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人知れぬ帰途

※現パロ風。攻めとモブ女の絡み有

 ごう、ごうと規則性のかけらもなく間欠的に低くうなるような音は血液のざわめきに似て、いっそある種の一貫した万象の組織的なシステムに組みこまれた零や一のような規律を保っていた。減速もせずに、まるで自分が恒星だとでも思っているような爆発的な推進力を信じ切っている、水のような車体の車たちが、おしなべて、廻転して霧散する寸前の流星のように、ラウンドアバウトを突っ切っていくたびに、女の金色の髪の毛がかすかに舞い上がった。黒くぬられてぐるりとはねあがった長いつくりもののまつ毛が、持ち主の髪を不躾に乱した排気ガスというものに華美な線をつくり、黄金比にはほど遠い赤と青の信号機の光をはねつけ、夜に呼応することもなく抗議の声をあげるとき、さまざまの金を溶かした輪を天体のようにつらねた重い細腕は、ルキウスの腕にしなだれていた。ルキウスは、喧噪よりもいっそうひびいて聞こえるとがった靴の足音に振れている腰を抱き、分厚いミンクのコートにかくれているそのなかみに、異国のフルコースがたっぷりと散らばっているのを思い出した。ルキウスも、女も、生き物を殺すことを厭ったことはないのであった。
 ルキウスは女のつめたい脂肪のついたやわらかな腰と熱いほとを知っていたが、猫の足のような女の靴が石畳に気を取られぬうちに、黒いタクシーが扉をあけて待ちかまえている通りにさしかかる、けれども、かろやかなつま先が今は鈍重にルキウスからはなれようとしなかった。女はシャツの隙間から見えたルキウスの太い腕にからんでいる銀色の文字盤を、つやつやとした宝石のような爪でなぞり、身をしなやかに伸ばして、幾重もの血肉が折り重なったような唇をつきだしてルキウスに口づけた。視界のそこかしこに白や黄金の街灯りが光っていた。そのなんとまぶしいことか。女のつややかな髪の毛に乱反射して、水にぬれたように見せるために小さな粒子をぬりつけた暗い赤色は、ひとつも痕跡をのこすことはなく、ルキウスから離れ、女を乗せたタクシーは大マゼラン雲のような街の一部になるべく、ネメシスみたいに飛んでいった。唇には生ぬるい人間の温度がじっとりと残っている、その、赤色は、ルキウスに別のものを想起させていた。
 ルキウスのねぐらというものは街のあらゆるところにいくつもあったが、彼のほんとうのすみかというのは、星々だけが見えるような大きな窓をしつらえた、天のなかほどに浮かぶへやであって、そのねぐらは彼の好みではあったが、それと同時に、もうひとりの人間のすみかにふさわしいと思ったものであって、実を言うとルキウス自身はたった一世の生涯において、現代作家のつくった特別な調度品がみがきあげられたすみかなどには、たいして、頓着もしていなかった。
 ずうとして重い扉が音もなく押し開けられると、街の灯りなどとうてい及ばない、濃紺の宇宙のようなやみがあたたかくルキウスを迎え入れ、腕の銀盤はなりをひそめて星灯りを今か今かと待つようだった。真横に吹き抜けるようなつくりをしたへやの中央には大人三人ほどを並べてもまだ足りぬほどのソファがあったが、その巨大な動物のようなソファにうずもれるようにして眠っているひとりの人間があった。この人間が、ルキウスがこのへやを買い上げた理由のひとつでもあった。電灯のともっていないくらいへやには、カーテンのない窓からの銀河のような光がぽつぽつと水滴のようにかすかな灯りを室内にもぐりこませるだけで、やはり、無造作な眠りにおちている人間にはふさわしいのである。その人間は名前をアーサーといったが、ルキウスは、しばしば、その男のことを独特な音調でもってアルトゥールスと呼んだ。アーサーはその仰々しいひびきを好まなかったが、ルキウスにとって彼の名というものはずっとその名なのであったから、アーサーの反駁はたびたび夜のうちになんとはなしに消えていった。このときも、ルキウスは彼をそのように呼ばわったが、眠りは深く、テーブルにひかえめに散らばった安い出来合いのサンドイッチの包装ビニールだとか、何度も着ているせいで妙につやの出てきた黒いスーツのベストとスラックスだとかを、ともに従え、殊勝に朝を迎えようとしている姿は、幾度も見かけた光景ではあった。
  その、腹の上で組まれていた片腕が、時間がたつにつれて眠りとともに重力に寄り添ってソファから流れたというように、軽い音を立てて床の上に落ち、若者のすがたが地上から生える一式の石南花みたいにして、遠慮もなく、上質のねぐらにからだを投げ出している。それは彼のきらう無防備にはちがいなく、けれども、閉じたまぶたの上に見え透いた幼い空虚をさらけているあかしに、たるんだ靴下のすき間やはみ出したシャツの影などには、ゆるがせにした肌のしたで息をする小さな骨がまぎれもないかすかな安息に隆起していた。
 彼の安息というものは、ルキウスにとってすばらしいでき栄えの獲物だった。ルキウスは口端を上げて、ソファの上にひざをついてのりあげた。ソファは巨躯の侵入をうけてもわずかによじれただけで、青年の眠りを守りつづけていた。真っ黒な要塞に亀裂をうがって女の太腿のようなほころびをつくりルキウスをのぞいている服の合間に手をさし入れて、ベストやシャツという服の論理をひとつずつ破綻させて、緞帳をかいくぐるように乾いた布を押し上げていけば、真っ白いたいらな腹が星明かりのなかにぼんやりとあらわれた。この薄い内側のどこにしまわれているのかもわからないはらわたが幾度となくおびえ、軋み、ルキウスを孕んだことを知っていた。両手で外周をぴったりつかまえられそうな腰を無作為に片手でつかむと、食いこんだ親指にひきつられへこんだへその陰影がいっそう色濃くやせてあわれなようすに見える。
「礼節を知れ、獣め」
 と、ふいに遠鳴りする雷鳴のような吐息がおこり、ルキウスはついに、く、と音を立てて笑った。どこにいても、静かで低く落ち着いていて血の通わない声は、いつでも、予言、予告、あるいは裁判のひびきだった。青年のからだはまだ眠ったままのように見えたが、かたく閉ざしたまぶたの許しもなく、覚醒の気配もなく、戦慄することもないからだが寝入ったふりをして耳をそばだてていたことに、ルキウスはとうに気がついていた。獣はどちらだ、と詰め寄ろうとして、ふいに、その小ぶりの口腔に牙があろうか、とざれる気持ちが湧いて出た。
 ためらいとか、哀れんでやるとか、そういう憐憫をこの二人がたがいに持ち合わせていないことはたしかだった。ルキウスはまぶたをおろしたままの青年の顔にうつむき、青年の唇を噛み、厚い舌で押しひろげたその内部に並んだ細かい鉱石のような歯列をたしかめた。ゆるやかに育ち咆哮を忘れたわずかな鋭さだけを残した犬歯がルキウスの舌をひっかいた。食いあうようなそれはとうてい口付にも愛撫にも思われなかったが、血のにおいを思い出すにはふさわしかった。
 やがてぐったりとしていた石南花にやにわに神経がはりめぐらされて、ふり上げられた腕がルキウスを強く押し返した。
「人の話が聞けないのか」
「聞く必要がない」
 とルキウスはおだやかに言った。
 すると、ルキウスの胸を押す手のひらに伝わるはずのゆっくりとした鼓動はウールのジャケットにまったくさえぎられていたが、青年の指がかんしゃくを起こしたようにそれをつかんだ。
 青銅の剣がはげしく燃えるごとくの色をして彼の目が怒りに光っていた。彼はいつもなにかを燃していた。それはたいていルキウスの夢想された死骸だったり、遠くに見つめた幻の砦だったり、湖であったり――楽園であったり、するのだったか、彼がルキウスとの境界をなくし、思考をにぎりつぶされてちりぢりに錯乱し、狼狽する、あの凄絶で愛おしい夜のあいだにまるで睦語りのように発されるうわ言は、赤子のように取りあげられて、飲み下され、ルキウスだけが知っていた。彼は厚く広い手で青年の胸板をすっかりつかみおおせて、押しつぶすように胸間に指を食いこませたり、肩にわだかまっていくシャツの下にいっそう分け入ったりして楽しんだ。
「やめろ」と、青年はかすれた声で言った。「私の犬のほうが何倍も賢かった」
「は! 常々犬よりもひどく泣くのはどちらだ?」
 そそのかし、薪を焚べるルキウスの言葉は、依然として燃えている瞳をほめそやしてなぐさんだ。青年は大きく息を吸って、それから胸をふるわせながら、ごく細く、ふいごが炉を冷ますようにゆっくりと息を吐き出した。
「“たまには”私の言うことをきいてみせろ、皇帝」
「ならばしつけてみせろよ、赤き竜」
 青年はふるえ、なにかを言いつのろうとして頭をもたげたが、ルキウスは目を細めてそれを押しひしゃげ、ふたたび青年の唇に没入した。急激に冷やされた炎がこごって、黒々とかがやく瞳の内側がおののき、アーサーは思わずまぶたをきつく閉じた。
「んぅ、んん……っ」
 いかだみたいなソファがついにかわいた悲鳴をあげて、よく磨かれた黒い床はひとつになった影を幾層の珪素に幽閉したように映し出した。
 舌が押しこまれて、やわらかい布が裸の皮膚にこすられるとわずかに腰が持ちあがるのを知りたくはなく、しかし何もかもわかったような顔をする男はこの無様を見てきっと笑うだろうと青年は思い、彼は指をジャケットにしがみつかせたまま、苦しまぎれに男の熱い舌をふくんだ。そうさせられると、いつも、からだ全部でそれを抱かされているような心地になった。ルキウスが鋭い鼻梁を甘えるように青年の頬にこすりつけながら、ときどき、青年がみずからにつらぬかれて知らず願いこがれるときを回想させるように、両手でつかんだままの胸を上下に揺さぶると、北の海溝の深い谷で生き埋めになったような気分が青年をおそった。青年はかなしみを紛らすように気散じに埋めた腹の空洞を恋しく思った。彼は硬貨ひとつか、ふたつぶんでしか、腹を満たしたくはなかった。ままならぬ呼吸のあいまに横目でテーブルを見やれば、とうめいの包装ビニールが夜の海に浮かぶくらげのように、気ままにうちすてられていた。青年は地上からほど遠い深海のへやで自身とほかの命を無為にむさぼるには、あまりに餓えていたが、彼の魂はそうしてずっと餓えていたかったのに、ルキウスがちょうど今のように、あるいは人のようにも思われない、どうしようもなく悪辣な番いの果てにアーサーの輪郭をはがしてなかみをすっかり明らかにしてしまう夜のように、何度も彼の命というものをそそぎこむから、炉は満たされて、いまだ絶やされず、火種を新たにしてゆるやかに燃えつづけるしかないのだった。
 壁一面の窓の外には、明るい都市に食らわれなかった星が煌々と照るのが見えるばかりだった。ルキウスは青年の息がだんだんとおろそかになり小さく短くなってくると、ようやく彼の唇に一度おしつけてすべてを終えた。アーサーはむきだしの胸をおさえてわずかに仰き追いつめられた動物のように長く息を吸った。ソファから投げ出されて床に触れているつま先が先端までぴんと張られのびきっているのに、怖気に似た感覚がルキウスの内部からせりあがってきた。芝のような絨毯を踏みしだいた女のものとはちがう、人には見えぬような、透きとおった華奢な靴が青年の足をささげもっているようだった。
 青年のからだはしだいに脱力していった。ルキウスはしばらくそれを見おろしていたが、やがて、ふと伸ばされた青年の手が、彼の頬をかすめて首のうしろにさわった。めずらしく、ルキウスは抱き寄せられるままに、おとなびたシャツにくるまれた子供の手の無邪気ないざないにしたがった。指はルキウスの襟髪を撫でて首筋をたぐり、そしてつと手をはなした。視界の端を金色の糸がかすめて、それは一本の長い髪だった。
「私のものではない」
 ふしぎに舌の足りないような湿り気をおびた声が言った。青年は憂うものぐさの仕草で顔をそむけて、重たげなまぶたをさかんにまたたかせ、物珍しいといったようにそれを上から下までながめた。髪がかたちの良い爪にはさまれて今にもとびかかろうとする子猫の目の前にさらされたように不安げに揺れた。その様子は、ふいに、ルキウスのありとある満足をひろげた。
「いいや、お前のものだ。アルトゥールス。今は、まぎれもなく」
 と、ルキウスはほくそ笑んだ。
「気でも違ったか」
 ルキウスは答えなかったが、かわりにこみ上げてくる笑いを喉奥に殺し、襟からのぞいている白い首筋に噛みついた。おどろいた青年がもがくごとに、汗ににじむ無機質のにおいが心地よく色づいた。「このへやにあるのは貴様だけだ」と、ルキウスは青年の耳の裡に吹きこんだ。青年のからだがこわばり、動きをとめて、しばらく、雨のふるような空調の音だけがうなっていた。
 おぞましい、と、ひそむ眉の下で声にならない息が吐き出された。閉じたまつ毛にかくれた瞳の断罪が、青年自身に語りかけて、夜夜の公判に彼を引きずりだしているようだった。彼にとっての高潔な懊悩は、ルキウスにとってはまったくおろかな絞首台でしかなかったが、ただ夜のうちに白く、波の断崖をのぞんで、人々のあつらえた玉座に磔にされる手足だけをもっている青年を、地に落とし薪を焚べ、燃やし、こぼれる魂をすすり食らいあうための黒い裁判所は、ほかでもなくこの青年によって完成されていた。道標は、ずっと青年の心臓のなかにだけあった。