十話


 音之進はすでに知っていた。金木犀の香りを纏っていたのはハツコではなく、なまえこだったと。
気づいたのは士官学校に入る前のことだった。

 幼年学校から帰省した冬のとある日。音之進は自室の椅子に座り、うつらうつらと船を漕いでいた。
 外では冷たい風が部屋の窓を叩いている。女中らが部屋の前の廊下をぱたぱたと忙しない様子で去っていく。なにかあったのだろうか。台所から漂うのは醤油と砂糖で煮つけた魚の匂い。今日の夕餉の準備をしているようだ。実家特有の懐かしい感覚に、音之進の中で張り詰めていた緊張の糸がゆっくりと切れていく。
 
 睡魔が音之進を襲う。かくん、と意識が夢の中に落ちようとしている。せっかく実家に帰省しているんだ。今日くらい羽を伸ばしてもいいだろう。音之進は睡魔に誘われるまま机に突っ伏して瞼を閉じた。

 しばらくすると、部屋の襖がそうっと開かれる音がした。それと同時に金木犀の匂いが音之進の鼻を擽る。頭の片隅に思い浮かぶのはハツコの顔。ハツコ姉さん?と音之進を顔を伏せたまま唇を動かす。けれど幼い頃から姉のように慕っていたハツコはもういない。それならこの匂いは……。

 人の気配が遠ざかり、肩越しに振り返ればなまえこの背中が見えた。彼女の姿を認めた瞬間、心臓が大きく跳ねた。やはりそうだったのか……。

 幼い頃、部屋で居眠りをしていた自分に袢纏をかけてくれたのはハツコだと思っていた。しかしそれは全くの勘違いであり、用意してくれたのはなまえこだったと今になって気づかされた。
 金木犀の香りだってあれはなまえこが放っていたもので、なまえこの香りがハツコに移り、それをハツコの香りだと思っていただけ。思い返してみれば、ハツコから金木犀の香りが漂っていきたのはなまえこが鯉登家にやって来て、しばらく経ったときのことだ。ハツコを慕うがあまり、自分はとんでもない思い違いをしていた。
停滞していた想いが動きだす。音之進の心を突き動かすには十分すぎる出来事であり、いまとなっては喜ぶべき真実であった。





 夜、酒の匂いにあてられたフリをした音之進は薄暗い廊下でなまえこを捕まえ、白い首筋に鼻を埋めた。話し声が聞こえる居間の灯りを見て目を泳がすなまえこを無視し、ああこれだ、これだったのだと強く確信し、幼い頃から抱えていた幻想めいた恋心がいっぺんに崩壊した。

 掴んだときに知るその腕の細さと耳元で聞こえる戸惑いの吐息が音之進の理性を掻き乱し、消化されずに育った愛しさと情欲がいっぺんにこみ上げてくる。
 身を捩り、腕の中からぬけ出そうとするなまえこだが、音之進にとっては子猫がじゃれて遊んでいるような可愛さでしかない。

「大人しくしろ」

 耳元に唇を寄せて叱りつけるように言い聞かせば、脊髄反射の如くなまえこがぴたりと動きを止めた。
 それでも、いまの状況はよろしくないと思っているようで、なけなしの抵抗を示す手が音之進の胸に添えられている。

「や、やめてください……」

 蚊の鳴くような声だった。羞恥心というよりも困惑の感情を滲ませる声色である。か弱い声に加虐心が擽られ、思わず眩暈がするほどたまらない気持ちになった。
 そのとき、僅かに腕の力が弱まったのをなまえこは見逃さなかった。音之進の腕の中からするりと抜け出したなまえこは、隙を見て足早に逃げ出した。その素早い動きに思わず目を丸くさせ、待てと怒鳴りそうになったが、背後の灯りを見てぐっと堪える。二度も逃してなるものか。音之進はなまえこの後を追いかけた。

 女中部屋に続く廊下を曲がり、姿を消したなまえこを追いかけて柔い暖色に染まる自室に滑り込もうとした女の手首を掴む。

「ひ」

 無知な娘とはいえ、これからなにをされるのか容易く想像がついたのだろう。鬼でも見つけたかのような悲鳴を小さく漏らし、丸い目をさらに大きく見開き、怯えの色を露わにする。
 なまえこは音之進の腕を振り払うと、部屋の隅に蹲り、顔を手で覆った。そのうちすすり泣きだす声が聞こえてきたので、これにはさすがの音之進も一瞬狼狽えた。が、明らかにこの場をやり過ごすための演技だとわかると、白けた目でなまえこの肩を掴み、

「……嘘泣きは通じんぞ」
「…………」

 だんまりである。
 泣き真似をしながらすり足で音之進から距離を取ろうとする所は非常に癪で、彼女の諦めの悪さに苛立ちが募った。震える背中を見せつつ、どうせこの場をどう切り抜けるべきか色々目論んでいるに違いない。そういうところも猫っぽくて嫌なんだと音之進は溜息を吐いた。

「こっちを見ろ。なまえこ」
「………… 」

 なるべく優しく言ったつもりだった。それでもなまえこは動かない。しばらく待ってやっていたが、じれったさのあまり音之進はなまえこの肩を掴み、強引に体を反転させた。

 顔を覆うなまえこ手を強引に引き剥がすと、隠されていた双眸が露わになり、熱が宿る視線と絡み合う。なまえこの濡れた目が音之進を映す。すると、なまえこはいじらしく目を背けて恥らった。生娘らしい反応に、音之進の心は味わったことのないおかしな愉悦感によって満たされていく。

「私を拒むな」

 音之進の身に燻っていた欲がむくむくと膨張し、喉元に牙をたてんする獣のように唸れば、なまえこの瞳がびくりと揺れた。ぽかんと空いていた口が酸素を求める金魚のようにぱくぱくと動く。どうやらうまく言葉が出てこないらしい。「あ……あ……」と掠れた声を出すと、醜態を見せたことを恥じたように顔を顰め、視線を床に落とした。
固くなっていた手首の力が抜けたのを見て、音之進はなまえこの体を引き寄せ、再度腕の中に納めた。

 なまえこの頬は花びらのように赤く色づき、額はしっとりと汗ばんでいた。肩を震わせながら吐息を零すのはこれから身に起きることへの緊張感からか、それとも想像できぬ痛みへの恐怖からなのか。

「怖いのか」
「女はみな初めては痛いし怖いものだと言ってましたから」
「誰が」
「姉さん達が」

 音之進が不機嫌そうに鼻を鳴らした。

「普段からそんなことを話しているのか。はしたない」
「ね、姉さん達が勝手にぺちゃくちゃ喋ってくるんですよ!」

 なまえこが音之進の肩を押しながら、心外だと言わんばかりに怒りを見せた。音之進は眉を潜めながら立ち上がり「わかったから静かにしろ。人が来る」と言いながらランプの灯りを消した。暗闇に包まれた部屋の真ん中で、いよいよだと体を固くさせるなまえこの純真さを気に入りながら、布団の上に胡坐をかいた。

「こっちへ来い」

 布団を叩き、畳の上に座るなまえこを呼び寄せる。羞恥心を募らせるばかりのなまえこはなかなかその場を動こうとしない。音之進の目が暗闇に慣れてきたころ、ようやくなまえこが四つん這いになってこちらに近づいてきた。
歩くことを覚えたばかりの赤ん坊のような動きに、もうちょっとそれらしくできないのかと呆れたが、自分から己の元に来たと考えれば不思議と悪い気はしないので口にはしなかった。

 こつ、と自分の膝になまえこの足が当たった。余裕ぶった態度を見せる音之進とは異なり、なまえこからは不安と動揺がひしひしと伝わってくる。

 音之進こそ床入りの知識は多少あれど、女を抱くのはこれが初めてであった。男の矜持を保つため、努めて平静を装ってはいるが、その心の臓は激しく鼓動を打ち、緊張のあまり手にはべったりと汗をかいている。悟られぬよう懸命に昂る感情を堪えてはいるが……そろそろ限界が近い。

 音之進は荒くなる息を抑えながら、なるべく優しくしてやるからと一言添えてなまえこの腕を掴んだ。そして答えを聞かぬまま、性急になまえこの白い体を布団の上に沈めた。耳朶を吐息で擽られ、身を震わせたなまえこの反応を最後に、音之進の理性はぷっつりと音をたてて切れた。
 
 奪われる苦痛と漠然とした喪失感を知らない音之進は、薄く白い肌から漂う花の香りに酔いしれながら、思うがままその「実」を食らう。
最中に唇を噛みしめていたなまえこが我慢できず「痛い……」とうわ言のように何度も口にしていたが、音之進の息が絶えず荒くなる頃には、彼女を気遣う余裕などとうに消え失せ、導かれるまま薄い腹の上に欲を放った。

 情事のあと、なまえこは長襦袢を着たまま暫しの間茫然としていたが、おもむろに背を向けると静かに泣き出した。寝間着の帯を探していた音之進がぎょっと目を剥く。嘘泣きではない、なまえこは本当にすすり泣いている。音之進は動揺したままなんとかなまえこの肩を抱き、冷えた肌を温めるように擦ってやった。裾から覗く白い足が月明かりに照らされて、その艶めかしさに耐えかねた音之進はなまえこの旋毛に目を向けた。

「ひどい……痛いって言ったじゃないですか……」
「……悪かった」
「優しくするって言ったのに……」
「本当にすまなかった。次からは優しくする」
 なまえこが腕を振り払ったせいで、彼女の胸に手が当たった。
「どこ触ってるんですか、ちっとも悪いと思ってないでしょう……! 男性の優しくするだなんて言葉はもう信じられもはん」
 語尾に薩摩の方言がついた。拗ねているだけだなと推測した音之進はこれ以上機嫌を損ねないようになまえこの肩にもう一度触れる
「……なまえこ」
 すんすんと鼻を鳴らすなまえこを抱きよせて宥めることしかできない音之進。先に折れたのはなまえこだった。
「……本当に、次からは……本当に優しくしてくれます……?」
 
 言葉にする代わりに肩を抱く力を強めてやればなまえこは涙を拭い、少し不安げな表情を浮かべながら音之進の胸にそっと身を委ねた。その間に音之進は後ろ手で昼間くすねた手拭いを探し当てる。体液やらなにやらで汚れた布をなんとか見つけ、それを丸めて適当な場所に置き、なまえこを布団の上に寝かせてやった。
 格好がつかないまま事が終わったことに渋い顔をしていた音之進だが、腕の中で眠るなまえこの寝顔を見れば、まあいいかと思い、目の前のこと以外はどうでもよくなった。

 朝を迎えれば、隣にいたはずのなまえこはすでに姿を消していた。もう女中の仕事に行ってしまったのか。四畳半の部屋を見渡し、布団の横にある置手紙を見て、くそ、と悪態をつきながら項垂れた。

 ほかの女中にみつからないよう、おへやに帰ってください。

 音之進は置手紙に書かれた拙い字を忌々しげに睨みつけてから、わざと乱れた布団の上に放り投げ不貞腐れながら部屋を後にした。
 案外冷たい女である。音之進はなまえこの熱く濡れた体を思い出しながら冷たい廊下をひたひたと歩いた。

 その日から三回ほどなまえこを抱いてみたが、音之進がなまえこより早く起きることは一度もなかった。

 士官学校に戻る日の前日はなにもせずに共寝をした。下半身は元気だったがなまえこに月の物がきたと言われれば、音之進もさすがに止めた。
 そのおかげだろうか。次の日の朝、音之進はなまえこが身支度をしている後姿を目にすることができた。のろのろと視線を窓の外に向ける。まだ夜なのではないかと疑ったが空は白み始めている。どこかの家の鶏が高らかに鳴いているのを耳にして、ああ朝なんだなと納得した。士官学校の朝と同じように、女中の朝もずいぶんと早い。音之進は寝ぼけながら感心した。

 なまえこは襦袢のまま化粧台の前に座り、つげ櫛で髪を丁寧に梳いていた。髪の間から覗くつるりとした項がやたら白く、眩しい。音之進は枕に顎を乗せながら目を細めた。

 髪を下ろしたなまえこの後姿を見て、音之進は女特有の色気を見出した。どこか婀娜っぽいなまえこの姿にしばらくの間見惚れる。そのあと欠伸をひとつ零す。だめだ、やはり眠気には勝てない。音之進は枕を抱いたまま、とうとう睡魔に負けて二度寝を決めた。

 次に目が覚めたとき、部屋には誰もいなかった。ここ最近すっかり見慣れてしまった部屋の化粧台がなんだか寂しく感じた。





――――あれから数年が過ぎた。

 鯉登は士官学校を卒業し、様々な過程を経て第七師団に配属された。
 鯉登はもう子供ではない。だからこそ、あの日の自分を思い出すとたまらなく嫌になる。

 一度抱いてしまえばなまえこを手中に収めることが出来ると浅はかなことを考えていた。幼かったあの頃の自分もなまえこも、全てが腹立たしい。

花の匂いに包まれながら眠ったあの日。どれだけ上等な女を抱いたとしても、あの満悦感に勝る夜は二度と来ないのだろうと、音之進はだいぶ後になって気づいた。


 私室のベッドに寝転がり、窓から差しこむ月明かりにつげ櫛を翳す。美しいかぐや姫が置いていったものだと話せば、末代までの語り草のひとつにもなるだろうか。なんてらしくもないことを想像して、あまりのくだらなさに自嘲する。月の姫などあれには似合わん。共通点があるとすれば髪が美しいことくらいか。
 
 あれほど愛おしかった金木犀の匂いも、いまとなっては憎らしいだけの存在である。
花に罪はない。だがあれには罪がある。いっそのこと、このつげ櫛も折ってやろうか。指に力を込めるが、ハツコからの貰いものだと言うつげ櫛にそのようなことができるわけがない。
 鯉登は忌々しげにつげ櫛を睨むと、上体を起こし枕の下にそれを置いた。つげ櫛はいつもこの下に仕舞ってある。女々しいと思うがこれだけは捨てられないのだ。
 
 鯉登は溜息をついてから瞼を閉ざし、眠りについた。
 満ち足りない夜を過ごすことも、もうすっかり慣れた。


2018*1005