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懺悔

※魔女狩りパロ

 厚く、重い外套を、身重のいきものが這い回るような音をたてて、石の床にひきずりながら、その少年はひとつひとつ、確かめるような足取りをして、底なしの塔の奈落へ落ちるかごとくの階段を踏みしめていた。外套の滑らかに毛羽立った表面に植物の蔦のようにうごめく刺繍は、呪いの紋様のようだった。少年のまだ小さな肩にのしかかる紋様は豪奢に、たれも刺しえぬしるしを成し、彼の純然たる銀の刃物のような信仰が、高く高くそびえるのを誰の目にも明らかにした。
 オイルランプの黄昏色が、少年が歩くとに合わせて地下牢の石壁をぬらぬらと照らしていた。
 廊下はしんとして、呻きも、嘆きも聞こえなかった。なぜなら、すべて燃え尽きてなくなったのだった。少年が導いて、その揺らがぬ指の先、火柱のような炎が天向け突っ立ち、皆、燃えた。少年の網膜には赤々と燃える炎が焼き付いていた。魔女の肉体は、ちりのひとつも残してはならないと、彼は信じていた。
 灰色が夜を吸い込んで、まったく黒々とした石壁が少年に迫った。鈍い足音だけを響かせる中、ただひとつ聞こえるのは、薄く小さな、水底からたちのぼる泡のような、うわ言とも聞き紛う声であった。
 少年は耳をそばだてることもなく、眉をしかめた。それは聞き慣れた、安らかな祈りの声であった。
 足はいよいよ焦燥に歩みを速めて、ランプの灯がよどむ空気をかき混ぜるたびに烈しく揺れるのにもかまわず、彼の見定めるところの者が死に絶えようとするのをとどめるために、空の牢獄が連なる景色を側目にかきつ、歩き続けた。
 はたして、たどりついた牢獄は、一人の囚人をその闇にかくまって、ひそやかに、少年の前に現れ出た。
 鍵束の一つから鍵を取りだして錠前に差し込むと、陰鬱な音を立てて狭い鉄格子の扉が開き、
「エドナ」
 と、少年は闇の中に呼びかけた。
 はたと祈りの声が止んだ。少年が足を進めると、やがて隅っこに縮こまって見えた、うすらとした白いからだがびくりと動いたようだった。
 少年が囚人の顔を覗き込むよりも早く、彼の耳には苦しげな息の音と、痛苦に悶えるつま先が寝台をひっかく音が聞こえていた。少年はランプをかざした。そこには、赤黒い傷と、新しい血の跡の中で震え、濁った目は何ものも見ることをゆるされず、病に喘ぐ男の姿があった。毎夜、牢番たちに嬲られるからだはやせ衰えて、枷のついた足首は錆が沈着して銅色になっていた。熱で真っ赤になった意識は混濁し、少年が何者であるか、今の男にはなにもわからないらしかった。
 少年の元に、男が熱病に冒されていると知らせがきたのは今朝のことであった。牢獄長の深い皺に埋もれた表情が、のろまったく動いて、いかが致しましょう、と言った。
 日が昇るよりも早くその重い外套を身にまとう少年は、鉄の鎧に閉ざされたような声で、水薬を、とひとこと言った。それから、日が沈むまで少年は十字架をとり、言は聖剣と成し、幾数人の魔女を裁判にかけた。少年が自身の内なる光に頭を垂れているあいだ、熱病を恐れる牢番が、水薬を石段の途中でこぼしてしまいはしないか、気がかりなのはただそれだけだった。
 小さな舌打ちが石壁に反射することなく鈍重に響いて消えた。水薬の入った水差しは、壁にもたれる死体のように、扉の近くに打ち棄てられるようにしてあった。少年は男から顔を背け、水差しの中にまだ水薬が入っていることがわかると、それを手にとって、男の乾いた唇に一滴、二滴と透明をのせた。
 すると、男の唇から、ふうと小さな息が漏れ出た。少年はぎくりとして肩をこわばらせた。それはまったく、緩やかに死にゆく人の魂だった。
 しかし少年の動揺をよそに、深く瞑られた瞼が、人の気配に、濡れた長いまつげを持ち上げて、早朝の蝶の翅のようにゆっくりとひらいた。
 今にも燃え落ちる陽の光を揺らすランプよりも、ずっと冷たい金の星のような色をして、男の瞳があらわれた。それは、少年の方を見ることなく、反対の、壁の方を向いて数度またたきをしたが、少年は、その瞳の色が、朝起きるたびに鏡に映る自分の瞳の色と同じ色彩をしているのに気がついた。焦点が見つけられず、夢見るように宙をたゆたう視線は、石壁の亀裂を数え続け、待てども少年をとらえることはなかった。
 ふたたび、水差しを手に取ると、少年は暫時考えて、水薬で自身の指を滑らすと、男の唇に指を持っていった。そうして、唇と、咥内のほんのわずかなすき間を、なぞるようにして水薬を差し込んだ。顎を支えて、何度もそうするうちに少年の指は濡れそぼり、男の荒い息はだんだんと小さくなった。熱を持っていただろう、新しい傷跡は、ようやく冷静を取り戻して主の治癒に専念しようとしているようだった。
 棒で抉られた肌も、刃物で裂かれた皮膚も、何もかも、少年が命じたものであったが、今はそれがなくなってしまえばいいと思っていた。
 少年はまだ肉色をした男の傷をそっと撫でた。男の吐息だけのうめきが指を伝わり、少年の耳に甘美に届いた。
 もう、牢獄の外に広がる嘆願の声は聞こえなかった。大衆は、死を恐れ、家族を逃し、自分を守り、少年の背後にそびえる断罪の槌が上げる高らかな音色に瞠目して、名もなき神父を供物にすることになんのためらいもなかった。そのことによろこぶことも悲しむこともなく、果ては魔女に対する怒りさえもなく、ただ、傷の一つもなくなった白いからだが、いきものの燃える黒い煙と神の火の赤色にまかれるのは、どんなにうつくしいだろうかと、少年は夢想した。
 そのとき、少年は視線を感じた。水をふくんで奇妙に生気のもどった唇から、顔を上げると、ウェヌスの灯りがふたつ、少年をじっと見つめていた。瞳孔は光をすべて吸い込もうとして、ランプの光に照らされる少年のまるい頬の輪郭をしかと見据えていた。
「エド……」
「若い人、こちらへ。そんな顔をしなさるな」
 知らずおののいたからだに驚いて、険しい表情で後ずさった少年の手を、やっと持ち上げたようなていで震える男の手が追った。潰れた指の先には、いびつな爪が少しばかり生えていたが、それも慰めのほどだった。しかし、少年はかつてあったであろう白く細い指が、聖書の頁を、小さな音を立てて捲るのを幻視した。
 静かな瞳は、けして少年を見ているわけではなかった。その瞳が憎らしくて仕方のなかった若い少年は、その憎悪に似た執着がいつの間に霧散してしまったのか、知ることはなかった。だが、凄惨を極めたその拷問、責め苦、痛み、陵辱のために満足に動かなくなった足のすべてが、彼の瞳の前には無意味であるように思われた。
 少年は、男が自分が誰か認識できていないのを知って、宙に留まりかすか揺れる男の手をおそるおそる取った。
「こちらへ、こちらへ。哀れな若人よ」
 男はただ、目の前に現れた影を憐れみ愛しただけであった。
 少年は膝をつき、厚く重い外套は、湿った石の床に落ちた。刺繍が彼の小さなからだに這い寄り、絡みつかまえようとするのを、男の赤黒く、清廉な手がさえぎった。少年のかたちの良い頭を包んだ手のひらは、そのままそっと少年を引き寄せた。
「祈ろう。貴方のために。安心して、さあこちらへ」
 ふさとした少年の髪が、襤褸切れをまとう男の裸の胸へ触れた。苦しげな息の代わりに、涼やかな祈りの声が、見上げた男の唇から滑り出た。
 額を押し当て、目を閉じて、しかし指を組むことはなく、少年の剣と天秤の腕はだらりと床に垂れていた。
「エドナ」
 祈りが牢獄に満ちゆくなか、少年は甘く囁いた。エドモン・ダンテスの名を剥奪された神父だったものに、子供じみた戯れに付けたものは、女の名前だった。一人きり、彼の心の中でだけ呼べる名が、はじめて男の鼓膜を震わせた悦びが、途端少年の中で渦巻いた。
 傷に遺されたぬくもりが、少年のすべらかな頬を血で汚したが、彼には、自分の頭を優しくとらえる大きな手のひらがいとおしく、慕わしかった。