八話
厨で任された洗い物を終えて、なまえこはようやく仕事がひと段落ついたと重い溜息をついた。居間で行われている春を祝う宴の声が廊下に響き渡り、厨の勝手口に腰を下ろしたなまえこはその声を聞きながら束の間の休憩を取ることにした。
今日は鯉登家の主人と親交の深い花沢様とそのご家族が来ている。
花沢家には勇作という一人息子がいて、なまえこも一度だけ彼を目にしたことがある。
長身なうえ顔の造形も素晴らしい勇作から荷物を受け取った女中が、彼に微笑みを向けられれば、彼女はぽっと頬を染めて肩を揺らした。下唇を噛みしめていたので一体どうしたのかと顔を覗き込む。どうやら黄色い悲鳴を上げそうになるのを懸命に堪えているだけのようだった。心配して損した。
勇作が立ち去った後、鯉登家の若い女中らは一斉に頬を赤く染めた。間を置いて互いに目を合わせ、火が付いようにキャアキャアと笑いだす。娯楽の少ない場所に見目のいい男性が来れば、彼女らは子供のように無邪気にはしゃぐ。なまえこは檻の外から動物を見ているような心地で女中らに苦笑を向けた。騒ぎが収まる様子がないと判断した女中頭が厨から飛び出して叱りつけるまで、彼女らは飽きることなく勇作のことを話し続けていた。
そんなこんなで、一通り仕事を終えたなまえこは空に浮かぶ雲をぼんやりと仰いでいた。流れていく雲の形を動物に例えながらひとり遊んでいると、廊下の方から「すみません」と声を掛けられた。聞き覚えのない声。客人の声だ。なまえこはハッと我に返り、慌てて立ち上がる。大雑把に身なりを整えて厨を出れば、なんとあの花沢家の嫡男、勇作がいた。
突然の登場に驚きつつ、笑みを浮かべて「なんでしょう」と答えれば勇作は
「すみません、お水をいただけないでしょうか」
と言ってきたので、なまえこはお待ちくださいと厨に戻り、水を持ってきて勇作に渡す。礼を言い、水をその場で飲む勇作の顔色は優れない。心配になったなまえこはそっと訊ねる。
「あの、もしかして具合が悪いのでは……少しお休みなられますか?」
よかったら横になれるお部屋に案内致しますよ、と腰を低くして言えば勇作はゆるりと笑みをつくり、頭を振った。
「いえ、大丈夫です。どうやら酒の匂いがちょっと……はは、すみません、ご心配をお掛けしてしまって」
空になったコップを渡す勇作の手は震えている。居間に戻ろうと踵を返すが、その足つきはふらふらとしていてなんとも覚束ない。見かねたなまえこは勇作を呼び止め、客間に連れて行くことにした。
「あの、ここは……」
案内されるがまま、なまえこの後をついてきた勇作が部屋に足を踏み入れた瞬間、彼の目は大きく見開かれた。視界に飛び込んできたのは部屋の窓から見える大きな桜の木。地面を桃色に染め上げ、ちらちらと花びらが舞う幻想的な景色に勇作の口からは美しい……と感嘆の声が零れる。
「綺麗でしょう。鯉登家自慢の桜の木です。ここのお部屋から見るのが一番きれいなんですよ。さあ、花沢さま。ここにお座りになって下さい」
なまえこは桜が見える窓の近くに座布団を敷くと、まだ部屋の入り口で立ちすくんでいる勇作に向って、座るように促す。
「見飽きてしまったら、お呼び下さい」
見飽きたら、つまり具合が良くなったら呼んでくれといった意味を含めて、なまえこは勇作に告げた。どうやら勇作にもなまえこの心遣いが伝わったようで「ありがとう」と笑みを深め、部屋の中へ。
勇作が座布団の上に腰を下ろしたことを確認したなまえこが部屋から出て行こうとすれば、なぜか呼び止められた。
「なにか」
振り返りながら問う。勇作は「ひとりで見るのはもったいないから一緒にどうでしょうか」と先ほどより血色が良くなった顔で微笑んだ。
どうしようか……。なまえこは少し迷った後、おずおずと勇作の斜め後ろに座る。歳の離れた妹を見守るような眼差しを受け、なまえこはもじもじと膝の上で自分の指先を弄った。なんだか背中がむずむずする。恥ずかしいような嬉しいような。
「私は一人っ子だから昔から兄弟が欲しくて……。歳の離れた子を見るとつい頭を撫でたくなってしまうんです」
そう言いながらなまえこの頭を撫でる勇作の顏はとても楽しげである。
それにしても年下の女中にも敬語で話すなんて、ずいぶんと丁寧な人だ。なまえこは大人しく頭を撫でられながら、勇作の人柄の良さに感服した。
勇作が纏う穏やかな空気に、なまえこはハツコの面影を重ねた。まるでハツコが家に帰ってきたみたいで、なまえこは勇作の手の温かさにそっと甘えながら、丸い目を輝かせて勇作の話に耳を傾けた。
こうしてゆったりとした時間が流れる中、なまえこは桜が舞う庭を眺めながらぽつりぽつりとたわいもない話を勇作が飽きるまで共に付き合い続けたのだった。
2018*0713