よすがは杣人の家に生まれ、心優しい両親と二人の兄とともに育った。
 あまり裕福ではなかったけれど、雨風をしのげる家があったしご飯は毎日食べられた。
 あたたかい火を囲んで、父と母がいとおしそうに子ども達を見守るような、ごく平凡な家庭。贅沢はできなかったがささやかで穏やかな暮らしだったと思う。小さな家の中はいつも賑やかで満ち足りていた。
 
 父はよく笑うひとだった。ひとが良い故に損をしながら、それでも温和な笑顔を浮かべては情けは人の為ならずと子どもたちに教えた。
 母はよく働くひとだった。体が少し弱くて、熱を出しながらも大丈夫だからと無理をするきらいはあったが、一生懸命に夫の帰る、そして子ども達が育つ家を守っていた。
 兄は双子で、容姿はそっくりだけれど性格はあまり似ていなかった。
 心配性でぶっきらぼうな双子の兄の有一郎と、お人好しでぼんやりした弟の無一郎。
どちらの兄も形は違えど優しいところは一緒だった。

 妹の誕生を何より楽しみにしていた兄二人は、無事に生まれてきた妹の面倒を取り合う勢いでみるものだから、父は嬉しいやら寂しいやら、少し拗ねるやら。
 母はそんな家族を穏やかに見守っていた。
「ずっとめんどうみてあげるからね」
「ばか。よすがだって大きくなるんだからずっとはむりだろ」
「えっ…!や、やだ…よすが、おおきくならないで」
「だからむりだっていってるだろ…」
「じゃ、じゃあできるだけゆっくり…ゆっくりだよ、わかる?よすが」
「………」
 きょとんとした顔の妹に頬ずりをして真剣にそんなことを言う弟がおかしくて。普段はつんとしているばかりの有一郎も、気付かないうちに柔らかな表情をすることが多くなった。
「よすがはあったかいね」
「まだあかんぼうだからな」
 つん、と妹の頬をつつく。細くふにゃりとした髪に顔を寄せると乳臭いけれど落ち着くにおいがした。お互いを小さくしたような妹の姿が不思議でしげしげと眺めていると。
「ねぇ、にいさん。ぼくたちよすがのおにいちゃんなんだね」
 有一郎を見上げて、無一郎が笑う。
 まん丸の大きな瞳をきゅうっと細めて、本当に嬉しそうに笑ってみせるから、有一郎は何だか泣きそうになって眉を下げた。嬉しいのに苦しくて、喉の奥がつきんと痛い。目頭が僅かに熱を帯びた。
 おれはずっとまえからおまえのおにいちゃんだろ、なんてもごもご舌の上で転がして。

 背におぶって、子守唄を歌って、手遊びをして、双子の間にはいつも妹が挟まれていた。
 そんな兄に懐かない妹がいるはずもなく、よすがは物心つくまえから二人の後ろをいつもくっついて歩くようになった。
 さすがに父の仕事の手伝いをしに行くときはもう少し大きくなってから、と連れて行ってはもらえなかったけれど、帰った兄は疲れているにもかかわらず寂しいとふてくされていたよすがを構ってくれた。
 どれだけ機嫌が悪く火がついたように泣きじゃくっていても、有一郎と無一郎を見るだけでぱっと表情を輝かせるようになって、そこがまた兄達にとっては可愛くて仕方なかった。

 体の弱い母に代わって、妹の面倒は二人でみることが多かった。
 妹も母譲りなのかよく熱を出す体質だった。母の看病で慣れていたから、妹の看病だって文句のひとつも言わなかったし、性別も違って歳も少しばかり離れていて同じ遊びがどうしてもできないことも嫌がったりはしなかった。むしろはじめてできた自分よりちいさな存在に瞳を輝かせていた。
 母も父も、よくそんな二人を撫でては褒めて慈しんだ。
「有一郎も無一郎もやさしい子ね」
「お前たちは自慢の息子だよ」
 父の大きな厚い手のひらと、母のあかぎれてなお美しい指先がいとおしそうに皮膚をくすぐるとき、二人は誇らしいような照れくさいような気持ちになる。
 だからだろうか、幼いながらも有一郎も無一郎も自分達の後ろを必死についてくる妹を同じように慈しんで、大事にできるような子どもに育った。
 かわいくて仕方ないというようにいつだって三人一緒で、両親も時々困るくらいには仲の良い兄妹だった。

「あらあら、三つ子みたいね」
 夕食後のゆったりとした時間だった。
 ふと、母が床で団子のように並んで遊ぶ兄妹を見て目を細める。布団の上でころんと転がる姿は大きさこそ違えど本当にそっくりだった。母の声に満月のようにつぶらな三人の瞳が一斉に向くものだから今度は父が微笑んだ。
「有一郎も無一郎もよすがが大好きだから、よすがはお嫁に行くときに苦労するかもしれないね」
「うふふ、そうですね」
 お嫁さん。短い舌で父の言葉を反芻する有一郎と無一郎。
 顔を見合わせて、次に妹を見る。ふくふくとしたまだちいさな妹。この子が、いつか誰かのもとへいってしまう…?
「おれがみとめたやつじゃないとおよめにはいかせない」
「ぼく、よすががおよめさんいっちゃうのやだよ」
 息子たちの可愛い抗議の声に、父は呆気にとられたがすぐにあははと笑い声をあげた。
「父さんもだよ」
 よいしょと立ち上がった父が大きな手を伸ばして三人を抱きしめるときゃあ!と嬉しそうな声が弾けた。
 遠くない未来にやってくるその日を思い浮かべて胸がいっぱいになる。この子たちはどんな大人になるのだろう。
「もう、みんな気が早すぎますよ」
 ぱちぱちと火の弾ける囲炉裏の傍で、母は繕い物をしながらそんな光景をただ微笑ましそうに眺めていた。

 そのうち歩けるようになると二人はよすがの手を引いて、色んな事を教えてくれた。
「あのあおいのはそら。おまえのめとよくにたいろしてるだろ。よるはまっくらだけどほしとかつきがきらきらするんだ」
「あのもくもくしているのはにゅうどうぐも。とうさんがせきらんうんっていうかみなりぐものこどもっていってた」
「ざあざあいってる。あめがふってるんだ。ほら、そとみてみろ。でるのはだめだからな」
「はるのかぜはね、くさとはなのにおいがするんだよ。はなのさくころになったら、とっておきのところにつれていってあげるからね」
 空の色、雲のなまえ、風のにおい、雨の音。そうした季節の移ろいや生きるための知恵も。
 ちいさなちいさなよすがには両手で数えきれないほどたくさんのこと。きっとそれはせかいの中のほんの僅かだったけれど、よすがの心は瞬く間に兄達に彩られていく。
「よすが、ねぇ、あしたはなにしょうか」
「はれたらとうさんのしごとにつれていってやろう。そろそろいいっていってたから」
「よかったね、よすが。ぼくもがんばるからみててね」
「はりきりすぎてへまするなよ」
 繋いだ手のあたたかさも、鼓動のいとおしさも、涙のしょっぱさも、一緒にたべるご飯のおいしさも、二人が言葉にしないものもよすがは兄を通して知っていった。
 手を繋いで、抱きしめて、大好きだと言えば少し照れたようにして。それからいっとう優しく微笑んでくれる。
 父と、母と、兄たちがいれば、ほかには何もいらない。
 幼い少女は、つたなくもそんな日々をあいしていた。
 

 
 ささやかな幸せの終わりは、有一郎と無一郎が十のころに訪れた。
 母は日頃の無理がたたって風邪をこじらせて肺炎を患い死に、父は嵐の中、薬草を取りに行った折に崖から滑り落ちて死んだ。

 両親を喪って、呆然と涙をこぼしてすがりついてくる弟と妹を有一郎は震える腕で抱きしめた。
 善人だった。人を傷つけることも貶めることもしなかった。それなのに、どうして。どうしてこれほどまでに惨憺たる死を迎えなければいけなかったのだ。
 握った拳の行く先が見つからない。怒りの矛先も曖昧で怒りと悔しさだけが漠然と募る。

 神様も仏様も、誰も、どんなに善行を重ねたって助けてくれやしない。どれだけ善良に生きていたって守ってくれやしない。
 それならば。

 花の咲く、できるだけきれいな場所に両親の墓をつくった。手も服も土だらけになりながら、嗚咽と涙を垂らす二人を有一郎はまともに見ることができない。
 息が揺れる。呼吸をすることが億劫だと思いながら、言葉を吐くために酸素を吸った。
「…大丈夫だ」
 何が大丈夫なのかわからない。それでも枯れそうな声を絞り出して呟いた。
​─────だって、俺はお兄ちゃんだから。
 泣き叫びたい衝動もすがりたい心も奥歯で噛み潰して胃の腑へ流して、弟妹の湿った手を握りしめる。
「大丈夫、だから…」
 言い聞かせるようにもう一度、大丈夫だと繰り返した。

 その日を境に、有一郎はいつも眉を吊り上げて唇を固く結ぶようになった。元々強かった警戒心は更に強くなり、敵意のあるなしなど関係なく近付いてくる者すべてを冷たくあしらって追い返す。張り詰めた様子で弟や妹が何かをする度にきつい言葉を浴びせて怒鳴りつけては唇を噛むことが増えていった。

 うまくできない。
 『情けは人の為ならず。人のためにすることは巡り巡って自分のためになるんだよ』
 父の言葉が窘めるように何度も耳の奥で響く。
 無理だ、そんなの。だって、父はそうして死んだのだから。人のため、母のために死んだ。そんなふうにひとのために優しくなんてできない。
 いいように利用されてしまえば守れなくなる。損をすれば明日の食べ物すらないかもしれない。子どもの自分には、妹と弟が悪い人間に食い物にされないようにすることだけで精一杯だ。
 両親のようにはなってはいけない。
「人のために何かしようとして死んだ人間の言うことなんてあてにならない」
「嵐の中を外に出なけりゃ死んだのは母さん一人で済んだのに」
 弟がひどいと言って、妹は黙って泣いたけれど事実しか言っていないと突っぱねた。そうでもしないと耐えられそうになかった。
 ごめんな、ともう何度胸の中で呟いただろう。嫌われてもいい。悪者でもいいから、守りたい。守らなければならない。
 有一郎は段々と笑うこともなくなった。なにかに駆り立てられるように余裕をなくしていく兄の姿に、無一郎とよすがは戸惑って泣くばかりで、笑顔も言葉もぎこちなくなっていく。些細な言い争いやすれ違いを繰り返しては降り積もっていった。

 そんな日々が続いたある日のこと。
「…ん……」
 ざくざくと、何かを刻むような音が聞こえていた。ずいぶんと手際が悪いのか、何度も音が途切れてはまた繰り返すから、じれったいような気分になる。
 やがてごとん、とひときわ大きな音がして、とうとう微睡んでいた意識がふつりと浮上する。
「……う、るさい…」
 気怠い瞼をゆっくりと持ち上げると、ちいさな背中が見えた。頼りなさげなその後ろ姿が腕に力を込めて動かす度に揺れる。
「あっ…おにいちゃん!まだねてて。きょうはわたしがごはんつくるから!」
 有一郎の掠れた唸り声に反応してぱっと振り向いたのはよすがだった。長い髪を雑に結って、少し自信ありげに微笑む妹ごしに見えるまな板には、歪に切られた野菜がごろりと転がっている。音の正体はこれだったらしいが、それにしても下手くそな刻み方だった。
「あのね、まえにおしえてくれた」
 寝ぼけた頭でしばらくぼうっと見ていた有一郎だったが、妹の手に握られた鈍い光を放つ包丁を目にした途端にその唇から反射的に怒号が飛んだ。
「…っ!?この、っ…馬鹿!!」
 重たい体をすぐさま起こして駆け寄る。握った包丁を取り上げて、突然のことに狼狽える妹を更に叱りつけた。
「余計なことをするな!飯?!なに考えてるんだよっ!すぐに熱だして寝込んで役に立たないお前に何ができるんだ!!」
 わかっている。気遣ってくれたことなんて。
 ありがとう、でもまだお前ひとりじゃ危ないから一緒にやろうって、そう言えたら良い。そう言いたい。それなのに、どうしてか開いた口からは妹を責め立てる言葉しか出てこない。
「鈍くさい、要領も悪い。そんなお前に飯なんか作れるわけないだろ!怪我するに決まってるんだから引っ込んでろよ!!」
 嘘だ。そんなことが言いたいんじゃない。心配だった。今朝だって熱を出していたから。怪我もしてほしくない。
 いつも体調を崩しては大丈夫なんて笑うから不安でたまらないことをわかってほしかった。無理して、倒れて、その度に有一郎は心臓が凍りつくような思いをする。妹は大袈裟だと言うけれど、大袈裟なものか。そうやって母は死んだのに。
 もう二度と目覚めないかもしれないと思いながら看病をするのは耐えがたい苦しみだった。不安に押し潰されそうになりながら、それでも目に涙をためて妹をみる弟にそれが伝わらないように何でもないという顔をするのだって。
 大切だから守りたいと思う。それなのにどうしようもない苛立ちが募って守りたいはずの存在を傷つける。
 焦燥感に息が詰まった。じりじりと真綿で首を絞められるような感覚が、もうずっと消えない。
「兄さん、大きな声だしてどうしたの?」
 戸口から声を聞きつけたのか頬に泡をつけた無一郎が顔を出す。洗濯物をしていたのかその手には洗濯板が握られていた。
「お前も余計なことするなって何度言ったらわかるんだよ!!このあいだ着物に穴あけたのもう忘れたのか?!」
「で、でも…兄さん、疲れてそうだから…僕とよすがで何かできないかなって……」
 知っている。自分のために負担を減らそうといつも何かを考えていることなんて。
 少し不器用だが、丁寧に教えたらきちんとできることもわかっている。着物に穴をあけたのだってわざとじゃない。一生懸命やった結果、少しうまくいかなかっただけだ。
 項垂れる無一郎とぽろぽろ涙を流すよすがの姿に、ずきりと胸が痛む。
 無一郎が最近ずっと自信なさげに下を向いていることも、よすがが心配そうに有一郎と無一郎の傍を離れないことも、全部自分のせいだ。
 うまくできない二人に怒っている自分に一番腹が立つ。
「それが余計だって言ってるんだよ!」
 わかっているのに。
「…そんなに怒らなくても……」
「ご、ごめん、なさ…い…。おにいちゃん、ごめんなさ…い……」
 やさしくできない。



「兄さんは、僕たちのことが嫌いになったのかな」
 膝を抱える無一郎を見て、よすがはうまく息ができなかった。くしゃくしゃな顔で寂しいと涙をこらえる姿がなぜか有一郎と重なって心臓が煩い。
「だいじょうぶ、だいじょうぶだよ、おにいちゃん」
 指が震えそうになるのを堪えて少し冷たくなった手を握り、そう繰り返す。無一郎がよくそうしてくれたように。
 本当に嫌いになったのなら、有一郎はきっと二人に見向きもしないはずだ。
 有一郎が声を張り上げるとき、よすがはいつも息をひそめて前髪の隙間から顔色を窺っていた。怪我をすることも無理をすることも、いい気味だとわらうどころかそのすべてを二人から遠ざけるように必死になっているように見えて不思議だった。怒鳴りつけた後に泣きそうな顔で唇を噛むことも知っている。
 そうやって後悔をするのは、きっと本当は優しくしたかったと思っているからではないのだろうか。
 だって兄は、不器用だけどとても優しいひとなのだから。
「ゆうにいはしんぱいなだけなんだよ。むかしからそうだもん」
「うん…」
 寄り添うよすがの肩に、無一郎がそっと寄りかかる。
 薄い着物ごしに感じる体温が心地良くて、まあるく垂れた瞳からぽろりと涙が落ちていく。
「…わたしね、おにいちゃんたちがだいすきだよ」
 男なのに、兄なのに。そう思うけれど、よすがは泣いていることをからかったりしないから、いいかと鼻をすすった。
 ちいさく囁くよすがの声がひどく安心する。無一郎はあたたかい手を握り返して、静かに頷いた。
「僕も、兄さんとよすががだいすきだよ」
「じゃあきっと、ゆうにいもそうだね。むいにいとわたしのことだいすきだよ」
 屈託なく笑った妹を見て、無一郎も思わず笑った。妹の笑顔を見ていると、不思議と兄のやさしく笑った顔を思い出す。
「うん…そうだといいなぁ……」
 瞼を伏せて、息をゆっくりと吐いて吸う。喉奥で感じていた閉塞感がいつの間にかきれいに消えていて、無一郎はまた涙をこぼした。
 濡れた睫毛の隙間からぼやけたよすがを見つめると、繋いでいない方の手が伸びてくる。頭にやさしく触れられて、撫でられて、これではどっちが年上なのかわからない。
 けれど、妹のそういうところに救われている。だからきっと兄もそうだといいと、無一郎は祈るように兄の名前を呟いた。
 


 季節はゆっくり、でも確かに巡って、気付けば春がやってきていた。
 有一郎は相変わらずで、無一郎もよすがもなにも変わらなかったけれど、三人で生きることには慣れてきた頃だった。
「時透様の御宅でしょうか」
 白樺の木の精かと見紛うほどの美しい女がひとり、兄妹を訪ねてきた。

 その女は産屋敷あまねと丁寧に名乗った。美しい所作で腰を折り、自分よりも小さな子ども相手に礼を欠くことなく言葉を紡ぐ。
 女はまず、人を喰い殺す鬼という存在がいることを静かに語った。そして自分は鬼を狩る者が集う鬼殺隊なる集団を取りまとめる産屋敷家当主の妻であると。
「産屋敷耀哉に代わり、お願いに参りました」
 病に侵されとても山を越えることはできない夫の代わりに、あまねはひとりで兄妹のもとへやってきたのだという。当主直々に参ることができない非礼を詫び、女はこう告げる。
 鬼殺隊に所属する剣士は呼吸というものを用いて鬼を狩る。呼吸の種類は様々だが、有一郎達はすべての呼吸の元となるはじまりの呼吸の使い手の子孫だという。
「どうか、鬼を狩る剣士として、力をお貸し頂けませんか」
 あまねはもう一度深々と頭を下げた。身形もよく、おそらく家柄も良いだろうに、それに構うことなく。
 淡々と話すあまねの表情は変わらない。口調も一定で感情の隙すら見えない女だったが、それゆえに嘘をついているとは到底思えなかったし、整った唇から出てくる言葉はどこまでも切実だった。
 何より、苦しむ人々を助けられる力が自分たちにあるのだとわかって無一郎は瞳を輝かせていた。無能、無意味と繰り返された自分でも、人のために何かできるかもしれない。そんな力が本当にこの身に備わっているのであれば使わないという選択肢はないと、あまねに返そうとした声はしかし、鋭い兄の声に遮られる。
「俺たちには関係ない。鬼だの剣士だの意味のわからないことに俺たちを利用するな。さっさと帰れ!」
「兄さん?!」
 あまねは有一郎の怒鳴り声にも眉一つ動かさず、わかりましたと頷く。もう一度だけ頭を下げて踵を返す背中を、無一郎とよすがはどうすることもできずに見ていた。
「なんで追い返したりするの…せめて水でも出してあげたらよかったのに…」
「うるさい。お前はなにもできないんだから話なんて聞くだけ無駄だ。そんな暇あるならもっと働けよ。…よすが、行くぞ」
「…うん」

 掘り返せばしつこいと叱られるからいつもならここで話は終わっていた。けれど、今回ばかりは無一郎も引き下がらなかった。
 夕飯の支度をする有一郎に、無一郎が昼間の話をもう一度繰り返す。興奮冷めやらぬ様子の弟に構わず有一郎は大根をまな板に転がして米を研げと促した。
「ねぇ剣士になろうよ。鬼に苦しめられてる人たちを助けてあげようよ」
 無一郎はそんなことも耳に入っていないのか息を弾ませて頬を染める。こんなに嬉しそうな弟を見るのはいつぶりだろう。
 包丁を握る右手にぎりぎりと力がこもる。
 ────ああ、嫌だ。
「僕たちならきっと」
 良い加減にしてくれ。
 振り上げた腕を、思いきり落とす。ドン!と刃を力のかぎり叩きつけるとひどい音がした。
 唖然とする無一郎をよそに有一郎はまた腕を振り上げる。ドン!ドン!ドン!と、狭い家の中にすさまじい音が響く。響くというより、轟くという表現のほうが正しい気さえした。それ以上は聞きたくないとばかりに耳障りな音が乱暴に鼓膜を叩く。力任せに、苛立ちをぶつけるように大根を輪切りにしていく有一郎の姿に、無一郎からは血の気が引いていく。
「……」
 頬を冷たい汗が伝う。衝撃で転がり落ちた大根のひと切れがころりと無一郎の爪先にあたる。兄から発せられる威圧感に気圧されて拾い上げることもできずにじっと佇んでいた。
 重い沈黙が二人の間に横たわる。
 すう、と。静かな呼吸音を耳が捉えた次の瞬間、びりびりと空気が震えた。
「お前に何ができるって言うんだよ!」
 普段から言葉も行動もきつかったけれど、これほどまでに鬼気迫る形相は見たことがない。
 息を飲んだ。首を絞められているみたいに言葉が出ない。
「米も一人で炊けないような奴が剣士になる?人を助ける?馬鹿も休み休み言えよ!!本当にお前は父さんと母さんそっくりだな!!」
 無一郎が小さく口を開いたまま自分を眺めている。ぽかんと、阿保面をさらして。有一郎はまな板の大根を見ていた。荒い断面をのぞかせて無残な姿になった白いそれが、無一郎とよすがに重なる。
「おにいちゃん……?」
 か細い声がして、視線だけをそちらに向けると布団から身を起こした妹と目が合った。昼から熱が出て有一郎に布団へと押し込められて寝ていたはずだが、流石に起きてしまったらしい。
 熱か恐怖かわからないがその目には涙の膜が張り巡らされている。おそるおそる布団から出ようとしたよすがだったが、有一郎がそれを許すはずもない。
「いいからお前は寝てろ!!口を挟むな!」
 舌打ちとともにそう怒鳴られてよすがの肩がびくりと揺れた。
 もう嫌だと、有一郎は息を詰める。肋骨の奥の心臓が痛いくらいに早鐘を打っていた。咽頭が痛い。目頭が熱を持つ。煩わしい。泣きたいわけじゃないのに。
「楽観的すぎるんだよ!どういう頭してるんだ?!具合が悪いのを言わないで働いて体を壊した母さんも、嵐の中薬草なんか採りに行った父さんも!あんなに止めたのに…!!母さんにも休んでって何度も言ったのに!!」
 大好きだと笑っていた。愛していると抱きしめられた。
 それならなぜ、言うことを聞いてくれなかったのだ。あのとき外に出なければ、もっと休んでくれていれば。人のため、誰かのためでなく自分を大切にしてほしかった。そうしたらこの先も家族一緒に過ごせたはずなのに。
「人を助けるなんてことはな、選ばれた人間にしかできないんだ。先祖が剣士だったからって子供の俺たちに何ができる?」
 父も母も、普通の人だ。何の力もない凡人だ。でもそれでいい。選ばれた人間でなくていい。誰のことも助けられない非才でも、一緒にいてくれたらそれだけで良かった。
 無一郎もよすがも、誰の役にも立たなくていい。そんなことしなくたっていい。
「教えてやろうか?できること。俺たちにできること!」
 鋭い眼光で有一郎は片割れを睨みつける。
「犬死にと無駄死にだよ!父さんと母さんの子供だからな!結局はあの女に利用されるだけだ!!何か企んでるに決まってる!」
 射貫くような視線に、無一郎はたまらず下を向いた。涙をこらえて着物の裾を掴むのを見つめてぐっと唇を噛む。昔はその指の先は有一郎の着物の裾だったはずなのに。
「この話はこれで終わりだ。いいな!!さっさと晩飯の支度をしろ!!」
 息が乱れる。大声を出したせいで喉がひりついていた。無一郎は、うんともすんとも言わなかった。
 黙って釜に米をいれる姿を見て有一郎は転がった大根を拾い上げる。後ろからは必死に押し殺そうとする微かな嗚咽が聞こえていた。

​─────ごめんな。

 生きていてくれたらそれでいい。その一言がどうして言えない。

 〇

 春がいつ終わったのかもわからない間に夏になった。
 あれからずっと、一つ屋根の下で暮らしているのに会話もなにもうまれない。夏がくる少し前、家に通い続けるあまねに有一郎が水を浴びせかけようとしたときに一度二人が喧嘩をしたけれど、それきりだった。
 よすがはおろおろと二人の兄に必死に声をかけて傍に居続けた。どうすればいいのかわからない。こんなことは初めてだった。なんだかんだ有一郎は優しくて、無一郎もそれをわかっていて、ぎこちなくても今よりずっと色んなことを話していたから。
『よすがの名前にはね、母さんと父さんの願いを込めたんだ。どうか、それを忘れないでね』
『お兄ちゃんたちのこと、よろしくね』
 いつかの両親の笑顔と声がする。諦めるな、大丈夫だと背中を押されているような気がした。泣きそうになる度に思い出して嗚咽も涙も飲み込んで、かわりに兄の名前を呼んだ。どうすればいいのかわからなくても自分だけは兄の傍を離れてはいけないと思ったから、遠ざかろうとする背を追って離さないようにと手を握った。

 秋になる前には、きっと。夜ごと不安で弱音を吐いてしまいそうになると瞼の裏で未来を描いた。
 また紅葉に染まる山を兄と駆け回りたい。銀杏の舞う美しい風景を兄と見たい。冬は少し寒いけれど、三人で身を寄せ合っていれば大丈夫だから。そうして春になるころには、今より少しだけ色んなことができるようになって有一郎の負担も減らせるはずだ。今年は無理かもしれないけれど、次の夏は笑顔で兄たちの誕生日を祝いたい。

「…わたし、おにいちゃんたちがだいすきだよ」
 夜の隙間で、よすがは祈るように手を重ねた。
 離れてしまった有一郎と無一郎のこころを、もう一度繋ぐことができますように、と。


 結局、叶うことはなかったのだけれど。

───────


「ねぇ、髪結ってくれない。鍛錬の邪魔になる」

 静かな日だった。澄み透る浅葱空のもと、光風がやさしく日に焼けることのない生白い頬を撫でていく。まるで嵐の前みたいで、少しだけ心がざわついたのをよく覚えている。
あれは刀鍛冶の里へと赴く前日のことだ。
平坦な声が珍しくそんなことを言うものだから、唖然として反応が遅れてしまう。
私の反応がよくないことに首を傾げたその肩に、さらりと烏の濡れ羽色の髪が垂れた。
そういえば最後に毛先を揃えたのはいつだっけ。確かに邪魔だろうなと伸びきった髪の束を見ながら「はい」と、調子遅れの返事をする。帰ってきたら少し整えた方がいいかもしれない。

「ええと、誰だっけ、」

(よすが、ほら、毛先が水につかるよ。髪結ってあげるからおいで。)
(馬鹿、お前もだよ。二人とも俺がやってやるから櫛もってこい。)
(じゃ、じゃあ…!お兄ちゃんの髪は私が結ってもいい…?)

 思い出すのは夏の夜のことばかりだった。もしくは、それに不随する記憶。寝ても覚めても頭の中はずっと、とうに取り返しのつかない過去にとらわれている。
それだけじゃないだろうと訴えかけてくるようにずきりと左脚が痛むから奥歯を噛んだ。そうだ、それだけじゃない。
「知ってるはずなんだけど」
 瓶覗。
 目の前の少年のうつくしい瞳の色は、言葉にはめ込むならおそらくそんな色だ。教えてくれたのはだれだっけ。焦点のわからないその淡い瞳の中には同じ瓶覗が映っている。ひどく不安そうな表情を浮かべて。
 重なる面影はあの頃よりずっと大人に近くなっていた。体だって同じように子どもだったはずなのに、相対する彼は私よりずっと大きい。
 だからあのとき名前を呼んだ高い声は、夏の日に置いてきたはずの幻聴だ。
 差し出された髪紐を受け取りながら、うーんと覚えてもいない名前を思い出そうとする仕草をした霞柱を座布団に座らせた。
「まあいいや…どうせすぐ忘れるし。ほら、もたもたしないでよ」
 やはり思い出せなかったようですぐに思考を放棄する。いつものことだった。私はまだ耳の奥で響く懐かしい声を聞きながら、絡まった髪にそっと櫛を通した。鬱陶しいだとか、邪魔だとか言う割には切りたがらない、お揃いの髪。

(まあ、お揃いにして。そうしているとあなたたち三つ子みたいね)

「なんでだろう。君に髪を結われると不思議な感じがする。…君ならなんでかわかる?」

 懐かしいと言いたかったのだろうか。でも記憶がないからそれもわからないのだろう。
覚えていることはきっとつらいことだ。だから覚えていられないこともきっとつらいことだった。
 こうしてあなたの髪を結っていたのは私じゃない。けれどそれを伝えて何になるのだろう。つらいことを増やすだけなら、私の中に置いて行っていいのに。そうやって、無意識に背負おうとしなくていい。
 お兄ちゃんだから、つらいことはなんだって背負ってあげると遠いあの日の兄が、記憶の中であやすように何度だって指をきる。
「…いいえ」
 だったら私もあなたのつらいことはなんだって背負いたい。だって私たちは兄妹なのだから。
 震える体を寄せ合って同じ体温を分け合った夜明けも、溢れて止まらない涙を拭ってくれた指先も、柔らかい声がひそやかに紡いだ子守歌も、手を引いてくれたあの日の帰り道のことも、どうしたって癒えない傷のついた過去も。
 全部、この心臓だけが知っていればいい。
「お戻りになられたら、すこし毛先を整えましょうか」
 動揺しているのだろうか。馬鹿みたいなことを言っている。口に出してから気づいて後悔するけれど、転がった言葉は戻ってこない。頭が弱いと無視されたって仕方のないようなこと。任務ではないから無事に戻ってこれるかのような口ぶりで。
 当たり前のように明日だとか、次だとか、そんなことを口にしてしまうことはきっと良くないことだ。
 そもそも兄は覚えていられないし、鬼殺隊に身を置いているなら尚更のこと。
 祈りのかわりだったのかもしれない。
 生きていてほしいなんて気軽に言えないから、代替品だ。信じもしない何かにすら縋りたくなるほど、誰だって大切な人の未来を願っている。明日も、明後日も、どうかその先もずっと、生きていてほしいって。
「うん、そうだね」
はっと、息が漏れる。
 兄に触れた指が震えそうでそっと引き抜いた。いつもははやくと急かすのにその時だけは止まった手が再び動き出すまで待っていてくれた。
 最近すこし、兄は昔のように優しくなってきた。私の名前こそ呼ばないものの、一緒に暮らしていることは覚えているようだった。だからきっと、すべてお見通しだったのだ。私が不安を露わにした瞬間から、おそらく。
 視線を落とした先のつむじを見つめて唾を飲む。ずいぶんと小さい、網膜に焼き付いたままのもうひとりの兄の姿が頭を過った。
「僕は忘れるから、帰ったらまた言って。君が覚えててね」
 当たり前のような、帰ったら、という一言に胸を突かれて、零してしまいそうな嗚咽を飲み込んだ喉が痛い。目の縁がほんのすこし熱くて参ったなと眉を下げた。
 私はただ、深呼吸をしてもう一度櫛を髪に挿しこんで、泣かないようにと微笑んだ。
「…はい」
 兄はどんな表情をしていたのだろう。わからなかったけれど、鼓膜を擽った声はいつになく穏やかだった。

───────
 
 あの夏の夜。
 あまねが熱心に語った鬼という存在が兄妹の何もかもを奪っていったあの悪夢のような夜を、よすがは一日たりとも忘れたことはなかった。
 大好きな兄の腕が飛ぶ様を。自身の脚が裂かれる痛みを。胸を突くような、慟哭を。
 そして地獄のような日々のことを。

「かえらなきゃ…」
 あまねとその子どもに助けられ、死の淵から目を覚ましたとき、よすがはそう呟いた。
 そうしたら、きっと、いつもと変わらない兄がそこにいる。どこに行ってたんだって目を吊り上げながら、少しお説教をして。最後はおかえりって、笑ってくれる。
 だから帰らないと。
「…っ、?」
 体に障るという言葉にも耳を傾けずに叫んで血を吐いた。濁った呼吸音が聞こえた。息をするだけで、心臓を動かすだけで、もう嫌だと泣きたくなるほど痛かった。
「な、ん…で…」
 だけどそれすらもどうでも良かった。激痛に耐えて布団から這い出ようとするのに、動かないのだ。
「あし…なん…で……」
 脚がぴくりとも動かせない。よすがにとってはどんな痛みよりも耐えがたい苦しみだった。

 慟哭をあげて、ぷつりと糸の切れた人形のようになってしまったよすがを、あまねは甲斐甲斐しく世話をした。返事も反応もなくても無一郎の様子などを語って聞かせた。
 それが、ただひとつよすがの心の拠り所になっていた。
 兄達が長い長い喧嘩をするようになったきっかけが彼女だったから、皮肉かとすら思ったけれど。
 それでも、看病してくれる手つきはもうどこにもいない母のようで。赤の他人の娘を、まるで自分の子と同じように丁寧に看てくれた。何より彼女は血塗れで蛆がわくような汚い身体に触れて、あの険しい山を降りて、兄を、助けてくれた。

 どうしようもない痛みに苛まれて、ぽっかり空いてしまった胸の喪失感がつらかった。有一郎がもうどこにもいないのだと感じる度に頭が真っ白になる。ここから動けない。気付けば涙があふれているような状態で、それでも良かったと思えたのは無一郎が生きていてくれたことだけだったのだけれど。
「…誰?」
 そう言ったのはよく見知った、でも見たことのない兄で。
「、お、にいちゃ、ん…?」
「君なんか知らないよ」
 視線が交わって、絞り出した声にかえってきたのはそれだけだった。時間の無駄だからとそれ以上の言葉はなく、呼吸すらも忘れて硬直したよすがを一瞥して去っていく。
 遠ざかっていく背中が、あまりにも遠かった。
 よすがの小さな体はどこもかしこもぼろぼろで、回復には無一郎より時間がかかった。漸く面会が許される容態になって、よすがは当然のように会いたいと願ったのだけれど。
 兄は、記憶すらも曖昧になっていた。
 言葉を失ったよすがに寄り添って、あの白樺の精が兄の状態を説明してくれた気がするけれど、耳に入るわけもなかった。
「…っ、ぁ、ああ…っ!」
 本当は三つ子なんじゃないかと、母や父に笑われた。自分をいつだって守ってくれる優しい兄。大好きな兄達とのお揃いが、よすがにとってはなにより誇らしいものだった。
 瓶覗の透けた瞳も、子猫のような鼻先も、小さな唇も、長い髪も。
 よく似たその両の目にうつった自分を、どうしてそんなに冷たい目で見るの。

 よすが。お兄ちゃんたちの寄す処であってね。この名前が、いつまでもお前たちを繋ぐ縁でありますように。
 そんな母の祈りも届かない地獄だった。

───────

「……よす、が………に、いさん……」

やさしい声が、泣きそうな音を立てるのが聞こえた。ひくり、と引き攣った喉からあふれた悲しそうなそれを耳が捉えて、温度もわからなくなり始めた体が確かに熱を感じた。
 おにいちゃん。
 そう呼んだはずなのに、喉からはひゅうひゅうへんな音がひっきりなしに漏れるだけで呼べなかった。重たい目蓋を持ち上げるとその人は堪えきれなかったのか、まんまるい瞳をくしゃくしゃにしてもう涙をこぼしていた。
 まただ。
 夢を夢と知りつつも目を覚ますことが出来ないのは何故だろう。兄が発ってからというもの、あの夜をこうやって断片的に繰り返していた。昨日も一昨日も、ずっと。
「…、ぃ、」
 名前はやっぱり呼べなかった。それもそうだ。だってこれは夢。あの日呼べなかったものは呼べないまま。喪ったものは、ずっと喪ったままだ。
 掠れた声のような音を聞いて、兄は窶れきった顔を緩めるとまたほろほろ涙をこぼしていた。
(ないて、る)
 兄の涙なんて、もうずいぶんと見ていない。笑った顔だって。
 昔の兄はよく泣くひとだった。それでも私が生まれた後はあれでもずいぶん泣き虫もましになったと、ゆう兄は私が泣きべそをかくたびによく顔を顰めてぼやいていた、ような気がする。
「よすが…兄さん……聞こえる…?ねぇ、返事して……」
 霞んだ視界には傷だらけの兄が戸口から這う姿が映り込んで、心臓の拍動が強くなる。端にははね飛ばされたもうひとりの兄の腕が転がっていた。耳元では今にも消えそうな吐息が微かに聞こえる。
 よすが、大丈夫だから。
 そうやって私を守るように中途半端に覆いかぶさった体の重さは、到底夢とは思えなかった。冷たくなっていくはずの身体にともる体温も、確かに生きていて。
 暑くて水分の飛んでいた目玉から見る間に涙がぼとりと落ちていく。
お兄ちゃんが死んじゃう。
「ぃ、…や……」
 死なせてはいけない。死んでほしくない。大好きなおにいちゃん。しわしわになるまで生きていてほしいひと。
 噎せる息を吐き出せなくて、まともな呼吸すらできない。痛みと苦しみに意識はずたずたに蝕まれて、それでもと奥歯を噛んだ。
(かみさま、おねがい…おねがいします……。もうなんにもいらない。私の命だっていらないから、だから…お兄ちゃんだけは、どうか……)
 血反吐を吐いて手足に力を込めても爪さえ立てられない。無理矢理に身じろぐと兄がやめろと声を振り絞る。
 感情に呑み込まれそうになる。これは遠い夢だと俯瞰する自分が押しやられそうだ。あの夜はもう過去になってしまった。取り返しなんてつかない。ゆう兄は死んでむい兄は記憶を失った。
 それなのに胸を焦がす焦燥感でどうにかなってしまいそうだった。
 目を覆って耳を塞いでしまいたい。叫んで逃げ出したい衝動に駆られるのに体は動かないどころか自由に言葉だって吐き出せない。
 それも道理だった。この体は後先考えずに鬼に向かって死にかけた体だ。肉を引きちぎられ骨を砕かれ、死に絶えるはずだったのだから。
「…、っ…に、…い、さん……」
 目を逸らすなと囁く声がする。お前が殺したんだ。呪いのような声は、どこかでよく聞いた声だった。
(私が、お兄ちゃんを)

「…お前は無一郎そっくりだな」
 震える手を懸命に伸ばすむい兄と、いつかのゆう兄の姿が重なって喉が締め上げられる感覚がした。吐き出すことも飲み込むこともできない嗚咽は喉を痛めるばかりなのに止められない。
 蹲ってしゃくりあげる私と目線を合わせながらぶっきらぼうに頭を撫でる手が、もうずいぶん昔のことのように感じる。
「ぐす…っ、む、むい兄はね…、ゆう兄に、似てるって言うよ…」
「はあ?冗談だろ」
「…わ、たしっ、ぅ、…っ、お兄ちゃん達の、妹だから。…だ、だから、……」
「だから…?」
「冗談じゃな、い…ひ、っぐ…ほ、本当なの…」
「なんだそれ」
 寂しいなら寂しいと言えばいいのに湿った声は絶対にそんなことは言わなかった。可笑しそうに片眉を顰めてぶっきらぼうに髪を梳くのは何かを誤魔化したいから。
 ゆう兄の寂しさが私は不思議だった。だって私はお兄ちゃんたちの妹なんだから。大好きなお兄ちゃんからたくさんのものをもらって私になった。似ているも似ていないもない。どうしてそれをわかってくれないのだろうなんて言ったら、あの時のゆう兄は笑ってくれたのかな。
 だから、寂しそうな顔をしないでってちゃんと言葉にすればよかった。
「無一郎もよすがも、これぐらいひとりで出来るようになれよ」
 優しいひとだから何だかんだ文句を言いながらも世話を焼きたがった。お兄ちゃんと呼ぶとわざと煩わしそうにするくせに、いつだって声や態度で何かしらの返事をしてくれた。刺々しい言葉や荒々しい行動は愛情の裏返しということを知ったのはいつだっただろう。ゆう兄は不器用だからいつもそうだった。
 むい兄は、ずっとそんなゆう兄から嫌われていると思っていたけれど。
「、ぅ……っ、…」
「…もう、だいじょうぶ……だから…。ほら…て、を…にぎってあげ、る……」
 きらっていたんじゃない。心配だった。守りたかった。
 底抜けに優しくて、お人好しな弟を。いつだって私とゆう兄のことばかりで呆れるような大切な片割れを。
 こんな時だって誰かに手を伸ばせるようなひとだから、せめて自分が守らないとって。
 幼い手のひらがあえぐ。もう限り限りでどこもぼろぼろの指先。
 甘えん坊な私はいつも兄達の手を強請った。二人の厚くてささくれていて、誰より頑張っている働き者の手が大好きだった。
 でもお兄ちゃん、もういいよ。
 声はやっぱり出てこない。かわりに血だけがどろりと垂れて床を汚した。こんなに近いのに嗅ぎなれた兄のにおいがしないことがひどく虚しくてまた何かが垂れる。
「、……げほっ…、!」
 大丈夫だよ。痛くないよ。
そう伝えて安心させたいのに、私は最後まで駄目な妹だから何も言えないままだった。ありがとうもごめんなさいも、寂しいも大好きも、もっと伝えたかった。
 ゆう兄の残った手が必死に私の着物を掴んでいるのを、解いてあげられない。意識もほぼないだろうに、守るかのようにずっとずっと握りしめられた手を離してあげられない。
「神…様…」
 ほら、やっぱりお兄ちゃん達はよく似てるよ。誰よりやさしい、私のお兄ちゃん。最期の一瞬まで誰かを想える、とうといひと。
ああ、どうか。
どうか。
このやさしいひとを、しなせないで。



「いかないで…っ」
 声が出た。そう思ったら眩いくらいの光が射し込んだ。開けた視界には兄はもういなくて、私の荒い呼吸音だけが響いた。
 ようやく目が覚めたのだと天井を数十秒眺めてから知って襖障子をぼんやり見遣る。
 白い朝の光が透けていた。清々しいまでの爽やかな夜明け。現実味がまるでないのに潰れた脚も、誰もいない両隣もすべて昨日と変わらない。
 目蓋を開けたままでいると朝陽が目を焼いたからぎゅっと瞑って手で覆って、涙がこぼれるのも知らん振りで鼻を啜った。

​───────大好きだよ、よすが

「…、ぁ」
 あの日の兄の声が聞こえた気がして目を見開いた。眩しくてたまらない。それでももう閉じることはできないと知っている。
「あ、…っ、ぁあ…ぅ、っ…!」
 どくどく鳴る心臓。血液の巡る感覚。吐く息の熱。すべてがどうしようもなく生きている。
「ご、ぇ、…なさ…っ…ふ、…ごめん、ごめんなさ、い……」
 ごめんね、お兄ちゃん。私はやっぱり駄目な妹のままだった。
 拭っても拭っても涙が止まらない。上手く息を吸えないから咳き込むと更に涙が滲んであふれていく。
「無一郎を、ひとりにしてはいけないよ」
 優しい、穏やかな声がふと過ぎる。死にたがる心を見透かしたような言葉。まるで心臓に触れられたようだった。
「よすが、きっと苦しいのだろうね。だけど、よすがに無一郎が必要なように、無一郎にもよすがが必要なんだよ」
 お館様の凪いだような表情を思い出して、大きく息を吸い込む。生きることは苦しい。思い出すことはずっとつらい。でも、兄が帰ってくる場所を失くす方がずっとずっと嫌だなあと、くしゃくしゃに涙を垂らして笑った。

───────

 日々を過ごしていた。
 兄の帰りを待ちながら、蝶屋敷でお手伝いをする。兄の帰る場所を守ることが私の生きる目的だから。それはここ数年ずっと繰り返してきたことだ。
 けれど、今日だけは何かが違っていた。気のせいだと言われたらそれまでの、ただ何となく感じるだけの不安。神経に爪を立てられているかのような不快感。
 そしてそんな不確かな違和感は、確かな形となって私の前に姿を表した。
「よすが、落ち着いて聞いてください」
 しのぶ様が、私の肩にそっと手を置いた。見つめた瞳は翳っていて嫌な予感が背を巡った。或いは予感めいた不安はきっとこれだったのだ、とひどく冷静な自分が告げる。
「刀鍛冶の里が、鬼の襲撃に合いました」

───────

 終わりの話をしなくては。
 朧げな意識の中で、そんなことを考えていた。
 
「いもうと、を…よ、んで」
 帰ってきた、なんて心地はまるでなかった。里からいつ運び出されたのかも覚えていない。だけど今、必死の形相で僕の傷を診ようとしているのがあの子を可愛がっていた看護婦ということだけははっきりとわかる。
 妹を、と声を絞り出す。妹なんて言うのはとても久しぶりで、初めて声に出したように拙くて涙が出た。
 熱い。今にも意識が落ちそうな熱が出ている。毒で痺れた身体は凡そ感覚と呼べるものがないほどに痺れていた。眠ってしまいたい。意識を保つことすら酷く苦痛だった。繋ぎとめているのは、あの子だ。
「い、今そんなこと言ってる場合じゃ」
「はや、く」
 看護婦、もといアオイの言うことは正しい。今そんなことを言っている場合じゃないことはわかっている。
 それでも、兄としては正しくない。
 確かに肉体的な苦痛に尋常ではない汗が出るし視界なんてもうぼやけて使い物にならなかったけれど、それが何だ。
 僕の妹は、今もずっと苦しいままなのに。



 父さんと母さんが亡くなったのは僕が十のとき。
 兄さんを亡くしたのは十一のときだった。ずいぶん暑い夏の日だったと思う。そしてずっと忘れていたあの夜に、僕は妹も失くしていた。
 
「​──────お兄ちゃん」
 深い夜闇を劈く、幼い少女の悲鳴のような叫び声を、鮮明に思い出せる。
 震えて凝り固まった声帯がようやく弾き出したその声と共に、小さな体は腕を失った兄の前に飛び出していった。僕はただ蹲る兄に駆け寄ってその身を抱きかかえて、目を見開きながらその光景をあんぐりと見つめていた。
「馬鹿っ!にげ、ろ…っ、」
 抱きしめた体からどくどく心臓が鳴っていた。
 妹を、あの子を、助けなくちゃいけないのに。
 僕たちを守るように鬼と隔てた背中がずいぶん遠かった。痛みに喘ぐ兄さんが腕の中で自分の体より妹を心配しているというのに、僕は兄さんを抱えたまま動けずにいた。
「お兄ちゃんたちはみのがして…おねがい、お兄ちゃんたちだけは……」
 懇願を食いつぶすような下卑た笑い声。甲高い悲鳴。柔い、脆い、華奢な左脚に醜い爪がギリギリと食い込む。
 ばちん、と耳を塞ぎたくなるような破裂音とともにびくびく痙攣していた足から一気に力が抜けていった。
 妹の、ちいさな足。
 いつも僕たちの後ろをついてまわっていたかわいいその足が、どす黒い血に染まっていく。目の前が眩んでいくような感覚だった。骨が剥き出しになるほどに肉を引き裂かれたあの姿。
「にげてぇ!!ゆうに、い、つれてっ、はやく!むいにっ…おねがい、おねがい」
 わたしは大丈夫だから。行って、おねがい。
 痛みに歪んだ顔がひしゃげた笑顔を見せる。怖くて痛くて、今すぐにでも泣いて僕に、兄さんに縋りたい気持ちを必死に押し殺して笑っていたことなんてわかっていた。
「置いていって」
 置いていかないでと手を伸ばしていたかわいい姿を、覚えていたはずだった。ちいさな紅葉みたいなその手を繋いでやれば安心したように笑っていたのに。
 お兄ちゃんだいすき、と舌っ足らずにはにかんだ妹の声を思い出せなくなった。大好きだと返せなくなった。

「霞柱さま、っ!」

 寝ているのか起きているのかも曖昧だった。取り戻したばかりの記憶をなぞっていた僕の意識を引き戻したのは聞きなれたあの子の声だった。
 ああ。
 喉から息が漏れた。
 失くしていた君のことを、やっと見つけた。
 息も絶え絶えに車椅子を押してきた妹は何かを言いかけてすぐにそう言い直した。口の形もよく見えなかったけれど、何を言おうとしたのかわかって胸を突かれる。気が付いたら堪えたはずの涙がこぼれていた。
 名前も呼べないようにした俺を、まだ兄と慕ってくれるの。
「ごめん…ご、め……ね 」
 うわ言のようにひびわれた唇からは後悔の言葉ばかりがあふれる。
 脳裏に浮かぶのはいつも少しだけ俯いた妹の顔だった。鬼に脚を裂かれてなお、あの子は僕の隣にいようと死ぬ思いで僕を守ろうとした。それなのに、僕は酷いことをした。たくさん心無い言葉を言った。
 許してほしいとは思わない。
 だけど、それでも君の名前を呼びたい。もう二度と振り払ったりしない。今度こそその手を握るから。一緒に生きよう、ねぇ、
「よすが」
 縁。僕と兄さんを繋ぐ確かな寄す処。
 やっと、君の名前を呼べた。
 よすがの、まあるい双眸が一際丸みを帯びていく。そんなに見開いたらこぼれちゃうよ、なんて呟いたら、よすがの喉からかふりと空気がもれた。
「っ…お、に…ぃ、ちゃん……!おにいちゃんっ…!!」
 そう呼ばれるのも久しぶりだった。
 妹はずっと、あの夏の夜に取り残されたままだった。大丈夫なわけがなかったのだ、きっと最初から。
 寂しかっただろう。辛かっただろう。お兄ちゃんなのに、よすがの心に寄り添ってやれなかった。つらいことは背負ってやると、そう約束したのに結局は守れない口約束でおまえを傷付けた。
「ごめん、…ごめんね」
「い、いい…よぅっ…、おにいちゃんが、生きてて、くれたらっ、い…い、から…」
 よすがの双眸が熱をもって瞬いた。僕と兄さんと、揃いの瞳が揺らいでぼやける。空の色だとよすがは言っていたけれど、僕は海のようだといつも思っていた。だってよすがはいつも泣いていたんだもの。
 長い睫毛に縁どられた瞳から、涙腺が壊れたみたいに大粒の涙がぽろぽろひっきりなしに流れていく。
 泣かせてごめん。よすがの笑顔が見たいけど、どうにも兄さんみたいに笑わせてやれない。それなのに、どうしてこんなに安心しているのだろう。
「お、おにい、ちゃん」
「…泣き虫は変わらないね」
 縋るように伸ばされた手が、触れ合う直前で躊躇うように胸元に引き戻される。
 ああ、そうか。
 浅く息を吸う。なけなしの力を振り絞って引っ込んだ手を掴んで指先をからめて握りこんだ。離してやるもんかって。二度とこの手は離さない。
 そうだ、僕はよすがが全然、なにも大丈夫じゃなかったことに安堵していたのだ。
 ひとりぼっちなんてなんでもないって顔をしていた。僕に暴言吐かれたって冷たくあしらわれたって、いつも澄ました顔して目を伏せていた。
 だけど本当はずっと、こうやって泣きたかったんでしょう。
 泣かせてやれなくて、妹ひとり守ってやれなくてごめんね。
「…まも、りたかったんだ」
 そんな言葉は僕がした仕打ちの言い訳にもならない。ただ、記憶がない間も、よすがのことは守るべきものだと無意識のうちに思っていた。妹ができるのよと、母さんと父さんが告げたあの日から、僕も兄さんも決めていたから。
 僕らの妹だから、僕らが守ってあげるんだって。
 よすががずっと笑っていられるようにって。
「知ってるよ。ずっと、お兄ちゃんはそうだったでしょう」
 なんでもないふうに笑わなくていいんだよ。ねぇ、そうやって飲み込まなくていいから。
「ゆるさなくていいんだよ」
 よすがは何も言わずに、手を握り返した。
 父さんと母さんが死んで、僕たち兄妹はずっと苦しかった。でも、よすがが手を握っていてくれたから、僕たちは本当のひとりにはならなくて済んだんだ。でもあの頃の僕は甘ったれだったから兄さんには疎まれて、妹には情けない兄だと思われていると思い込んでいた。 でも違った。
 愛されていたんだ、僕は。愛してるんだよ、よすが。
 「よすが」
 もう一度声に出して、噛み締めるように呟いた。
 僕たちの、たったひとりの妹。
 ぜんぶなくなったと思っていた。残っていたのは胸を焼くような怒りだとばかり思っていたんだ。でも違った。
 おまえはずっと、ここにいたんだね。
 吹けば掻き消えそうな、吐息みたいな命を惜しげもなく燃やして。そうして、俺の帰る場所を、たったひとりで守ってくれていたんでしょう。
「ただいま、…よすが」
 ひゅうひゅうと、鉄臭い呼吸を繰り返して名前を呼んだ。僕の、たったひとつの縁。いとおしい寄す処。
「おかえりなさい、お兄ちゃん…!」
 やっと、帰ることが出来た。

本にしようとした時透妹の原案


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