十三話

 鯉登家の息子がこの身に手を掛けてきたとき、私は恐れのあまり彼から逃げた。男の生温かい息が耳を掠めた瞬間、私の頭の中は真っ白になった。母のような女にはなりたくはない、けど彼に逆らって機嫌を損ねさせてしまったら私はどうなるのだろう。
 この家を追い出されたら、私には行く場所がない。ひもじい思いをするのはもう嫌だ。私は部屋の片隅で顔を覆いながら覚悟を決めた。

 女中の立場からでは口が裂けても言えないが、よぉく見れば音之進様は顔立ちが良い方だ。
 帝国軍人を志す彼にはもう昔のやんちゃな面影はない。海軍の息子としての誇りや自信、夢への希望を持ち、名の通り尾で水を弾く鮮やかな鯉を連想させる方だ。立ち姿だって品がある。しかも背が高い。刀の腕も確かだし、どこをどうみても申し分ない方だ。
 周りの男性と比べてみて、どちらが良いかと聞かれたら多くの女が音之進さまがいいと答えるだろう。多分、そういうことだ。

 一度くらい我慢すれば……。きっと彼も満足して私を妾にするなどと二度と言わなくなるだろう。私を抱くそれらしい理由があればいいのだから。
 私は自分の唇に他人のそれが押し付けられる感触に少しの不気味さを覚えながら脚の間にある異物に声を震わせた。

 さきほどまで上下に動いていた音之進さまは私を抱きしめながら肩で荒く息をついている。私はというと、怒涛の体験に思考が追い付いていけず、ただぽかんと天井を仰ぎ、音之進さまの息遣いを聞いていた。そしてひっそりと悪態をついた。
 へたくそ、ちっとも優しくないじゃないか。もちろんこれは心の中でだ。さすがに口にするのは憚られた。矜持を傷つけて家を追い出されることを危惧したからだ。私は喉まで出かかった言葉を飲み込むと、背を背けながらぐすぐすと泣いて音之進さまを困らせてやった。
効果はそれなりにあったようで、音之進さまは少しだけ優しくなった。無骨な手に肩を抱かれ、たくましい胸に頬を寄せる。褐色の肌から匂う汗と嗅いだことのない男の体臭。

 昔、彼からは雨上がりような汗の匂いがした。お前が嫌いだったと泣きべそをかいたくせに、大人ぶった顔で文字を教えてくれた。
 頭を過ぎるのは幼い頃の音之進さま。目が眩むほど懐かしい思い出が、霞のように消えていく。
 するとなぜか、不思議と目の前にいる音之進さまが別の誰かに思えた。私はなんだか急に恥ずかしくなって、乱れた襦袢の前合わせを直した。





「お前の髪は美しいな」

 夜の帳が落ちて、皆が寝静まったころ。布団の上で寝そべっていた音之進さまが私の髪を弄りながら言った。狭い部屋を照らすぼんやりとした灯りでさえ眩しそうに目を眇める彼は暇を持て余している。
 つい先ほどまで私の上で懸命に腰を押し付けてきたくせに、ずいぶんと涼しい顔で陸言を交わすものだ。

 乱れた布団を適当に直しながら「あら、ありがとうございます」と受け流す。髪の毛だけは毎晩欠かさす手入れをしていた。自己満足だったが、やはり誰かに褒められると嬉しいものだ。私は耳に髪をかけながら微笑した。
 音之進さまはまだ私の髪を弄っている。毛先を指に絡めたりはねた髪を手で梳いたりして手遊びを続ける音之進さまが、ふいに口を開き、言った。

「やはり、今まで見てきた女の中でお前の髪が一番綺麗だ」

 その発言に、布団を直す私の手が止まった。口元に浮かんでいた笑みは張り付いたように固まり、すとんと表情が消えた。
予想していなかった感情がふつふつと胸に湧き上がる。その事実に私は言葉に詰まらせ、狼狽した。戸惑いながらもなんとか取り繕う。

「そうですか」
「ああ」

 私がぎこちない微笑をつくっていることに気付くことなく、音之進さまはどことなく機嫌よさげに頷いた。
 
「……そろそろ寝ましょうか」

 声を潜めながらするこの会話も、もしかしたら廊下まで届いているのではないかとひやひやするときがある。灯りだって、本当は長くつけていられない。襖の隙間から漏れる灯りを見た者が不審に思うかもしれないからだ。
 こんな夜中まで起きてないで早く寝なさいと女中頭に襖越しから注意されたときはかなり焦った。なにしろ襖越しにいる私達は情事の真っ最中。だから灯りは消してと言ったのに……。私は苦い顔をして上にいる男を睨み、女中頭に返事をする。
 音之進さまも不意をつかれたのだろう、結局その夜は最後まで致さぬまま、大人しく寝ることになった。なんとなくすっきりしない雰囲気を纏うあの日の夜も、彼は私の髪を弄り、そのまま眠ってしまった。

「灯り、消しますね」

 髪を触る手から逃げるように立ち上がると、私は灯りを消した。布団の中に潜り、髪の毛をまとめ、片方の肩に流してから音之進さまに背を向ける。
 なんとも言えないもどかしさが胸の中に渦巻く。髪は女の命。気安く触るものではないし触らせるものでもない。きっと音之進さまは別の女性達と褥を交わし、こうしてよく髪を弄るのだろう。子供が眠るまで母親の手を握り、意味のない遊びをするように。
 嫉妬と呼ぶには少し遠い。けど私はいま、それに似た想いを抱いてしまっている。

 障子越しから差し込む月明かりをぼんやり見つめていると、背後から腕が絡みついてきた。
されるがまま抱きしめられていれば、頭に口づけを落とされる。
唇はそのまま下へ。首筋に顔をうずめた音之進さまが息を吸い、熱い吐息を零す。
「よか匂いだ」
 陶然とした声。私の足に音之進さまの足が絡まった。逃がすまいとしているのだろうか。体を抱き締める腕の力も強くなる。

「音之進さま」
「ん? なんだ?」
「あまり私を傷つけないでくださいね」
「は……? 待て、どういう意味だ」

 首元に埋めていた顔を上げて、柔らかい声が剣呑としたもの変わる。褐色の腕が体から離れていく。

「おいがいつお前を傷つけたというんだ」
「ふふ、さあ?」
「なまえこ」

 苛立たしげに肩肘をついて上体を起こす音之進さまに、私は体を反転させて形のいい鼻の下にある薄い唇に人差し指を当てた。

「静かに、音之進さま」

 低く耳ざわりのよい囁きに、音之進さまは押し黙る。私はまだ腑に落ちない様子でいる音之進さまの額に口づけを落とし、広い胸に擦り寄った。

「私、音之進さまの腕の中が一番好き」

 厳しい訓練の賜物といえる二の腕の筋肉にわずかに爪を立てる。音之進さまの体が強張った。ややあって私の背に腕が回る。

「…………お前だけだ」
「なにがです?」
「だから………………私にはお前だけだと……」

 口ごもる音之進さまに、私はクスクスと笑った。

「将来、その言葉を自分の奥様に使いまわすのでしょうね」

 穏やかな声音の中に毒がある。音之進さまは苦虫を噛み潰したような顔をした。

「……やめろ、わかっているだろう」
「ふふ。はい、わかっています」
「ならいい。つまらないことは言うな」
「ごめんなさい。けど、男性にとっては些細な一言でも女にとってはそれがとても嬉しかったり、逆に胸が焼けるような傷跡を残すようこともあるんですよ」

 相手によりけりですけど。と言えば、音之進さまはいまいち得心していない様子で、む……と唸った。

「……肝に銘じておく。あと……」
「……? はい」
「向こうで女を抱いたことはない。髪が美しいと言ったのも今まで見てきたどの女の髪よりも本当に美しいと思ったからだ」

 耳元でぼそぼそと囁く音之進さま。怖々と頭を撫でてくる手に、私はほくそ笑む。

「嬉しい。ありがとうございます、音之進さま」

 そう言って、私はまた音之進さまの胸にすり寄ったのだった。


2019*0315