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謡われぬ騎士の唄

 向かい風と吹き降りの雨に頬を叩かれ続け、ようやく山小屋に転がりこんだ時には辺りはすでに暗く、木々の間に真っ黒い空がぽっかり口をあけていた。次の安全な村を探して歩くには、危険すぎる風が吹いていた。それにナンナは気丈に振舞ってはいたが、その唇は紫色で、一刻も早く火を炊く必要があった。リーフはフィンが小屋を調べるあいだ、馬と自分との間にナンナを隠し、風雨から彼女の震える身体を守っていた。ナンナは何かを言ったが、絶え間ない雨音にかき消された。
 小屋はどうやらうち棄てられているようだった。屋根は荒れて壁は破れていたが、住人が消えてからそれほど長い時間は経っていないようで、この激流を一晩やり過ごすには申し分なかった。
 赤茶けた暖炉に納屋から持ってきた薪を燃やして、やっと弱々しい火がついた。もし全ての薪が湿っていたら、フィンはきっと自分のマントを燃やしただろうとリーフは思った。ぐしょ濡れのウールのマントを脱ぎ、塩漬けの鱈と固い白チーズを口にする頃には、ナンナの顔色も少し戻り、雨雲も哀れな三人から手を引き始めていた。
 夜が明けて、神が良い風を吹かせていたら舟で海路を行くとフィンは言った。そしていつものように、道中で異変が起これば自分を置いてナンナと二人で馬に乗って逃げるよう忠告した。リーフは頷いたが、そんな時がずっと来なければいいと思った。今の三人にとって、恐れなければならないものは山賊だけではなかった。もし木々の間に甲冑が煌めけば、息を潜めて目を凝らし、悪いときには長い距離を迂回する必要があった。
 フィンは夜盗を警戒して、暖炉の灯を覆う手頃な板を納屋へ探しにいった。前の住人が使っていたらしい寝床は、ベッドというよりは木の箱といってよかった。ケープと干し草を敷けば眠れないこともないように見えた。マントは濡れてしまったが、幸いなことにケープは少し湿っているだけで無事だった。リーフは釘がとび出していないかどうか慎重に調べながら干し草を敷きつめた。そうして2人分の寝床ができた。リーフは、窓の下の箱にさっさと陣取った。風が窓を叩いて、木の窓枠はひっきりなしに軋んでいた。ナンナはそれを見て、自分がそちら側を使うと言った。リーフは彼女を無視した。ナンナは食い下がったが、やがてそれが無駄だと悟ると、しぶしぶ暖炉に近い箱に収まった。
「風の子守唄と眠るんだ」リーフは笑って言った。「きみは火の精霊と」
 ナンナは頬を膨らませたが、いたずらそうに笑うリーフを見て、やがておとなしく引き下がった。暖炉で小枝が跳ねる音を近くに聞きながら、ナンナは木箱に座った。湿って腐った木の板を抱えて戻ってきたフィンは、二人の様子を見て少し首を傾けた。
 フィンは寝ずの番をすると言った……。今までに幾度かあったことだが、冷たい雨にぬれて顔の色は失せ、うつむいて髪から雨水が落ちるがままにしているかれを見ると、リーフはひどく胸を痛めた。「ありがとう、フィン」唇を噛む前に口を開くことができてほっとした。この騎士に守られることが、今の自分にできる唯一のことだとリーフは知っていた。
 扉口の前で槍を抱えて座り込むフィンを見届けて、リーフは横になった。干し草を掴んで強く目を閉じた。

 少し眠った。夢は見なかった。
 首を動かすと骨が痛んだ。雨は止み、窓の外はしんとしていた。怜悧に輝く星々がよく見えた。
 暖炉に立て掛けた板のすき間から、ろうそくほどの光がチロチロと影を伸ばしていた。その影を目で追って、リーフは自分を起こしたものが何か知った。
「眠れないのです。お父さま。なにか、怖くて」そっと、弱々しい声が聞こえた。リーフは寝ている風を装って木箱の中でふり向いた。
 暖炉の灯がやっと届くところにうずくまっていたのは、ナンナだった。彼女は父親の袖を引いていた。フィンはとがめなかった。娘の手を包み、自分の膝に座ることを許した。かれの身体も冷えきっていたがそれでも床は寒かろうと、幼い子を守るようにケープで包みこんだ。
 それきりナンナは黙ってしまった。ナンナの黄金色の柔らかな髪が、暖炉からのかすかな光の中にくっきりと浮かび上がっていた。フィンもナンナを抱えたまま身じろぎしなかった。リーフは寝返りをうつふりをして、再び窓の方を向いた。曇った窓硝子は、薄い霜の皮膜に侵食されかけていた。
 リーフは目を閉じて眠ろうとした。瞼の裏に光ったのは暖炉の火と同じ色で燃える建物だった。暗闇の中で蜃気楼のようにゆらめく建物を、一人で見つめていた。やがて音は消え、眼前に這い寄ってきたそれは、リーフを包み込まんとおどろおどろしい悪夢の翼を広げた。かれは叫ぼうとした。が、喉は恐怖と熱とに張り付き、小さく上下しただけだった。赤い翼にのみ込まれ、なぜ自分は一人で立っているのだろうと、焼ける朧げな記憶の中不思議に思った。

「ナンナ」
 リーフは目を覚ました。風は止んでいたから、フィンの声だとわかった。リーフの息は少しも乱れてはいなかった。静かに眠っていたように見えたろう……。
 眠るのが怖かった。冷たい窓の下が悪いのか、黒ぐろした空が恐ろしいのか、今にも落ちてきそうな星々の煌めきが眩しいのか、リーフにはわからなかった。ただ、今は自分もナンナのように温もりに懐かれたかった。
 ナンナはすっかり眠っているように、リーフには思われた。狭い小屋の火は燃え尽きて燠になっていた。リーフは明日のために眠ろうと、ケープをたぐり寄せた。
 冷たく静かな空気が、何かに震えた。リーフは息をとめて、耳を傾けた。低い声が頭をいっぱいにした。それは、歌だった。歌だと思った。歌詞は聞き取れないほどかすかだった。ナンナは眠ったまま何かをつぶやいた。
“聞きなれないメロディだ”とリーフは思った。“あれはきっと彼の妻の歌だ。異国の、故郷の歌だ”
 ナンナの黄金の髪が、長く封ぜられたフィンの思い出をほぐしたのだと気づいた。途切れがちな優しい声を、リーフは貪るように聞いた。この歌を二度と聞くことはないだろうと、かれは悟っていた。
 目を閉じたまま涙を流し、そして眠った。夢は、見なかった。