三話
あ、裾がほつれてる……。
音之進とすれ違うとき、なまえこは彼の着物の裾が解れていることに気づいた。なまえこは特に何も考えず、女中として反射的に音之進に声をかけた。
「音之進さま、裾が解れてますよ」
直しましょうかと、床に膝を付き音之進の着物の裾に触れる。音之進のほうを窺えば、瞬時に足を払われた。
「い、いたらんこっすっな」
「えッ……」
余計なことするななど……。
あまりにも理不尽な返しではないか。なまえこは顔を上げ、ぽかんと言葉を失った。なまえこが瞬きをしているうちに、音之進はなまえこを睨みつけるとさっさと家を出ていってしまった。
大げさなほど腕を振り、肩を怒らせながら学校に向かう音之進の背を、誰もいない居間の窓からそっと見送る。
あんなに怒らなくてもいいのに。なまえこは音之進が消えた方角を見つめながらため息をついた。仕方ない。後で姉さんに裾のことを報告しよう。
私が触ると嫌なようだし、解れを直すのも姉さん方のほうが私よりうん上手いのだから、となまえこは居間の柱を撫でながら考えた。そのまま何気なく指で柱を撫で続けてみれば、なまえこは木目にこびりつく埃を目ざとく発見した。いけない、と慌てて雑巾を取りに戻り、居間の柱を拭く。
きっと音之進は虫の居所が悪かったのだろう。気難しい方だから……。靄がかかる気持ちを払うように丹念に柱を磨けば音之進の顔は頭の隅に追いやられ、次第にぼんやりと消えた。
*
「あら、なまえこ。これ坊っちゃんにお渡ししておいて」
坊っちゃん。言わずもがな音之進のことである。
ええ……。不満の声は口から漏れることなく唾液と共に飲み込んだ。預かり物を抱えながらとぼとぼと音之進様の部屋へ向かう。
部屋の前まで来て、襖越しに声をかける…………返事はない。留守だろうか。不在のほうがなまえこにとっては都合がいいが……そっと襖を開ける。
ぎょっとなまえこは肩を震わせた。いないと思っていた部屋に音之進がいたからだ。しかも珍しく居眠りをしている。座布団を枕にして気持ち良さそうに寝ている音之進の裾を見てみれば、まだ解れは直されていなかった。
忍び足で部屋に入り、預かり物をそっと机の上に置く。
うう、と音之進が唸った。すぐそばに汚れた手拭いがある。どこかで遊んできたのだろうか。寝返りを打つ音乃進の背を尻目にさっさと部屋を出ようとしたとき。音之進がくしゃみを零した。ふと窓を見る。窓が開いていたので戸を閉めてからいったん部屋を出る。客間に足を踏み入れ、押入れを開ける。押入れの中に仕舞われていた袢纏を引っ張り出し、再び音之進の部屋へ。
なまえこは音之進を起こさぬように袢纏を掛けてやり、汚れた手拭いを持ち、今度こそ部屋を後にした。
その日の夜、なまえこは女中の「ハツコ姉さん」と一緒に音之進の着物の解れを直してやった。縫い目が荒くなってしまわぬよう丁寧に針を通していけば、見守っていたハツコが「相手のことを考えるともっと上手に縫えるわよ」
と得意げに言ってきたので、なまえこは音之進の顔を思い浮かべながら針を持ち直す。
なまえこは縫い目が雑になってしまったことに気づいたがハツコには黙っておいた。
後日耳にしたが、どうやら音之進は裾の解れも掛けてやった毛布も、全てハツコがやってくれたものだと勘違いしているらしい。
ハツコは違うわと否定したが「袢纏を掛けてくれたときの匂いと裾の残り香が貴女だった」と言って聞かないらしい。残り香とは。なまえこは首を傾げたがハツコも香りについては身に覚えがないのか不思議そうにしていた。
とりあえずハツコ姉さんがやったってことにしておいたらどうですか、穏便に。
なまえこが水を張った桶に手を突っ込み、手拭いについた汚れを親の仇のように徹底的に落としながらそっけなく言うと、ハツコが健気ねえと頬に手を当てながら嘆いた。
言っている意味がわからないなまえこは訝しげにハツコを一瞥したあと、手を動かす作業に没頭したのだった。
2015*0511