九話


 勇作さんが戻ってこない。そう周囲に言ったのは音之進の母だった。
大人たちの会話に交わらず、黙々と小鉢をつついていた音之進も、母の声につられて勇作が座っていた場所に目を向ける。確かに先ほどまでいた勇作がいない。男たちは皆酒を飲んでいるから、勇作が席を立ったことに気が付かなかったのだろう。
 勇作がいた席には箸と料理だけが残されていて、皿に盛られている煮物や魚はあまり手を付けられていなかった。箸も並べたときと変わらないまま、きちんと箸置きに置かれ、湯呑に入っていた茶だけが空になっている。
 音之進、ちょっと探してけ。
父に頼まれ、音之進は口の中に入っていた物をきちんと飲み込んでから席を立った。

 まず最初に厨へ足を向けたが勇作の姿はなかった。では厠だろうか。音之進は厠の戸を叩き、中を覗き込んでみたがやはり勇作はいない。じゃあどこに? 音之進は首を傾げつつ、一番近くにある客間の方へ。
 客間の手前まで来ると、なぜか襖が開いていた。いつもは閉じているはずなのに……。不思議に思っていると、部屋の中から話し声がぼそぼそと聞こえてきた。
男と女の声に音之進の足がふと止まる。よく耳を澄まして聞いてみれば、なまえこと勇作の声だった。どうりで聞き覚えのある声だと思った。音之進はやれやれと溜息をつく。

ん? おかしくないか? 音之進は怪訝な顔をした。
なぜふたりがこんなところに。思案する前に、なまえこと勇作の賑やかな笑い声が耳に届く。それがなぜか苛立ちを誘った。


「金木犀の妖精さんだなんて……花沢さまったら、少し気障すぎですよ」
「本当です。君からは金木犀の香りがする。ずいぶんと早い秋が来たなあと思っていたんです」
「そんなに金木犀の匂いしますか? 前に同じようなことを言われたのですが、自分ではよくわからなくて……」
「ええ、秋の匂いがしますね。花に惹きつけられる蜂や蝶の気持ちはきっとこんな感じなのでしょうね。はは、いい体験ができました」
「そうですか?……でも、私が似合う香りはきっと秋刀魚を焼く匂いです。寄ってくるのはにゃあにゃあと鳴く猫ばかりで困っちゃいますね」

 その冗談に、勇作が声を上げて笑った。
楽しげに談笑するふたりにいてもたってもいられなくなった音之進は、部屋の中へ足を踏み入れた。会話を裂くようにして突如乱入してきたのにもかかわらず、勇作となまえこは穏やかな顔つきで音之進の方を振り向いた。

「ああ、音之進か」
 なまえこが軽く会釈をしたが、音之進は無視をする。
「勇作さん、勝手にいなくならないでください。皆が探していましたよ」
「ああ、すまない。ふふ、気付かれてしまったか」
 
 勇作は名残惜しげに桜を一目見ると、なまえこに向って

「ありがとう。美しい花に囲まれたおかげですっかり気分が良くなりました。では、また」

 柔和な微笑みを最後に、勇作は音之進の肩を叩くと部屋から出て行った。
 
 勇作が客間を去ると、部屋には静寂が広がった。妙な疎外感が残る。勇作を呼びに来ただけなのに。これでは無粋な闖入者だ。
 残されたなまえこは耳を赤く染めながらもせっせと座布団を仕舞い、開いていた窓の戸を閉めている。その赤い耳が気に食わない音之進は、腹の虫がおさまらないまま言い放つ。

「仕事をサボって男とお喋りか。ずいぶんと偉うなったんじゃな」
「はい……?」

 窓の鍵を締めながら、なまえこがキョトンと体の向きを変えた。知らぬふりをするなまえこ。その態度を見ていると、みぞおちの辺りがムカムカする。怒りの根底に潜む嫉妬心に気付かぬまま、飛び出る悪態。

「戯れられて子でも孕まされてみぃ、おはんみたいな女中は辺鄙な土地に追いやられ、子供と一緒に捨て置かるだけじゃぞ。ただの女中が花沢家の敷居を跨わけがなか。そもそも勇作どんの父君がおはんなんかを妾にすっこと自体お許しにならんじゃろうな。わかったや諦め」

 嗤う音之進に、なまえこは表情を変えないまま小首を傾げる。ここまで言われたのにもかかわらず、彼女の丸い目には憤りや悲哀の色は浮かんでいない。そのことに少し安堵している自分がいて、音之進の顔がカッと熱くなる。やり場のない気持ちと得体のしれない感情が先走り、複雑に絡み合っている。

 赤くなったり青くなったり忙しない音之進など気に留めず、なまえこは指を顎に当てて「ううん?」と間の抜けた顏で唸る。

「ええと、なにを言っているのかよくわからないのですが……」
 
 呑気な声に、音之進の目尻が釣り上がる。

「お前は勇作さんの妾になりたいのかと訊いたんだ」

 発した声は先ほどより落ち着いていた。ようやく言葉の意味を汲み取ったなまえこが慌てて首を振る。

「あ、いえ、別に薩摩弁が聞き取れないとかじゃないので私に合わせてくれなくても…………ええと、その……なる必要があるならば、なりますが……?」
「なるな」
「あ……はい」
「……ならんでよか」
 
 音之進が顔を斜め下に俯かせながら再度言った。

「……はい、なりません」

 柔らかい声色だが、はっきりとした言い方だった。宣誓のようにも聞こえる。
その誓いを聞いてもなお、音之進の胸の内には消化できない感情が執拗に渦巻いていた。みぞおちの辺りに溜まっていたものも、心の淀みも、まだ残っていてなんとも後味が悪い。そんな音之進の心情など露知らず、なまえこは曇りのない笑顔で

「でもよかった。私、まだ鯉登家の女中でいたいですから」

と言うと、むすっと黙り込んでしまった音之進の背を押して、共に客室を後にした。

 目の端に捉えたなまえこの指先は、相変わらず荒れている。

 そのとき何を考えていたのか自分でもわからなかった。音之進は彼女の手を奪おうとしていた。触れる寸前に己の手を叱咤して、体の横に戻す。背中のぬくもりを振り払うように、なまえこの先を歩く。

 薩摩隼人がこんな小娘に振り舞わされるなんて。情けない。無意識のうちになまえこの手に触れようとしていたことも、背中の温もりに劣情を抱いたことも、音之進はこれ以上ないほど恥じて、どこかに駆けだしたい衝動に駆られた。

 席に戻って改めて口にした料理も、もう味がしない。冷めて味が落ちたわけではない。自分の舌がおかしくなったのだ。美味しかった料理も、これほど不味いものに変わるとは。なんて忌々しい感情だ。
この日から、音之進となまえこは口を訊く機会が減った。なにか言いたげな視線が背中を突くこともあったが、振り向いたら負けだと自分に言い聞かせ、彼女の目から逃げた。


 そんな日々を過ごしているうちに音之進は幼年学校へ入学し、家を出た。家を離れているときはなまえこのことなどこれっぽっちもを考えないよう徹底し、勉学と訓練に励んだ。それでも皆が寝静まる夜だけは、ふと両親のことやなまえこの事を考えてしまう。両親はいいが、なぜお前が出てくるのだ。音之進は天井のシミを睨みつけてやったが、頭のなかに表れる奴にはまるで効果がない。
これだけはどうしようもならぬと音之進は布団をかぶり、理性をかき乱すあの顔を暗闇の中に放り投げてやった。

  
 さらに月日は流れ、音之進が幼年学校に進み二年と半年が過ぎた。
 秋口、実家から一通の手紙が送られてきた。差出人は……なまえこからだった。突然の手紙に音之進の心臓が跳ねる。文字を教えてやったのだから手紙くらい寄越せと言った約束を覚えていたらしい。
余計なことを……。文句を垂れる一方、ひそかに喜悦を感じている自分もいて、苦虫を噛みつぶしたような顔になった。

 寮の部屋に戻り、手紙の封を切って読んでみれば、身体を壊さないように、風邪に気を付けて、音之進さまがいないので少し寂しいと、そのようなことが書いてあった。全く持って中身のない手紙だが、音之進はその中身のない手紙を受け取り続け、きちんと返事を返してやった。

 貰った手紙は一度しか読まぬと決めている。繰り返し読めば幾重にも重なった己の想いが手紙の文面に出てしまう気がしたからだ。

 幼年学校に入る前から胸中に燻り続けている厄介な情念。その名前を音之進はとっくの前に見つけていたが、そのときがやってくるまでは決してその蓋を開けぬと、心の隅に捨て置くと固く誓っていた。
 音之進は与えられた寮室にある机の引き出しを開けると、紐でくくられている手紙の束の間に先日送られてきた手紙を挟んだ。鼻先をかすめる微かな花の匂いに郷愁の念を感じたが、いまの自分には不要なものだと切り捨てる。余計なことを考えぬうちに引き出しを閉め、廊下から聞こえる級友の呼びかけに答えながら部屋を後にした。





 手紙のやりとりは音之進が士官学校に進むと同時にぱたりと無くなった。なぜか。それはなまえこが忙しい音之進に気を遣い、手紙を出さないようにしていたからだ。こちらから手紙を出すのはなんだか癪で、音之進もあえて手紙を書かなかった。わざと母と父にだけに手紙をしたためて送ってみたが、それでもなまえこから便りは来ない。なまえこも郵便を受け取る機会があるはずだから、気付いてもおかしくないはずなのに。待てど暮らせど求めるものは来ないまま、夏を迎えた。
腹がたった音之進は帰省した際、両親の挨拶もそこそこに、とある部屋を目指した。パン!と音を立てて閉ざされている襖を開け放つ。予想通り、部屋の中ではなまえこが洗濯物を畳んでいた。音之進はなまえこに向って開口一番文句をつける。

「貴様なぜ私に手紙を書かんのだ!」
すると、
「あら音之進さま、お帰りなさいませ。士官学校に行ってからというもの薩摩弁が綺麗に消えていますね、なんだか別人みたいです」

 なまえこは手を休めぬまま、にこにこと切り返す。こいつ、その態度は幼年学校に行く前の仕返しか。音之進はわざとらしくため息を零すと、どすんっとなまえこの隣に腰を下ろした。

「相変わらず貴様の手は荒れているな。女子というより働き者の母の手だ」

 てきぱきと衣類を畳むなまえこの手は相変わらず綺麗とは言い難いものだった。しかも指に肉がついたような気がする。太くなったぞ。そう指摘してやればなまえこは「あらまあ、女にむかって言う台詞じゃあありませんね」

 そして何事もなかった様子で再び洗濯物を畳みだす。年頃の娘としてそれはどうなのだと言いたいが、音之進はなまえこの手が嫌いではなかったので、それ以上のことは言及しなかった。

 外では蝉がけたたましく鳴いている。音之進は稚さが抜けきらないなまえこの横顔を眺めた。

 士官学校へ進学してからというもの、音之進は近くの女学校に通う学生と話をする機会がたびたびあった。勝手に席を設けられたうえ友人たちに連れられて渋々だが。
上流階級の女生徒だったため、傷一つない白魚のような手が印象的だった。垣間見える教養の高さと品のある振る舞いに、音之進は彼女らに好感を抱いた。

 奇麗な身なりで街を歩き、地位のある両親を持つ彼女らと、たすきをかけてと忙しなく動くたいしたとりえもない上、親類に捨てられた身寄りのない目の前の女。
どちらを選ぶと訊かれたら、きっと大勢の物が家柄の良い女を選ぶだろうし自分だって前者を選ぶ。血と家柄を重んじるこの時代でただの女中を嫁にするだなんて。全くもって阿呆らしい。不毛な悩みを抱えていたものだ。

「おい」
「はい?」
「なまえこ、お前はいま好いている男はいるのか」
 唐突すぎる質問になまえこが戸惑いの色を浮かべる。
「…………は……いえ、いませんが」
「そうか!」
 思わず喜色を露わにしてしまったことを恥じて、誤魔化すように咳払いをする。
「なら貴様の面倒は私がみてやる。正妻と共に暮らせとは言わん。なまえこには別宅を用意しよう。近い将来何不自由ない生活させてやるから、もうしばらくの間だけこのまま女中として働いてくれ」
 なまえこが訝しげに眉を寄せる。
「……え? あの、待ってください。正妻? 面倒を見る……? 私の? 音之進様が? なぜ?」
 混乱するなまえこ。音之進はその様子を見て溜息をついた。
「はあ……鈍い奴だ。私が帝国軍人になった暁には貴様を生涯手元に置いてやると言っているんだ」

 端的に言ってやれば、なまえこは目を大きく見開き驚倒した。蝉が木から飛び立つ羽音を聞いて、ようやく我を取り戻したようだった。

「え? あの、なんの冗談で……」
「冗談ではない。私は本気だ」

 なまえこは瞠目したまま言葉を失っている。狼狽えながら顔を俯かせるなまえこの手はまだ衣類を畳んでいた。どうやらなにかをしていなければ落ち着いて物事を考えられないほど混乱しているらしい。しかも、時折手を胸の辺りで泳がせたかと思えば、すでに畳んである手拭いをまた最初から畳みだすという奇行を繰り返す始末。
手にしていた手拭いをもはや癖のように折り、衣類の上に重ねていく。

 その積み重なる手拭いのように、自分も母と父の手によってここまで歳を重ねてきた。
いつか自分も父と同じように嫁を取り、子を成す。そして次の世代へ鯉登の名を繋げていく。自分が生まれたその瞬間、良い血を子孫に残さなけばならないという使命がこの身に課せられているのだ。
幼年学校、士官学校で帝国軍人になるべく厳しい訓練を重ねる中、徐々に自覚し始めた女中への恋。いらぬものだと捨ててみたが、その想いは心の片隅にこびりつき、執拗に熱を増していく。なまえこへの想いから逃れられないと悟った音之進は覚悟を決めた。

 この女を一生側に置いておこう。正妻にはしてやれないが、彼女にとっても悪い話でないはずだ
教養も備わっていない、鯉登と釣りあう血筋も家柄もなにもかもがなまえこには足りない。だからこそ自分が面倒をみてやらねばと思った。
きっとこのまま流されるように生きていれば彼女は将来碌でもない男に捕まり、一生苦労をさせられるだろう。
そうなる前に自分が彼女を――――……。

「なまえこ」

 焦点が合わぬ目で唇を触り、乾燥して剥けている皮を引っ張り出したなまえこの手首を掴む。皮が剥けた唇から血が出ていた。他人の血が付いた唇に口づけようなど絶対に思わないが、いまはその流れる血も自分のものにしたくてたまらない。

「馬鹿め」

 私以外のために血を流すことは許さん。

「え、あ」と言葉にならない母音を零すなまえこに構わず、赤く滲んでいるそこに自分の口を付けようと顔を寄せた、そのとき、

「なまえこさーん! 厨で夕食の準備の手伝いをお願いー!」

 廊下に女中頭の声が響き渡った。あの女中、いくら家主が出かけているからといって廊下で叫ぶやつがあるか。音之進は邪魔をした女中頭を怒鳴りつけたてやりたくなった。

「は、はあい!」

 わなわなと肩を震わせている間に掴まれていた手を振りほどき、これ幸いとばかりに立ち上がるなまえこ。
音之進はハッと顔を上げたが、なまえこはすでに部屋から出ていってしまった。洗濯物を片さずに出て行ったということは、かなり動揺しているようだ。
ひとり取り残された虚しさが音之進の胸に広がる。

 くそ、これくらいでは諦めんぞ。音之進は手拭いを一枚拝借すると、それを懐に入れて部屋を出た。

2018*0713