十一話

 鬱蒼と覆い茂る木々の間を縫うように逃げまどっていた。自分がどこを走っているのか。ここを抜けるにはどうしたらいいのか。出口のない迷路を走らされている。後方から迫りくる恐怖が私の足を走らせる。

 だがそろそろ体力の限界だ。両足が鉛のように重い。心臓が激しく鼓動を打つ。捕まる恐怖とは裏腹に、体は休めるときを待っている。
いっそ捕まったほうが楽なのではないか。アシリパさん達の安否すらわからないまま、私はひたすら走る。

 共に逃げていた家永さんも、途中ではぐれてしまった。この状況の中、ひとりで逃げるのは一般人の私にとって無謀であり、もはや絶望的だった。

「いたぞ!」

 怒声が背中を貫く。追いつかれた……!
荒々しい足音が徐々に近づいてくる。それなのに、限界を超えた両足はうまく動いてくれない。木の枝が頬を切る。鋭い痛みに顔をしかめるも、なんとか走り続ける。

 最後の力を振り絞り、追手を振り切ろうとしたそのとき、ひとつの銃声が森に木霊した。

「止めろ! 撃つな!」

 後ろにいる追手が先程よりも上ずった声で叫んだ。罵声が耳に届いたと同時に、私の足はバランスを崩した。体がぐらつき、アッと声を上げる間もなく、私の身体は地面へと倒れ、そのまま山の斜面を転がり落ちた。
容赦なく地面に体を叩きつけられた私は、顔を歪め、うめき声を上げた。背中が痛い。耳鳴りがする。

 少しでも身体をよじれば全身に激痛が走った。どうすることもできないまま、なんとか瞼を開ける。暗い夜空に光る星がやたら眩しく輝いている。目の前がチカチカして、視線だけをずらす。頭を打ったのか、視界が徐々に霞んできた。見える木々がゆらりゆらりと揺れて、なんとも不気味だ。

 遠くから人の声がしたが、捕まる恐怖よりも全身に広がる寒気の方が怖かった。このまま死んでしまうのだろうか。

「いたぞ!」
「おい、生きてるか」

 多数の足音を最後に、私の意識はゆっくりと遠のいた。





 目が覚めると白い天井が。見覚えのない景色だ。顔を右に動かす。首にズキンと痛みが走って「うっ」と声をあげれば、少し離れた場所に居る白い背中がもぞもぞと動いた。

「あら、目が覚めたのね」
 白衣を着た家永さんだった。手にはピンセットが握られている。
「家永さん…………」
「ああ、無理して起き上がらなくてもいいですから。ほら、まだ安静にしていないと」

 起き上がろうとすると、背骨からおかしな音が聞こえた。不安になって家永を見れば「ずっと寝ていたからよ。あなた、結構な高さから落ちたって聞いたけれど……幸いなことに軽傷で済んだわ」

 体が丈夫なのね。
家永さんは消毒液に浸した脱脂綿をピンセットでつまみながら言った。
 どうやら家永も特に大きな怪我を負うことなく、第七師団に捕縛されたようだった。彼女はもともと医者であることから、重症者の治療に駆り出されたらしい。自由を許されているのもそのためだと、家永はなまえこの頭に巻かれた包帯を確認しながら、いまの現状を説明する。


 アシリパの父親は死んだ。尾形に撃たれたと家永は言う。
杉元も頭を撃たれたが奇跡的に生きているらしい。だがキロランケに腹を刺されたインカラマッは重症で、いまは喋ることも難しくなってきている。
アシリパさんや白石さんは尾形さんとキロランケさんと共に網走監獄を脱出。杉元さんと谷垣さん、家永さんとインカラマッさん以外の者はどこかに身を隠しているか、違う場所で拘束されているか、はたまた殺されているか。

 事の顛末を語る家永さんの目に僅かな影が宿る。牛山さんや土方さん達はどうしているだろうか。沈黙が落ちる中、ふと、窓の外に目をやる。網走の空に浮かぶ灰色の厚い雲。不穏なその色は我々の行く末を暗示しているのだろうか。

「ああ、そういえば」

 家永さんがふと思いついたように言った。空から目を離し、家永さんを見る。

「あなた、第七師団に知り合いがいたのね」

 部屋から出ていこうとしていた家永さんが、背を向けたまま顔だけをこちらに向ける。その瞬間、私はゾッと背筋を震わせた。家永さんの目はまるで捕食者が獲物を捉えるようなソレだった。小動物の身を竦ませるには十分すぎるほどの強い眼力。そこで私はようやく思い出す。
 彼女が恐ろしい囚人だったということを。
 鈍く光る目で私の全身を舐めたまま、彼女は言った。

「ふふ、知らなかったわ」

 最後に吐かれた言葉を聞いて、私は蒼白になった。緊迫した空気が部屋を支配する。家永さんが出ていき、ドアが閉まっても、私の体は蛇に捕まったように動かなかった。
 
 私は疑われているのだ。第七師団と通じていた女として。裏切り者だと。どうしよう……誤解されている。第七師団の中に知り合いなんていない。私の頭の中はひどく混乱した。
 彼女が言っていた第七師団の知り合いとは一体誰なのだろうか。
 記憶の糸を手繰り寄せても思い当たる人物はいない。

 面識のない第七師団の誰かに自分のことを知られている。しかも杉元達には内通者として疑いをかけられている。なんで、まさかそんな……。恐怖と焦燥感が体を支配する。

 唇に指を当てる。不安のあまり無意識のうちに唇の皮まで剥いていた。
唇の皮が剥けた痛みより先に、首筋に痛みが走った。驚いて首裏に手を当てて見れば、うなじにガーゼが貼られていた。ここも怪我をしたのだろうか。首を動かすたびに痛みが襲う。小さい痛みだが、それが返って不快である。下手に首を捻ったりしないほうが良さそうだ。

 ピリッと痛む唇を湿らせて、もう一度ガーゼを指で撫でていると部屋の扉がノックされた。不意をつかれ、反射的に肩を揺らす。

 客人は私の返事を聞くとドアノブを回し、姿を見せた。

「失礼するよ」

 入ってきたのは額あてをした将校だった。右手に風呂敷を持ち、口元には笑みをたたえている。どことなく近寄りがたい印象を受けた。

 独特な雰囲気を持つ将校に少し怖気づく。
でもよくよく見れば、どこかで会ったことがあるような気がする……。私が記憶を掘り起こす前に、将校が先に口を開いた。

「小樽の茶店で会わなかったかな?」
「え?」
「ううん、覚えてないか……なら、これ見覚えは?」

 将校が手に持っていた風呂敷を広げ、仕舞われていたそれを広げた。

 掲げられたのはなんてことないごくの普通の着物の肩掛けだった。どこかで見覚えのあるものだ。私は首をひねり、肩掛けを凝視する。はっと思い出し、もしかして……と呟いてから将校の顔を仰いだ。

 額あてから除く思慮深い鷹のような目に既視感を覚える。
火傷を負った肌、肩掛け、小樽、小樽の店……。浮かぶ言葉を繋ぎ合わせてみればすぐに思い出す。私は目を大きくさせて声を上げた。

「あっ」
「思い出してくれたかな?」
「え、ええ……」
「なら自己紹介は省くとしよう」

 将校は肩掛けを丁寧に畳むと、扉の近くに置かれた丸椅子をベッドの傍らまで持ってくる。そして緩慢な動作で椅子に腰を下ろした。

 ゆったりとした立ち振る舞いなのに、どこか威圧感がある。改めて彼と対面すると、彼がただの将校ではないということが怖いほどわかった。世間知らずの私でも理解できたのだ、間違いない。小樽で出会った時とは真逆の印象を覚えてしまった私は、なぜか彼の眼差しから目を逸らすことができなかった。

「君はなぜ杉元一派と行動を共にしていた? 茶店にいた行商人の青年はどうしたのだ」

 ようやく気づく。目を逸らせないのではなく、目を逸らすことを彼が許していないのだと。私はしどろもどろになりながらもなんとか答える。

「え、ええ……それが……」

 声音は穏やかなのに心の壁を容赦なく剥そうとする将校の視線に怯えながら私は語る。網走に来るまでの出来事を。

2018*1109