あれはいまから二年ほど前の出来事だった。遡る場所は薩摩、鯉登家の門構え。
私は鯉登家を訪れていた行商人からある誘いを受けていた。
「私の店で働いてみませんか。私、普段は北海道で商売をしているんです。いまは行商人として各地を回っていますが、そろそろ北海道に帰ろうかと思ってまして。それで、その……どうですか、ぜひ一緒に北海道へ行きませんか、なまえこさん! ここにはない暮らしをするのも楽しいですよ」
行商人曰く、私が出した茶と私自身を気に入ったとのことで、彼は両手にある手提げの荷物を抱え直しながら笑った。
「あなたが煎れてくれた茶があまりにも美味しくて。それに……その、あなたのことも気になってしまい商談中もあまり身が入らなくて……はは、今日は駄目でした」
照れくさそうに頭を掻く行商人。飾り気のないその態度に私は好感を抱いたが、彼の誘いに応えることなく、ただ曖昧な笑みを作って誤魔化した。行商人はますます恥ずかしそうに首をすくめ、ちらちらとこちらを見ながら帰っていった。
その行商人は三日後にまた鯉登家にやってきた。私は前と同じように彼に茶を出す。途端に行商人は破顔し、なにやらもじもじと手を忙しなく動かし始めた。
どうしたのだろうか。小首を傾げつつ、行商人に「具合でも悪いのですか? 厠に行きますか?」とこっそり言えば、なぜかキョトンとされた。かと思えば、吹き出しながら大丈夫ですと首を振った。
違った。私は恥ずかしさのあまり俯きながら「失礼しました」と客間を去った。
「なにかありましたか」
厨にいた女中に声をかけられたが首を振る。女中は不思議そうな素振りを見せたが、それ以上追及することなく背を向けた。
こうした平凡な日々を、もう何度も繰り返されている。代わり映えしない毎日だが、私は十分満足していた。大きな変化など求めていない私は、自分の未来が見えぬまま時の流れに身をまかせた。
そんなある日、私の遠い親戚だと名乗る男が突然鯉登家に押しかけてきた。
その男は奥様に言った。私を叔母の家に返してほしいと。旦那様は家を不在にしていたので、今日はいったん帰ってもらったが、嫌な予感しかしない。不安のあまり奥様を見つめる。奥様は大丈夫と私の背を撫でるが、わだかまりは消えないままだった。
叔母と男の魂胆はこうだった。賭場に出入りしていた叔母の息子がいつの間にか莫大な借金を背負っていた。家族は懸命に働いて金を返すが、借金はなかなか減らない。とうとう返済がままなくなった叔母の家族らは膝を突き合わせてどうしたものかと悩んだ。
そこで、ふと私の存在を思い出した者がいた。それを聞いた叔母の息子は言った。私を遊郭に売ろうと。とうが立っているが多少の金にはなる。これにはさすがの叔母も渋い顔をしたが、背に腹は変えられぬ。叔母からそんな事情を聞いた男は彼らの代わりに私を連れ戻しに来た……ということらしい。
彼らの身勝手さに怒りを覚え、大いに呆れた。そんなこと私には全く関係のないことだ。なぜ私が碌でもない息子が作った借金を返さなければいけないのか。絶対に遊郭になんて行きたくない。行ってたまるものか。
憤慨する私だったが、叔母の身内だと語る男を何度も追い返さす奥様の姿を見ていれば、その決意は脆く崩れた。お世話になった家にこれ以上迷惑はかけられない。出ていきます。と奥様に告げれば、奥様は目を釣り上げて私を叱りつけた。
行ったや二度と出てこられん、どげん場所かわかっちょるんか。
わかっています、わかったうえで行くと言ったのです。涙を飲み、懇願するように訴えれば、奥様はもうなにも言わなかった。
荷物をまとめて、寝床に入る。いよいよ明日、私は売られに行く。固くて薄いこの布団で寝るのも今日で最後となる。
暗い部屋の真ん中で瞼を閉じれば、嫌でも悲観的な思いに駆られてしまう。静寂に包まれる中、思い出すのは鯉登家にきたときのこと。
鯉登家に来たときは、どうせまたどこかにたらい回しされるに決まっていると思っていたが、案外長く続いたものだ。鯉登家には感謝してもしきれない。私はいつの間にかこの家が好きになっていた。できればずっとここにいたい。それなのに。
置いていかれるのはもう嫌だと思っていた。なのに今度は私が出ていく番になった。別に私がいなくなっても悲しむひとはいないのだ。だから別に……。
私は閉じていた瞼をぱちりと開いた。とある男の顔が頭の中に浮かび上がる。
音之進さまだ。私は音之進さまを置いていくのだ。
本気なのか戯れなのか知らないが、彼は私を妾にすると言った。奉公先で手を出される女中は少なくないと聞くが、まさか自分がその立場になろうとは。しかも相手は海軍に所属する父を持つ息子。身分が違いすぎる。
閨を共にしても心までは奪われないだろうと高を括っていたが、どうも凝りが残る。
私の手首を掴んだあの強引な手の平の熱を思い出してそこを指で触れる。そうやっているうちに彼が恋しくなるのはなぜだろうか。
音之進さまは私に文字を与えたかわりに純潔を奪っていった。正妻が良かったとか、妾が嫌だとか、そんなことは取るに足らない問題だ。
これは私のわがままに過ぎない。妾だって、それなりに幸せな生活を送れるはずだと私は思う。根本的な問題はもっと別にある。
世界中の人が消えて、自分だけが四畳半の部屋に取り残されたような錯覚に襲われ、やたら侘しい気持ちになった。
どうしてこういうとき、音之進さまは側にいないのだろうか。いてくれたら少しは……いいや、止めた。これでは私の母みたいだ。だから父みたいな男性は嫌なんだ。私は掛け布団を頭まで被り、脳裏に浮かぶ不毛な思考を振り払い、闇の中に意識を委ねた。
夢なんて見られないまま朝を迎えてしまった。重々しい気持ちを背負いながら部屋の襖を閉める。ハツコ姉さんからもらったつげ櫛は置いていこう。持って行ってしまえば私はきっと鯉登家のことを思い出し、寂しさのあまり遊郭で毎日泣いてしまうだろうから。
「これ、あなたにあげる」
廊下を歩いていた一番幼い女中を引き止める。腰をかがめて彼女と視線を合わす。私はつげ櫛を渡した。彼女は戸惑ったような顔をしたが素直につげ櫛を受け取ってくれた。
「毎日髪を梳かしてね」
「うん。ありがとう……さようなら、なまえこ姉さん。お元気で」
あどけない顔に見覚えがある。ハツコ姉さんもこんな気持ちだったのだろうか。涙腺が緩んだがぐっと堪え、小さな頭を撫でてその場を後にする。
お世話になった方たちに挨拶を終え、最後に奥様のもとへ。私の姿を確認した奥様は神妙そうな面持ちでこちらをじっと見た後、玄関まで見送りをしてくれた。
「え?」
玄関の戸を開けば、なぜかあの行商人の姿があった。門のそばにいた行商人はこちらに気づくと慌てた様子で歩み寄ってきた。
「奥様、まずいです。早くなまえこさんをここから逃さないと……彼が来ます」
商人は重そうな荷物を背に背負いながら口早に言った。奥様はええ、と相づちを打つと私に向き直る。
彼にちていきやんせ。
少し遅れてから、ようやく私は奥様の言葉を飲み込んだ。行商人についていけ。
幼いころに味わった、あのべったりとした甘さと渋みが唾液と共に滲み出す。それは舌に一杯に広がり、私は思わず唇の皮を摘むように触れた。
不幸という奴は足音を立てずにそろりそろりとやってくる。そんなこと、とっくの昔に経験したというのに。現実の厳しさを忘れた私に襲いかかったそれはあまりにも突然で、いつだって別れを告げることもできないまま。
私はまた、どこかへ流されていく。
2019*0315