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城あととラーレの庭園

 城の中庭の短い草原に、その少年はいた。少年の名はアーサーといった。
 十五ほどの若者だった。まだ小さな国の王だった。
 この夜の中庭がアーサーは好きだった。大きな砦のような居城には他に彫像の鎮座する中庭もあったが、ところどころにバラの陰や切りそろえられた植木の陰が隠れ家のように息を潜めているこの小さな中庭は、アーサーがときどき夜半に城内を抜け出して瞑想をするには優れた場所だった。ここでは彼は、たったひとり傍観者として世界を眺めることができるような気がしていた。そしてここではしばしば、目をつぶると、“荒れた森“の国に置いてきたはずの河面の光の戯れや、きらめく蝋燭のゆらぎ、人々の聖歌の響きとそれを眺めて立つ幼い自身が思い出されるのだった。
 けれど今晩アーサーはひとりではなかった。足もとでは白い仔犬がゴム鞠のように行ったり来たりしながら、少年を見上げて一声ふた声吠えると、また中庭のはしからはしへと駆けていった。それはけして苛まれるようなことではなく、彼の指先は跳ねる仔犬と同じように宙を飛んだり、上機嫌に仔犬の首もとにうずもれたりした。
 重い鎧と剣を寝室に置き去りにして、農家の青年のようなやわいシャツと簡素なブーツを履いただけの少年に、星々の光は昼の太陽に負けず劣らずかがやいて、その瞳に水面に流星の映るような軌道を描いた。
「こっちだ」
 と、アーサーは声を上げて外回廊の柱に隠れている仔犬を呼んだ。
 すると仔犬はしばらく迷って、内気な村娘のように柱の陰から顔を出すと、それから一目散に走ってきた。アーサーは少し笑みを浮かべてからだを屈めてやった。いしゆみのように勢いよく突進する仔犬は少年の足をかけ上がり、受け止めようとする腕さえも樹皮を上る栗鼠のように飛びこえてしまった。
「わっ」
 アーサーは思わず笑って、そのまま背中から草むらに倒れこんだ。小さなからだで毛並みをぴかぴかとさせて、全てを任せてぶつかる仔犬がかわいらしくてたまらなかった。それに、少年はその物怖じしない無邪気な賢さに、知らず共に駆けていたような思いがした。少年の遊戯も青年の恋人も、暖炉の前の死も、何も知り得ぬとわかっていながらも、アーサーはたった今、頬に遊ぶ草の感覚だけを初めて知ることができた。
頭上には濃紺の天鵞絨に縫いつけられた銀貨のような星々がざわめいて、それは春の祭りの貴婦人たちの色とりどりの唇がせわしなく動くさまに似ていた。光をよく通す瞳がまぶしそうに、かすかに細んでまばたきをして、アーサーはふいに嘆息したいような気持ちになった。
 けれども、そこでアーサーの視界をさえぎったのは山々に積もる白い雪色だった。ぬっと視界に現れ出たそれに、アーサーは驚いてため息を飲みこんだ。
 目の前で仔犬がさかんに尾を振っている。両足でアーサーの胸を叩いてはしゃぐのをやめないので、アーサーはちょっといたずらな気持ちになって、
「落ち着きを忘れてはいけないよ」
 ともっともらしく言ってみた。それは彼の養父のエクターが彼と義兄に散散と言い聞かせた文句であったが、仔犬はうなだれることも凛と背を張ることもなく、千切れそうに尾を振るのをやめなかった。
 養父の大きく勇ましい猟犬たちも、仔犬の頃はこうだったのだろうかと、アーサーの心はふたたび森の中の屋敷に帰ろうとしていた。アーサーは馬に乗るエクターと弓を担いだケイの後についてその背を眺めて手綱を引いたことを思い出していた。冠を戴いた日から、こんな気持ちになることはほとんどなかった。養父と義兄とに叱咤されて重い鉄の剣を振り、貴婦人への忠義に捧げるための仕草さえ学んだ日日と、夢の中に咲く花々の間に踊るような魔術師に、その手と言葉で、いつの日か掲げるための剣を学んだ夜夜の記憶は、郷愁でも追慕でもなく、アーサーの中に記録として残っているだけのものであるはずだった。
 仔犬の小さく鳴く声がする。あらんかぎりのまなざしが少年の心にいとしいほどの生気をともなって突き立つのを感じていた。
「……ああ。君が好きだ」
 剣を握り続け、幾度も破れてかたくなった手のひらの内に脈打つ早く小さい鼓動が、血汐の流れにのって、アーサーの頬に幼い子供のようにふさわしく温度をのぼらせた。
 アーサーは寝転んだままその白い仔犬を高く空に掲げた。彼は仔犬を愛したが、この仔犬はきっとすべて万人に愛されることを疑わず、その疑念のない清らかな忠誠と愛とを惜しみなく注ぐにちがいなかった。少年は養父に抱く敬愛とも、魔術師に抱く親愛とも、騎士たちの吟じる花とも違う思いにあてはめるべき言葉を懸命に探したが、そんなにも心がぴったりと寄りそうような言葉は、見つけることはできなかった。そのかわりに、彼の胸にうすらと浮かんだのは、だれのものか定かではない指が、アーサーの金髪を美しく分けてやる、夢とも現ともつかない、生まれるより前に行われたようにさえ思われる、おぼろげな陰影だけだった。
「…………」
 少年はふたたび仔犬を胸に抱き寄せ、毛並みに顔をうずめて目蓋を閉じた。きゅるきゅると鳴く仔犬の首元を無意識の指がなだめるように幾度もくすぐっていた。
 アーサーと仔犬はしばらくそうしていたが、草を踏むかすかな音が聞こえて、控えめな影がアーサーと仔犬に降りかかった。暗さを増した闇のために、幻はあっという間に霧散した。
 アーサーはちょっとばかり顔を傾けて影の正体を確かめて、やはりという顔をして眉をしかめた。
「マーリン」
 マーリンと呼ばれた人影はケープを脱いだローブ姿に、装身具も取り払った、まるで町娘のような簡素な風体で大仰に腕を組み、河原で見つけためずらしい動物を観察するみたいにして少年を見下ろしていた。
 少年が名を呼ぶと、女はその白いきれいなばかりの無表情にぱっとお面を付け替えたように笑みを浮かべた。まるで港に闊歩する野良猫みたいだと少年は思った。
「今キミが思ったことを当ててみせよう。『げ、面倒くさいやつがやってきた。今度は何をやらかしたんだ?』だね」
「少し違うな。正確には、『きっとまた何かやらかしたんだろう、またケイ卿の仕事が増えて、それに応じて僕の仕事も増えるだろう』だ」
「因果の概念。たしかにそれは大切だが、まあ、ボクにとっては大差ないね」
「まあね」
 マーリンは芝生に頬を遊ばせたままの少年の隣に白い清潔なローブが汚れるのにかまわず腰を下ろし、少年が胸の上に抱えている仔犬に手を伸ばした。
「きゃあきゃあ遊ぶ子供の声が聞こえたから、てっきり村の宿場にでも泊まっていたかと思ってしまったよ。起きてきてみればこれだ」
 仔犬ははしゃいで舌を出し、さかんに尾を振ると黒い聡明な目でマーリンを見上げたり、少年を見下ろしたりした。
「また街にでも行っていたんじゃないのか」
「今晩はおとなしく夢見ていたとも」
「ほとんど同じことじゃあないか!」
 とアーサーは思わず声を上げた。すると、仔犬が何かおもしろいものを見つけたように調子よく吠えるので、しかめた眉をゆるめて力なく笑った。
「ほら、大声出さないよ。星はまだ高い」
 とマーリンはささやいた。ニンフのように白い指が仔犬のゆたかな毛にうずもれて毛並みの中を行ったり来たりすると、岬に打ち寄せる春の波のようだった。アーサーはその様子を見ながら、仔犬のピンと立った耳の付け根を掻くように指先で撫でた。
 アーサーがさっきまでかしましい貴婦人たちのようだと思っていた星々は、魔術師が来たとたんにすっかりなりをひそめて、その紫水晶の瞳をこわごわ覗いているようだった。夜にほんのりと湿った草が露ににおいたつまであとどれくらいだろうと思ったとき、ふいにマーリンの手が止まった。
 アーサーがいぶかしんで顔を上げると、
「この仔犬、気に入っているの」
 とマーリンが尋ねた。
 アーサーはほんの少し沈黙した。その穏やからしい声が、世界のすべてを掌握する眼を持った夢魔から生まれ出ているということよりも、幼い頃に剣の扱い方を咎められて諭されたときのような、小鳥になぐさめを求めた日のあどけない心地を思い出させたからであった。
「アーサー?」
「う、ん……」とアーサーはわけもなく言いよどんだ。「毛並みはいいし、足も速い。ドゥ・スタリオンの早駆けについてこられるのはこの子だけだ」
 それに、とアーサーは仔犬を抱き上げていった。
「この黒い目がいい。まっすぐ前を見るこの目が。ブリテンの行く先を、僕の治世を、人々の笑顔を見据えるようなこの目が」
 少年の低く響く声に、マーリンは思わず彼の顔を見た。その瞳が若木のような色を喪って、深々と口を開けて星の光を飲みこむブリテンの奥深い森林を映しているのに、マーリンは苦い笑いのかたちを唇にはり付けた。それは手の甲を打たれて痛いと瞳を滲ませていた頃のそれと、ほとんど似ても似つかないことは、マーリンがいちばんよく知っていた。
 マーリンはからだを乗りだして少年をのぞきこんだ。夜露に濡れた結晶のようにさまざまの光の色をきらめかせる長い髪が少年に覆いかぶさった。
「何?」
 と気の抜けたように問い、くすぐったそうに身じろぎをして頬に降りかかった一房を退けたアーサーからは、果てのない暗い森はとうに遠ざかってすっかりその姿を消していた。かわりに、もとの燃えるような鮮やかな若葉が立ちこめて、何度もまたたきながらマーリンを見上げていた。
 アーサーの視界はマーリンの静かなすみれ色に覆われて、またマーリンの視界も世界に遠く及びながら、今はただ一点を水面に映る焦点のように、まじろぎもせず、潤む湖面を見つめていた。地にあるそれらはたがいにとても気が合った。
 アーサーは心臓の音が小さくからだの底を叩くのを感じた。半分の心臓と竜の心臓がたがいに響きあうことがあるのだろうかとごく幼い疑問が過ぎったが、広がる光景は心地よく、思わず手を伸ばそうとして、その手にあたたかないきものを抱えていたことに気がついた。
「ああ、ごめん」
 とあわててからだを起こすと、仔犬の愛くるしい舌がアーサーの頬をなめた。マーリンはすいと身を引いて、少しお茶を淹れに立った席に戻ってきたとでもいうように、やけに日常じみて、片手でローブを肩に掛け直した。
「いい犬だ」
 とマーリンは言った。
 寝転がって上半身だけを起こしていたアーサーは、その言葉を聞くとさっと跳ね起きて仔犬をしっかり両腕に抱き、マーリンと同じように地面に座りこんだ。
 小柄な魔術師は立てた膝にいたずらそうに頬杖をついて、仔犬とアーサーを交互に見た。
 アーサーはどうして今までそのことに気がつかなかったのかというように、色白な顔に夜でもわかるほどのアマリリスの赤色をのぼらせて、マーリンの方へ身を乗り出した。
「この子を僕の猟犬にしよう」
 高らかな少年の声が夜の中庭に響いた。それは城内に朗々と鳴る王の宣言とは違い、ただ、少年の確固たる、頑とした主張だったので、マーリンは薄く微笑んだだけであった。ベルフリトの番人がわずかに窓の外に顔を出したのに気づいていても、それがこの少年の決めごとの妨げにはならないだろうと女は知っていた。
 アーサーはグローブも籠手もつけていない指先で、腕の中ではしゃぎ回る仔犬のあごを撫でた。仔犬の毛がもつれ合うこともなく器用にアーサーの指のあいだを辿っていった。それは神経でも通っているのかと思うほどに、たまらないほど熱く、小さな中庭の草原がひどく広がったようだった。その草原から吹く風は、ひとときアーサーの景色から深い夜に光る星と月とを奪い去って、雲と青い色とを連れてきた。
「ともに野を駆け、そうだ、鹿狩りに行こう。名はカヴァス。きっといい猟犬になる」
 アーサーはその光景がはっきりと頭に浮かぶのを感じた。そうでなくてはならないとさえ思った。それはあまりにつり合いのとれた昔からの絵のようだった。
「うん」とマーリンはうなずいた。「それにキミの慰めにもなる」
「それは王としての僕かい」
「キミが王以外に何であるっていうんだ」
 と、マーリンは言った。
 それが王の玉座にて行われたものでないと気づいていながら、彼女はそうアーサーに語りかけた。彼の手に黄金の剣はなく、こうべには繊細に切り詰められた冠は載っていなかった。それに、いよいよ草のにおいは露に閉じこめられて、あたり一面をほのかに包みこもうとしていた。
 少年は彼女がそう言うだろうということを知っていた。自身を王たらしめ、自分をつくったとさえ言える魔術師に、ちょっとばかりしゃくな気分になりながら、アーサーはマーリンから目をそらして、いやに広く感じられる中庭の孤愁を眺めて言った。
「慰めは必要がないことだ。僕には不要なものが多い。たとい、今はそうでなくても、不要だと断じる日が何度もやってくるだろう。そして、やがて僕は君が設計したとおりに、生きて死ぬ」
「ええ」
「この子は共にそれを負う。負わないからこそ負うんだ。戦場に出る日だってあるかもしれない」
 仔犬の黒い目が、さっきまではしゃぎまわっていたのがうそのように、アーサーを見つめていた。それはまるでアーサーの言葉にききいっているようだった。
「だから、慰めではない。この子は僕の……ええと……」
 アーサーは口をつぐみ、言い出すことばを探して下を向いた。
 すると、マーリンは立ち上がり少年に手を差しだした。アーサーが思わずその手をとると、彼女は少年のからだをぐんとひっぱった。仔犬がひざから転げおちてぴょんと跳ねる。
「わ」
 魔術師は小さな足のかかとを軸にして、少年をすきに振り回しながら蜜をさがす蝶々のようにくるくると廻った。あっと声をあげるまもなく、足もとに花がぱっと咲いては、カヴァスに追われて、どれも旅の踊り子のように散ってどこかへいなくなっていった。小さな夜の中庭にみたこともない異国の花がひしめいて、マーリンの髪のすきまにもぐりこんだり、少年のまぶたを刷毛をすべらすように撫でていったりした。
 少年の上げられた腕のなかで一回転したマーリンはすこしの反動もなくぴたりと足を止めた。ふ、と片眉をあげたいつもの得意そうな笑い顔がすぐ近くで見上げていた。
「友人?」
「……そうかも」
 アーサーはあっけにとられて言った。
 それを見てマーリンは声をあげて笑った。
「こうしていると、なんだか田舎娘と農夫の逢瀬みたいじゃないか」
「君がさっき言ったじゃないか。ただの王と魔術師だよ」
 とアーサーは大きく息を吐いて片手で乱暴に髪をかき回した。桃色や黄金色の花びらがひらひらと落ちた。
「君の遊びに僕を巻きこむのは、やめてくれよ」
 本当に。と念を押すように言うと、マーリンはアーサーの手をとった手のひらをうやうやしく持ちかえて、淑女のするようにローブのすそをつまんでみせた。
「冗談。敬愛する我が王よ。いとしいボクの教え子、あらたなる友人に主の祝福を」
 狙いすましたように仔犬が吠えた。ローブのひだがさっと揺らめく音がして、細い指先がするりといなくなる。支えを失った手が宙にわずかに沈んだ。
 アーサーは仔犬を抱いた魔術師を見下ろして、それから捧げられた自分の手の甲を見つめた。それは星々の夜をとらえていたが、仔犬の毛並みのぬくもりと、せせらぐ河にひたしたような白い指の感触が、いまだありありと浮かび上がってくるようだった。
「君の祈りは好きだ。ありがとう」
 と少年はつぶやいた。
 魔術師は首を傾いでちょっとだけほほえんだ。彼女の透きとおる頬が仔犬のやわらかな額にうずもれて、あかつきの気配が庭園を包むまでしばらくの間、彼らはしずかに並んで座り、星のまたたきをきいていた。