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消失点

※現パロ風

 深更に目が覚めて、その男の不在に気がつくのにもすでに慣れた。すぐとなりで、体温のひとつも残しはしまいとでもいいたげな冷たいシーツがかろうじて人のいた証のような皺を寄せていた。その皺を均し、体を起こせば、キッチンの方角から灯りが漏れているのが見えて、のたりと立ち上がった。軋まないベッドを買ったのだ。夜は夜のまま、静けさを保っていた。
 キッチンに備えつけてある緑がかった蛍光灯に照らされた人影は亡霊のように立ちすくみ、湿った眼差しでさざ波ひとつ立たない透明なコップの水を見下ろしていた。長い木綿の外衣から伸びる足は白く、スリッパに仕舞われた指の先を思うと子どもの気配にぞっとする。下衣ははぎ取られたままの姿で寝室にくたりと横たわっている。
 人影の顔がゆっくりと上げられこちらを見た。きょとんとした冷たい氷像のような表情がふとわずかな兆しに満たないほどの微笑みを来訪者に与えた。
「夢を見た」
 幾晩繰り返される音の羅列が今晩も変わらず紡がれた。決まりきった言葉に、決まりきった答えを差し出すのが、このへやの不文律だった。
「なんの夢だ」
「民の夢だ」
「民?」
「そう」
 吐息でもしたかのような囁き声が、いつものように対話を終えるはずだった。それは彼が眠りに戻る、あるいは体を捧ぐ合図でもあった。けれども今日はちがった。蛇口から滴がひと粒落ちて貝殻のような瞼が二、三度綴じ、伏した瞳の奥は鬼火のように揺らめいた。
「民を墓に埋める夢だ。すべての墓あなを掘り、私はそこに民を埋める。地平が見える、森の木々の中、湖の浅瀬に、私は墓を作り、作りて、いつか土地が足りなくなる。狭い土地だ。私の背にはまだたくさんの民がいるというのに、行き詰まる、それこそが、悪夢なのに。私の、両の手の皮は破れ、赤く汚れ、砂地を掘る道具との境目はもはやわからぬ。小さな、小さな穴を深く掘る。子どもの墓さえも」
 壁に体を凭れさせ、テノーレ・リリコの響きをじっと聞く。それはほとんど歌うようだった。
「俺の墓もあるのか」
 と、思わずたずねた。
 すると彼は顔を上げ、目を細め、月灯りに透く金髪の向こうでおどろくほど慈愛に満ちて笑ってみせた。けれどもそれは長いまつ毛の連ねた籠に情火を飼っているときとなんら変わりなく見えた。
「いいや、ない。お前は私の民ではないから」
「そりゃいい」
 足音荒く奴に近づいて形のいい頭を両手でつかまえ、顎を上向かせてもその表情は変わらなかった。構わず唇を重ね、人工呼吸のように何度も互いの息を行ったり来たりするあいだに、彼の悲しみは息を吹き返したようだった。
「……ぁむ、ん、ッう」
「…………っ」
 冷えた指が頭を押さえている手の甲にかかる。しかし、その吐息を貪ることはやめなかった。これはまさしく人工呼吸だったのだ。湖の底で物言わぬものになるのを防ぐための、救命活動だった。
 片手を外して長い上衣の裾から忍ばせた手を上に上に辿ると、ようやくかすかに身をよじった。まくれ上がる布からひんやりとした皮膚がのぞいた。臍を引っ掛け、せわしなく上下する肋骨の間を摩り、胸の真ん中に手のひらを押しつけた。小鳥が檻から出たがるみたいに心音が鳴っていた。
 後頭部をさらに引き寄せて、食うような行為そのもので唇をねぶり続けると怯えた舌が引っ込んだが、それを許さずなおも続けた。烈しい息の音だけが満ちて、そのほかはとても静かだった。彷徨う手が震えてシャツの胸元を掴んだ。木綿の上衣から手を引き抜いて、その震える手を自身の鼓動に突きつけてやる。
 自分の体温が震える手との境目を探してじんわりとぼやけていくのを感じながら、力のなくなっていくそれをもっと強く圧した。
 気味の悪い笑みなどとうに消えて、あるのは、呼吸を求めて苦しげに仰く白い喉と、目の前に漂う生に焦点を合わせる瞳と、たったひとつのぬるい人間の体だけだった。
 散々に吸った唇は赤くなって、そこだけ妙に色づいて見えて、彼が死人でないことを知る。
「戻るぞ」
「……うん」
 俯いてよろける体を支えることはしなかった。手のひらはいまだ鼓動に寄り添い、聞き入っているように思われたからだった。
 寝室に戻り、すっかり冷えてしまったシーツにそれを横たえて、今夜はもう抜け出すことのないよう腕に囲い、すんなりと伸びる足を押し込めた。眼下におさめた金色の頭がわずかに動いて、嘆くような声を出す。
「お前が私を地上に墜とす。私の夢が潰えることはないのに、不毛な、この邂逅は、どうして……」
「…………」
 その嘆きも、やがて眠りの手によって瞳を隠された。寝息はごく細く、すべての力を手放した体は先ほどまでの熱さが嘘のように沈黙していた。
 カーテンの隙間からまだ白々とかがやく月の光が不埒に横たわった。その光から彼を隠すように、抱く腕に力をこめた。彼の言葉、夢と言い張るものの意味が理解できたことはなかったが、彼を地上に墜とすというのが自分の役割だとするならば、いくらでも互いの体温の境目に耽り、血を分け与えてやろうと思っていた。……