞台の観客になってやる」
息が苦しい。うまく呼吸ができない。観客の声がうるさい。
「さあ踊れ!」
一発の銃声が荒野の戦場に響き渡った。煙を出す銃口、震える手、私はまだ生きていた。
「銃口はここだ、名前之」
「ひっ!」
少しは慣れた場所にいた鶴見中尉がいつの間にか背後にぴったりとくっついていた。銃を持つ右手を覆うように掴み、それを頭に持っていく。
「ただなあ、銃で頭を打って自殺をするのは案外難しいんだ。上手くやらないと後遺症が残り、死にぞこなってしまう……私みたいにな」
湿った声が耳元で囁かれる。全身が震え、銃を持つ手も力が入らない。鶴見中尉が私の手を放すと、銃も地面に落ちた。人が持たねばただの物言わぬ無機物。こんなちっぽけな鉛玉で、人は簡単に死ぬ。
「兄君は私の部隊にいた。よくきょうだいの話を聞かせてくれたよ。だから、あなたが私のことを知らなくても、私はあなたを知っている。おいで、そこから「降りてきなさい」」
鶴見が私に手を差し出す。
死ぬことがこれほど恐ろしいなんて知らなかった。兄は自分に気付かぬ私を見て何を想い、何を考えて死んでいったのか。乾いた心が重い。立っていることすらままならない。
兄の死に顔を思い出して、もうなにも流れることはないと信じていた目からは涙が溢れ出た。乾燥した頬を濡らす生温かい涙の感触がひどく懐かしい。唇を噛みしめて嗚咽を堪える私は、鶴見中尉の手を取り、その腕の中に迎え入れられた。誰かに寄り掛かることがこんなに安心することだったなんて。
「よく頑張ったぞ、名前之。辛い環境の中、懸命に戦い抜いたあなたを兄君は誇りに思うだろう。あなたの瞳の色は全てを包み込む深い深い海の色だったな、その美しい瞳を見た瞬間、私は死の淵から引き戻された。
お前が私を死にぞこないにしたのだ。礼を言おう、名前之」
頭上から垂らされる釈迦の糸に縋りつくことによって、私はずるずると生きてきた。
それでも心はあの戦地に置いてきたままだ。それを取り戻すことはもう二度と叶わない。
2018*0818