なまえこは元々、ここから遠い場所に住んでいた。大人たちによって流れ流され、ここにたどり着いた。だから、なまえこは生粋の薩摩おごじょではない。
ある日、女中の姉さんに、いただきものの野菜を洗っておいてと頼まれた。女中の下っ端であるなまえこは二つ返事で野菜を受け取り、近くの土手下にある川辺へ向かう。土手を降りるとき、途中で大根を落とし慌てたが、幸い割れてもなく傷もついてなかった。
野菜についている泥をあらかた落とし、川でよく洗う。日差しに照らされてつるりと輝く野菜にひとり満足し、前掛けで手を拭く。
年がら年中、水に触れているから手は荒れ放題であったが、まだなまえこにはそんなことを気に止めるほどの余裕はなく、紅も引かない唇を舐めては、今日のご飯はなんだろうかと悩む日々。
ふと腹が鳴った。陽はまだ高い。夕餉まで遠いなあとなまえこが野菜を籠に突っ込み、腰を上げようとしたとき、背後から鋭利な視線が突き刺さったのを感じた。
よく知るそれに、恐る恐る首を振り向かす。
ひッ、となまえこは息を飲んだ。土手の上に褐色肌の少年がいたからだ。
やっぱり!となまえこは青ざめる。なんとなく誰の視線なのか予想がついたのに、怖いもの満たさの感覚で毎度振り向いてしまうのは、もはやなまえこの悪い癖となっている。
お、音之進様……!
なまえこを見下ろすのは切れ長の目が印象の鯉登家の息子だった。
軍人の父を持つ彼は手本のように厳格で真面目な人間である。文武両道を極める音之進も、いずれ彼の父親と同じように立派な軍人になるに違いないと周囲の期待も大きい。
そんな音之進だが、なまえこにとっては恐怖の対象であった。理由は単純。ただ怖いからである。
かち合う視線を逸らすことも、腰を上げることもできずになまえこは音之進を見上げる。睨みつけるような音之進の目つきになまえこはたちまち竦み上がった。
「おーい、音之進ー」
音之進より遅れて、彼の学友らしき子が走ってきた。学友らしき子は音之進の視線の先を辿り、きょとんとまばたきをした。
「知り合い?」
なまえこを指差す。なまえこはぎくりと肩を震わせた。別に後ろめたいことをした訳でもないのにはと思うが、見知らぬ人に指を差されるのはどうも嫌な気がしてならない。
ややあって、音之進は呆けているなまえこを尻目に「知らん」と言い放ち、学友を置いて去っていった。学友も遅れて後を追い、なまえこだけが土手下に取り残された。
置いてけぼりをくらったなまえこの中に虚しさが広がる。すん、と鼻を鳴らしたが泣きはしなかった。所詮、身寄りのない子の扱いなんぞこんなもんだと己に言いつける。働けて飯がありつけるだけマシなのだ。なまえこは渦巻く虚無を振り払うように野菜が入った籠を力いっぱい持ち上げ、土手の坂を登った。
今日はなぜか土手を上がるのに、いつもより時間がかかった。きっと野菜が重かったせいだ。そうに違いない。
ちちちと空を泳ぐ鳥が穏やかに鳴く声を背に、なまえこは土手の一本道をよたよたと歩き出した。
2018*0510