六話


 なまえこは猫のような丸い目で音之進を見ていた。猫と言っても愛猫のようなソレではなく、野良猫に近い無愛想で辛気臭い目つきである。

 音之進はその目が嫌いで、いや、苦手であった。昔、野良猫に手を引っかかれたことがあるからだ。

 音之進がまだ両手の指で歳の数を表せたとき、家の庭に黒猫が迷い込んできた。怪我でもしていたのか、右耳がほんのちょっと欠けているやんちゃそうな猫だった。
 音之進は猫を触ろうと手招きをするが、あちらは耳をピンと立てて警戒するばかり。

 音之進は頭を使い、厨に置いてある壷から煮干しを二、三本ほど抜き取った。そしてその煮干しを餌に猫をおびき寄せ、まんまと近づいてきた猫の体に触れることに成功した。
 それからというもの、猫は気まぐれに鯉登家へやって来るようになった。餌を頂戴できる縄張りを見つけた猫は警戒を解き、音之進を見つければ擦り寄るようになった。幼い音之進は猫が可愛いあまりに、何度も厨から煮干しを盗み取る。

 そしてある日、いつものように煮干しを猫にあげようと厨に忍び込んだ音之進だが、なんと煮干しが入っていた壷が空っぽだった。なんで?と首を傾げる音之進の背後から、声をかけられた。肩を揺らし、振り向けばハツコがいた。不思議そうにしているハツコに、なんでもないと首を振り、厨を出る。庭では猫が煮干しをいまかいまかと待っている。音之進は猫に「今日は煮干しがない」と伝えながら頭を撫でてやるが、猫は丸い目を細め、不満げに音之進を睨む。無いもんはないと、猫の尾の付け根を叩く。猫は煮干しがないことが気に食わなかったのか、それとも触れられた場所が嫌だったのか。音之進の手の甲に鋭い爪が引っかかれた。

 音之進が悲鳴を上げ、引っかいた猫は一目散に逃げた。音之進の手には引っかかれた三本の傷跡がくっきりと残っている。裂けた皮膚の間から血がじわりと滲み出て、音乃進は涙ぐみながらその場にへたり込んだ。

 それきり、猫は鯉登家に来なくなった。

 音之進が再びその黒猫と相見えたのはなんと友人の家。右耳の一部分が欠けていたから間違いない。黒猫は縁側の下で満足そうに顔を洗い、音之進のことなど忘れたように背を向け丸くなっていた。あれほど煮干しを与えてやったというのに、全く見向きもしないとは。

 猫とはなんて薄情な。音之進は落胆した。
 それ以来、音之進は猫を比較的好かない生き物に分類し、見かけても相手にしなくなった。

 そんな音之進に嫌がらせをするかのように、あのなまえこが鯉登家に奉公をしにやって来た。
 よりによってその奉公娘は、猫のような目を持っていた。泣き声も甲高く、とにかく煩い。母が宥めてやっているというのに、なまえこはいっこうに泣き止まない。
 ふと、なまえこと目があった。猫を彷彿させる独特な目つきにゾワッと背筋に寒気が走る。きっとあの娘も黒猫と同じだ。いつか鋭い爪を出して引っ掻きに来るに違いない。

 母が居間でさっそくアレに餌付けをしていたので、音之進の腹の底では言いようのないもどかしさが生まれたが、ハツコが木の枝に止まる野鳥を指差したので、気を取り直し、美しい野鳥を眺めた。



「裾が解れてますよ」

 ある日、そう言って見上げてきたのはなまえこだった。

 彼女が鯉登家に来て早数カ月が経った。あれほど泣き喚いていたなまえこはすっかり鯉登家に馴染んでいる。猫は人の家に上がり込むことが上手い生き物だが、それはやはりこの奉公娘も同様で、音之進が慕うハツコにもだいぶ懐いていた。そのことも含め、なまえこの事が益々気に入らない。

 ぎょろ、と猫が獲物を狙っているようななまえこの丸い目が音乃進を貫く。それに動揺した音之進は掴まれていた裾をとっさに振り払い、なまえこを睨め付けた。なまえこは、え……と戸惑った声を出す。

「いたらんこっすっな」

 音之進は己に情けなさを感じながらもなんとか取り繕い、足早に家を出た。なまえこは何も言わなかった。
 外に出てしばらくすると、なぜか背中に針が突き刺さっているような、そんな視線を感じた。不安に駆られた音乃進は慌てて振り返ったが、ここからもう自宅は見えない。きっと「猫」の仕業だ。音之進は忌々しげに舌を打ち、再び歩き出した。
 背後から「にゃあ」と鳴き声がしたが、振り返ることはしなかった。




「見てみて母ちゃん! 子猫!」

 ハッと、鯉登の意識がそちらに向いた。向かいの店先にいる五歳くらいの子供が母親の手を引きながら、茶トラの子猫に指を差している。

「ではみたらし団子を三本ですね。ありがとうございます」
「ああ」

 結局鯉登は、店員が書いてくれた店を全て回り、みたらし団子を三本ずつ買った。月島はその後を黙って着いてきていたが、店を三軒ほど回ったところで「そのくらいに……」と物申したのだが、鯉登は全く聞いていなかった。

 この店でついに六軒目である。あの団子屋の店員はどれだけの店を鯉登に教えたのだろうか。月島は出来たてのみたらし団子が包まれている紙袋を手に、鯉登の背に向かって、

「鯉登少尉、あと何軒回るんですか? ……鯉登少尉?」
「……もうこれで最後だ。十五時まで時間がない。早く鶴見中尉のところに戻るぞ」
「はい……あの子猫を見ていたのですか?」

 月島が鯉登の視線が投げられていた場所を辿る。やはり、鯉登は嫌な顔をして黙った。

「ねえ、連れて帰っていい?」

 店先に座り込んだ子供が母親に聞く。しゃがみ込み、猫の頭を撫でていた母親は暫し悩んだ末、「しょうがないね」と子猫の首を掻いてやりながら笑った。どうやら、愛くるしい子猫に庇護欲をか掻き立てられたらしい。 
 それを聞いた鯉登は眉を顰め、子猫を抱き上げる親子の背を見送る。

「……どうせ他にも餌をくれる家があるんだろう」

 鯉登が呟いた言葉を拾ったのは側にいた月島と、子供の腕の中で欠伸をし、鯉登のほうを見つめていたあの無邪気な目をした子猫のみである。

2018*0519