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はりねずみたちの命題

※天エド食べ歩きアンソロに寄稿

 その少年の切り出した願いを無下にするには、エドモン・ダンテスと天草四郎は彼を十分に好いていた。四郎は不安げにからだの横で揺れる小さな赤い紋様を見ていたし、男は穏やかにひんやりとした視線を投げかけて少年の言葉のつづきを促した。
 その日のレイシフトも、少年は盾の少女と、アヴェンジャー、それにルーラーを伴って、細々と生きる動物のように森や街に隠れては、揺らぐ生命の火を大事に抱えていた。
「オレなんかのところに来てくれた英霊たちだもの。これくらいしなくっちゃつり合わないよ」
 というのが少年の口癖だった。
 実のところ、少年の小さなカルデアで、彼が集めることのできる火というのはそう多くはなかった。それでも四郎や巌窟王、それに他の数少ないサーヴァントが不満を抱くことは絶対になかった。慢性的な戦力不足に喘ぎながら、腐りかけた指で指揮を執る人間が己らの人理を護ったことに、惜しみない賞賛と割れんばかりの拍手が与えられるのが当たり前だと、彼らは信じていたのだった。
 だから、その時も、メディカルチェックを終えた少年の呼び止める声に二人は快く応じたし、彼の言葉に驚きはすれど頭ごなしに否定することはしなかった。たとえそれが彼らにとってあまりに無情で、あるいは無駄なことであったとしても、四郎は微笑み、巌窟王はゆっくりと頷いてみせた。
「慰労のためのレイシフトとは、なかなかマスターも考えたものですね」
 と、四郎は並び立ち廊下を歩く隣の男に話しかけるでもなく言った。少年と別れてより、四郎と巌窟王は考えあぐねるように、狭いカルデアの廊下を、今さら散策をするまでもない勝手知ったるそこを、かれこれと十分ほど巡っていた。こういうとき、巌窟王の足が自然と図書室に向かうのを四郎は知っていたので、そろそろそこへたどり着くだろうと思っていた。
 巌窟王は普段の彼のきびきびとした足取りをなくして、どこか上機嫌に規則正しい足音を鳴らして、果たして施設内の図書室へと踏み入った。彼は気に入りの一人掛けのソファにどっかりと腰を下ろして、調子よく煙草を取り出そうとしたが、四郎の咎める声におとなしく、それを懐にしまいこんで、
「煙草のにおいと書物は存外に相性のいいものだぞ、四郎」
と、言った。
「書斎ならね」
 と、四郎は答えて言った。
 巌窟王はしばらく目を閉じてソファに埋もれ、考えを巡らせているような顔をした。組まれた指が、猫の気まぐれな尻尾のようにふぞろいなリズムを刻んでいた。四郎はしかたなく、テーブルを挟んで彼のはす向かいにある小さなスツールに腰を掛けた。
「慰労が目的ならカルデアスの電力を少しばかりこちらに回して、我々は霊体化でもすればいいものを」
 巌窟王が呆れたようにそう言うのに、四郎は思わず笑った。
「巌窟王、あなた、彼をマスターといってあなどっちゃなりませんよ」
「侮る? マスターを?」
 と怪訝そうな透きとおる瞳が目蓋の下から現れて四郎を見た。
「そうですとも」と静かな図書室に四郎の声が響いた。「我らがマスターは魔術師でもなく、まして研究者でもない。善き人そのものなのですよ」
「貴様らが本能にも似て護らんとする善き人か」
 そうつぶやいた男の表情はどこか柔らかく、彼の上機嫌がまだまだ続くであろうことを、四郎はたやすく実感した。
「彼は大衆そのものです。善の体現、生きようとする人類のあがきそのもの、目の前の一のために万を棄てることのできる愚かな善人そのものです」
「……さて。貴様は霊基をどう申告していたかな」
「ええ、もちろん、善にして秩序、それ以外に申告する理由があるとお思いで?」
 いたずらそうな金の瞳が交差して、巌窟王の大仰な芝居じみたため息はいっそう大きくなり、四郎は珍しくころころと面白そうに笑い声をあげた。
「彼は、私たちに『美味しいものを食べて』と言ったのです。候補地はブリュッセル、サン・セバスチャン、北京にボローニャ、軽井沢……。だから、善人のただびと、彼のために我々は食を楽しみ舌鼓をうち、彼という人間の思う慰労をこなさなきゃならないのですよ」
「承知しているとも。これは我々に課せられたものであると同時に、マスターにも課せられた問題であるのだから」
「ええ。そしてどうやら軽井沢はマスターの故郷にほど近いようなのです」
 四郎は少し俯き気味な彼らのマスターを思い出していた。あなたはどうするのです、と四郎が尋ねたとき、少年はわずかにはにかむようにして「マシュとゆっくり過ごすよ」と言った。哀悼を常にたたえているようなその姿が、手ずから英霊を労おうとして出したいとけない答えに、巌窟王が反対するべうもなかった。
「では決まりだ」と巌窟王がほんの少しからだを起こして言った。「その地を求むる以外に何がある? 一等の服を編んでおけよ、四郎。なんたって我々は『食事』を楽しみに征かねばならんのだからな」

 こういう時ばかり何事にも几帳面な男だと、四郎は巌窟王を評して思った。二〇一七年よりも幾分か前の年代らしいその地に、巌窟王の仕立ての良いジャケットはよく映えた。彼は別荘地の立ち並ぶ小径の木洩れ日に目を細めると、初夏のあたたかさにジャケットを脱いでシャツの袖をうつくしく折り、すぐに旅行者といったていに化けてしまった。
 対して四郎はキャソックを取り去った簡易な白いシャツに、ブーツを革靴に替えただけの無装飾な出で立ちで、袖の折り目も正しく、胸の十字も襟の中に隠して巌窟王の隣に並んだ。
「我ながら学生のような姿だとは思いますが」
 と、四郎は男を見て苦笑した。
 すると男は、なんだそんなこと、と言って鼻を鳴らした。「貴様がどのような格好とて六〇年さまよった末のこと、姿かたちなど些細なことでしかないだろうよ」
「それもそうです」
 四郎はうなずいて、ポケットから小さく折りたたんだ地図を取り出して言った。「先導しますよ、巌窟王」
 木々の葉をかいくぐって太陽の影を落とす光が、四郎の白い髪のふちを大気に溶かしていた。男を振り返って道の先を指さしていた四郎は、男がいつまでも足を踏み出さないのをあやしく思った。
「どうしました」
「その呼び名はどうも、我らのいとしい者の故郷に似つかわしいとは言えんな」
「ああ……」と四郎はうなずいた。「ではダンテス。今この場でだけはこうお呼びしても気を悪くしませんね」
「仕方あるまい」
 そう首を傾いだ男は望外に遊興の心地でもするのか、かたちのよい薄い唇を持ち上げて笑った。
「そしてこういうときは先導などするものじゃあない。『食べることを』楽しみに来たのだ、俺たちは」
 エンジン音を鳴らしたセダンが二人を横切って、狭い小径を遠くへ行った。そうして、彼らはめいめい足を踏み出し、やがて地図に記された小さな坂を上りて、西洋風の建物の前に出た。明和の時代に起源をもつそのホテルでは、白い漆喰壁に緑色に色づいたばかりの葉が揺れて、日光に焦げた樹皮が建物の一部であるかのように景観をかたちづくっていた。
「ほうけるな。口が開いているぞ」
「ほうけてなんかいませんよ」
 エントランスへ向かうと赤いポストが目に入る。陽の元へせり出したカフェテラスでは家族や男女が向かい合って談笑をしたり、日焼けのした文庫本を抱えた老紳士が何度も眼鏡を掛け直したりしていた。
 彼らが建物に足を踏み入れると、右手には大きな階段が見えて、男の確固たる足音と四郎のゆっくりとした足並みは深い紅色のカーペットに吸いこまれて、心地よいざくざくとした感覚をもたらした。そんなふうに二人があたりを見回すと黒いスーツを着た男がやってきて「レストランのご利用ですか」と尋ねた。
「いや、カフェでいい」
 と巌窟王は答えた。
「構わないな四郎」
「ええ、もちろん」
 と四郎は首肯したが、実際レストランだろうがカフェだろうがどちらでも構わなかった。彼は今自身がサーヴァントであるにもかかわらず、ほんの少しでも食べる行為を期待しているのに、ひそかに面食らっていた。
「それではこちらへ」
 と案内する男について歩く巌窟王の慣れた姿勢とゆったりと揺らぐことのない足取りには、とうてい彼が四郎と同じように自身の本分を忘れているようには思えなかったが、それでも小指の一差しくらいは、巌窟王という男が食事に対して思うところがあるのではないかと、四郎は考えるのをやめなかった。
 外にほど近い窓のそばにあるテーブルが、彼らにあてがわれた場所だった。周囲のテーブルにはテラスと同じようにまばらに人びとが散っていて、それぞれが思い通りの余暇を過ごしていた。ここでは、彼ら二人の風体はそうおかしいものではないのだと四郎は感じた。むしろ、男のような身なりの良いフランス人など珍しいものですらないのだろうとさえ思った。
 四郎はメニューを見て、巌窟王にも促した。けれども彼はつと目を伏せて、または関心のなさそうにぼんやりと外を眺めていた。
「ダンテス?」
「ン……」
「どうしました。早くお好きなものを選んでください」
 と四郎はメニューを彼の方へ向けて指で叩いた。「私はもう選びましたから。アップルパイなどどうです。あのマスターが喜びそうな……」
 巌窟王は相も変わらず黙り込んでいたが、そっと四郎へ目をやると、陶器のような頬にまったく感情のすべてを隠しおおせてしまったような表情で、「コーヒーを」と言った。
「ええ? 冗談はやめてくださいよ」と四郎は素っ頓狂な声をあげた。「我々は食事を楽しみに来たんですよ」
 巌窟王のまばたきにのせられる塵のような陽光がまつげを金色に溶かして、空気がふうとわずかに揺れた。そのため、四郎はようやく、彼の食事に対する教義を思い出した。
 四郎は小さく息をついて、それは巡り合わせのように予期せずして、彼があまねく人びとを憎むよりもずっと前に持ち合わせていた、あるいはそれよりあとに持ち得たものよりももっと普遍的で簡単な、人が人を見守るような音がした。
「あなた、マクシミリヤン・モレルの屋根の下でもそうして目を伏せたのですか」
 すると巌窟王ははっとした顔をあげて、かたちの良い眉をしかめると怒気と呆れとを含んだ声音で言った。
「彼と四郎、貴様を比べろと! 貴様は俺の……」
「そうでしょうとも。少なくともモレル氏に曲がり間違っても"俺の"なんてつきませんものね」
「四郎」
 外で思いの外強い風が吹いたらしかった。窓の外の木々が風に揺られると、彼らに降りかかっていた影もはげしく揺れた。四郎は心なしか男の苦悩を孕んだ髪も風の元にはためいたような気がした。
 目を側め、苦々しげに唇を歪めた男はしばらく思案する様子でいたが、うすらとごくわずか、気の迷いとも思えるほどであったが、まぶたを閉じ――それは四郎にとって、哀しげと称してよいものだった――、それから彼独特の皮肉らしい巧みな笑い顔をもって四郎を見下していた。
「聖人というのは挑発を好むようだな。どいつもこいつも――」
「挑発なんて人聞きの悪い。ただ、今あなたは誰に仕えているかということを思い出さなければならなかった」
「減らず口を」
 風はやんだらしかった。人びとの他愛ないざわめきが彼らの周りに戻ってきた。
 ウェイター、と男は店員を呼びつけて、「タルトとアップルパイを一つずつ、ロイヤルミルクティーを二つ」と言い、四郎をちらと見遣るとにやりとして「それからグリルサンドイッチとプリンも頼む。でき上がる順に運んでくれ」と注文をした。
 四郎はあっけにとられた。
「頼みすぎです」と店員が去ったあと、四郎は堪えきれずに批難した。「誰が、誰が食べるんですか、こんなにも。二人して食に執着するようなたまでしたか」
 思わずテーブルに乗り出した四郎に、男は細い指先をいたずらげに突きつけた。生身の手に四郎はぎょっとした。それに、男の表情は仕草とはちぐはぐに、澄んだ眼球におりおり沈む無辜の青年のような色をたたえ、さざなみのようにふぞろいに見えた。
「忘れるなよ天草四郎。貴様の言葉のとおりだ。我々は人のように食い、人のように楽しみ、そうせねばならん」
 そう言うと男の瞳から汐は引いて、あとはなだらかな丘陵のように濡れた眼がゆるやかに二、三度閉じては開かれるだけになった。
 四郎は困ったように頬を掻いて肩を落とした。
「……そもそもから、ごっこ遊びなど難しい問題ではありましたからね。あなたも食べてくれなきゃ困りますよ」
「わかっているとも」
 男はからだを椅子の背もたれにもたれさせた。
 四郎はじっと喧噪を離れて窓の外へ意識をやった。仔犬が少女と戯れて、白い初夏のワンピースが花開いたり舞ったりしていた。少女は室内から覗く異邦人に気づき、仔犬を抱き上げて手を振った。それに応えたのは男だった。男の白く透ける手は、さっと少女のまるい頬に朱を刷いた。少女はどぎまぎしてしまって躊躇いがちにワンピースの裾を揺らしていたが、やがてあたたかな父のもとへと戻っていった。
 四郎はそれをぼんやりと眺めていたが、コツリと食器の置かれる音にテーブルの上を見た。男はすでにミルクティーをかき混ぜて、口に運んでいるところだった。
「おいしいですか」
 と、たどたどしく四郎は尋ねた。
「自分で確かめろ」
 男はミルクティーのカップを置いて、さきほどの躊躇などみじんも感じさせずにさっさとタルトをナイフとフォークで切り分けていた。細かくちいさくなってゆくタルトは、器用にひとつひとつブルーベリーがのせられて、まるで分裂でもしたかのようだった。
 四郎は運ばれてきたアップルパイが見上げるのに、おそるおそるフォークを突き刺して生地と生地を引き?がし、ついでに林檎も層にして、そのじっとりと重い食べ物に口付けた。
 ああ、と四郎は宙にため息をつきそうになった。良いものだ、と四郎は思った。飢えないためでなく、腹が空いたためでもなく、ただ『美味しいもの』を食べるために咀嚼するというのは、実のところ初めてであったのかもしれなかった。
「おいしいですね」
 と、四郎はにこりと笑った。
 男は答えなかったが、ナイフとフォークのしきりに動くさまを見れば十分だった。彼はきっと、マスターに素晴らしい回答を持ち帰ることだろうと思われた。そして、四郎はいかにも、いたずらと共犯とはこのような関係であるのかもしれぬ、と思った。
 店の中に囁くように降り注ぐモーツァルトの旋律が、人びとのくすくすと笑う声や向かい合って恥じ入る赤い頬に溶け込んでいた。
 四郎は運ばれてくるサンドイッチとプリンをほおばる己の姿と、パンを小さく千切る男の指先とを思い浮かべながら、首を伸ばして厨房のある方を見た。
「我らの慰労は大成功です。そうは思いませんか、ダンテス」
「それは至極当然なことだ。マスターの提案なれば」
 それを聞いて四郎はふっと息を漏らした。
 そして、ねえダンテス、と語りかける代わりに、ひとつ人間らしい食事を見せている男の名をふと呼んでみたくなって、四郎はその微細な執心をひそかにあざ笑いながら、「エドモン」と語りかけた。
 なんだ。と男はあらぬ返事をさらりと送り、四郎を見てふいに彼よりもずっと年下の青年のように片笑みつ、ミルクティーの最後の一滴を飲み干した。四郎は自分のカップに浮かんだホイップクリームをスプーンで押しつぶして言った。
「この後の予定ですが」
「マスターの呼び立てもない、めずらしく気が早いように思うがな」
「もちろんグリルサンドイッチとプリンは平らげますとも」
 そうではなく、と四郎はちょっと言い淀んで、けれども辺りを見回せば白い無機質な壁も床もなく、まだ高い陽の地面をあたためるかがやきがそこらじゅうに光っていたので、ミルクティーを口にするふりをしながら顔を覆い隠して、
「どうです、この後。散策でも」
「……そういった無駄らしいことは好まぬと思っていた」
「私もです」
 それを聞いて男は思案げに眉をひそめたが、その実薄い唇が、じっと見ねばわからないほどではあったけれども、笑みを滲ませているのに四郎が気づかないはずもなかった。
 四郎は地図を取りだした。指は開かれた地図の小径を辿り、そのまま奥まってこっそりとした建物を示した。
 それを見た男はきっと呵々大笑でもするだろうと、四郎は思っていたが、しかし男の笑い声はいつまでたっても降ってこず、四郎がそっと顔を上げると、長い睫毛のふせられてきらきらとするさまが穏やかに四郎を見下ろしていた。
「構うものか。マリアを見上げ、慈愛に指を組む人の姿を俺は笑わん」
 それは寛大な微笑であるように思われた。四郎はシャツの下でおずおずと揺れている十字をひそと押さえた。
「――ありがとうございます」
 そして、四郎はもうひとつ指さして、
「ところで、このリビスコという店のジェラートはたいへん美味だそうですよ」
と言った。
 男はついに声を上げて笑い、それはモーツァルトの旋律に溶けゆきて、つられる四郎の胸元で十字が跳ねた。

 二人は漂ってきたパンの焼けるにおいに目をやり、それから自分たちが食べ歩きなどと高等なことをするのだと感興に思いを馳せた。そして、四郎は名残惜しそうに、いつまでもホイップクリームを突っついていた。