四話
ハツコは慣れぬ土地で働くなまえこのために色々面倒を見てくれた人である。そんなハツコの歳は十八。
来月、彼女はお嫁にいく。
「懐かしい。あなた、私がお庭で音之進さんと一緒に野鳥を見ていたときに来たのよね」
ハツコは化粧台に座りながら、背中まで伸びている黒髪をつげ櫛で梳かしていた。濡れ羽色の黒髪が生糸のようにキラキラと輝いている。
その美しさに目を奪われながらも、なまえこが頭の中で思い出すのは鯉登家に来たときのこと。
泣きながら家の中に連れていかれるなまえこの姿をハツコは苦笑しながら見ていて、その隣には音之進がハツコに寄り添っていた。いま思えば音之進はハツコとの時間を邪魔されたからあんなに怖い顔をしていたのだと、なまえこは最近になって理解した。多分、彼はハツコに思慕している。
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「おい」
「え? は、はい……?」
珍しく音之進に呼び止められたなまえこは、乾いた衣類を胸に後ろを振り向いた。ふいに目を下に向ければ、音之進の手には竹刀が握られており、これから稽古なのだとなまえこは察した。内心怯えながらも恭しく会釈をし、なにか?と目で問う。
「そん手ぬぎを一枚くれ」
音之進はなまえこが持っている手拭いを目で示した。なまえこは少し慌てながら、即座に乾きたての手拭いを渡す。
手拭いを受け取り、踵を返そうとした音之進がなにかに気づいた様子で足を止めた。
手拭いを揉むように触ると、ムッと固く閉ざしていた口元が僅かに緩んだのをなまえこは見逃さなかった。この手拭いを畳んだのはハツコである。音之進はそれに気づいたのだろうか。
まだ目の前になまえこがいるとわかると、音之進は瞬時に表情を消した。ひと睨みして、
「なんじゃ」
「い、いえ、別に……あの、これ、ハツコ姉さんに頼まれたので早く仕舞わなきゃと思いまして……」
ハツコの名が出ると音之進は眉を潜め、居心地悪げに視線を斜め下に投げた。手拭いを固く握りしめたかと思えば、次に力なく手を体の横へぶら下げた。白い布が床スレスレに泳いで入る。
「おはん……」
「はい」
音之進を見つめるなまえこの目がキュッと丸くなる。音之進もなまえこの目を見たあと、まだなにか言いたげに顔を曇らせたが、
「…………なんでんか。はよ仕事に戻れ。ハツコ姉に迷惑かくっな」
そう言うとさっさと背を向けてしまった。ピッと背筋を伸ばし、音之進は足音を鳴らしながら去っていく。
「はあ……?」
いつかの日みたいに口を開けて突っ立ったままのなまえこは、また置いてけぼりをくらった。呼び止めたのはそちらだぞ。なまえこはやや不満げにしていたが、それを顔に出すことはしなかった。なまえこは腕の中からずり落ちそうになった衣類を胸に抱き寄せ、音之進の背を見送った。
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ぼんやりと天井を仰ぎながら数日前の記憶を振り返る。ハツコのほうを見れば、ちょうど目があった。
鏡越しから見るハツコが眠たげに目を細め、布団に寝転んでいるなまえこに手招きをする。
「さ、こちらへいらっしゃい。あなたの髪を梳いてあげるのも今日で最後よ」
「なんで?」
「なまえこはこれから女の子になるからよ」
手入れを忘れ、ごわごわになったなまえこの髪の毛を梳いているハツコはどこか幸せそうだった。
なぜこれから女の子になるのか。よくわからない。母の腹にいたときからすでに女なのに。なまえこは視線を斜め上に向けながら、水分を失ってみっともなく剥けた唇の皮を引っ張った。無理矢理剥がされた場所から血が滲み、なまえこは痛いとぼやきながら手の甲で唇を擦る。コラ、とハツコが眉を潜め叱りつけたが、なまえこは気にすることなく鏡に映る丸い顎を触りながらいつものように舌で血を舐めた。
二週間後。ハツコは遠い場所に嫁いでいった。
最後だからと、ハツコは大事にしていたつげ櫛をなまえこに贈った。毎晩、ハツコが使っていたつげ櫛に視線を落としているうちに、ハツコはあっという間に何処かへ行ってしまった。
今日から女の子になりなさい。
立ち去る前に、なまえこの頬に手を添えながら微笑んだハツコの顔が脳裏に蘇る。そんなハツコは、笑いも泣きもしないなまえこを見て心底心配げに眉をハチの字にしていた。
ハツコはもう二度とここへ来ることはない。
なまえこはつげ櫛を握りしめながら泣いた。これで、なまえこが誰かを見送るのは二回目となった。忘れていた別れの悲しみを思い出したなまえこの目からは涙が堰を切ったように溢れる。
拭っても拭っても、拳が濡れるばかり。どうしても涙を止めることができないなまえこは厨の方に逃げ込み、勝手口から外に出た。
人気のない場所で腰を降ろし、しくしくと泣いていれば勝手口のほうから足音が聞こえてきた。
誰。そう言う前に、その音は姿を表した。なまえこは赤くなった目を丸くさせ、その子を見上げる。
「お、音之進さま……」
「……おはん、なにしちょっ」
「…………」
「ハツコ姉が嫁ぐど。これほとめでたか日はなか。なんに、なんじゃそん顔は。ハツコ姉、困った顔で出ていったぞ。最後くれ、笑うて送り出してやれ。ないごていつもおはんは暗か顔をすっ。辛気臭か!」
口を挟む間もなく尖った声で捲し立てられ、なまえこはますます顔を歪ませ、瞼をきつく閉ざす。
音之進の鋭利な視線から逃げるため、膝に顔を埋めているので彼がいまどんな表情をしているかはわからない。
そもそも自分が常に暗い顔をしているなんて自分がよくわかっているし、仕方ないことだ。
――――生まれつきなの、ほっといて!
面を上げて叫ぶ前に、なまえこはぎょっと目を大きくさせた。顔を上げれば、音之進がいまにも泣きそうなでなまえこを睨み、その目を赤くしていたからだ。
呆然としていれば、音之進が地団駄を踏みながらなまえこに指を差す。
「そん目でおいを見っな!!」
突然の泣きべそに、なまえこは鳩が豆鉄砲を食らったような顔をして音之進を見上げる。
「野良猫んごたっしを馬鹿にしたような目でおいを見っくせに!! なんにハツコ姉には可愛がられちょって! いっつもハツコ姉の匂いを纏わせて自慢して!!」
「じ、じまんなんて……」
そもそもハツコ姉さんは私の先輩でしかも同室で色々面倒を見てくれたから側にいただけで……と尻すぼみに反論するなまえこだったが、音之進の相手を射殺すような鋭い視線に負け、口を噤んだ。
せからしか!!おいは小さなころからずっとハツコ姉とおったんじゃ!!と叫ぶ音之進に、なまえこは怯えるというより、むしろ呆気にとられている。彼の瞳の奥には怒りの他に、寂しさと嫉妬が混じった複雑な色があった。なまえこは大いに戸惑い、そして彼が想うハツコへの情を汲み取った。
音之進は息を切らしながらなまえこを見下ろし、ついにはその瞳から涙を溢し始めた。なまえこは驚くことも動揺することもせず落ち着いた声音で言う。
「ハツコ姉さんのこと好きだったんですよね。私もハツコ姉さんのこと大好きでした。私、今日からひとりで寝なきゃいけないから余計寂しいです」
なまえこは立ち上がると、懐から手拭いを取り出し、音乃進の零れる涙を拭いてやった。
「音乃進さまは? 今日もお部屋におひとりで眠られるんですか?」
「と、当然や。おいは薩摩隼人じゃっでな……」
なまえこは知っている。彼がいつも両親と共に川の字で寝ていることを。そしてどちらかが厠に立つと、偶然を装い一緒についていくことも。
「……そうですか。すごいです。私、厠にいくときまだ怖くて……夜はいつもハツコ姉さんについて来てもらってました」
「ハツコ姉に迷惑かくっなとあげんゆたじゃろうが……」
鼻を赤くして怒る音之進はちっとも怖くない。なまえこはふふふと小さく笑うと、
「でも鯉登家の廊下って厠に行くときちょっと不気味じゃありません? 特に夜とか……ほら廊下に飾ってある奥様が気に入ってらっしゃるあの絵画とかいまにも目が動きだしそうで……」
訊ねるなまえこに音之進は鼻を鳴らしながら「確かに……」と言う顔をしたがすぐに我に返ると頭を振り、またなまえこを睨みつける。
頬に涙の痕を残し、鼻を赤くして眉を吊り上げる音之進はどこからどう見ても、姉を恋しがるただの子供であった。
これを機に、なまえこは以前から気になっていたことを訊ねてみることにした。
「あの、ところで。ハツコ姉さんの匂いってどんな匂いなんですか? ハツコ姉さんもよくわからないって言ってて……」
「金木犀じゃ。ハツコ姉さんからは金木犀の匂いがすっ。ハツコ姉さんがいっとすぐわかっど」
「そうなんですか……金木犀……」
「……おはんもよう匂うちょった。じゃっで羨ましかった。じゃっで好かんった」
「そうですか…………ところで私の顏を見てください」
え ?と音之進が俯かせていた顔を上げた。途端に、彼の重そうな瞼が大きく見開いた。
なまえこは音之進が嫌いだという目を丸くさせて、口を猫のようにきゅっと持ち上げてみせていたのだ。当然、音乃進への仕返しである。
至近距離でそれを見た音乃進は肩を揺らし、やはり声を枯らしながら怒った。
今度は泣き声ではなく笑い声がひとつ、青空の下にカラカラと転がる。
この日から、なまえこは自分で髪を梳かすようになった。
2018*0513