25

 ソフィアは逃げたかった。恐怖ではない、否そうなのかもしれない感情がグルグルと体内を廻る。思考も感覚もすべてが自分のものでない錯覚を抱いた。逃げなくては。
 反射でも本能でもないナニかがそう告げた。この場に留まってはいけない、一刻も早く、遠くへ、離れなくては。
それは命令か洗脳か。目前に立つ少年は害のない笑みで彼女を見下ろしていた。
 害を、亡くした笑み。わかっている筈なのに反応を拒んでしまう。どうすべきか、なんて馬鹿げた問いだった。

 「誰かを、探してるみたいだったね」
 「……うん…」

 辛うじて出た声は酷く掠れていた。砂漠に置き去りにされたが如く喉が渇いた。張り付きそうなソレが僅かに震える。
 不安緊張寂寥焦燥――……今までには感じなかった気配。見た経験のない彼の様子は酷く穏やかで。

 「――誰を、追いかけていたの?」

 問い掛ける声に喉を掴まれた気分になった。呼吸するにも苦労が絶えない――ソフィアは僅かに顔をしかめた。
 筋肉が痛いくらいに固まってしまったようだった。自分は今どんな表情をしているのだろう?
 それすらもわからない。

 「と…友達…。大広間から、出た気が…して…」
 「あの赤毛の女の子?」
 「…そう――」

 言いかけて言葉に詰まった。どうして、彼は知っているのだろうか?アクアマリンの目を見開き相手を見つめたが彼の表情は変わらない。優しい、微笑み。その表面に刻まれた言葉の意味をソフィアは知らない。

 「さっき凄い勢いでここを走っていたよ」

 どうして、

 「相当焦ってた」

 どうして、そう言える?

 「本当は話そうと思っていたのに、邪魔が入ってさ」

 どうして、詳細を知っている?

 「限界だったんだ」
 
 どうして――自分のことのように語るの?

 ソフィアは口を動かすも、言葉を発することもできなかった。何を告げていいのか、わからない。
 聞きたいことが沢山ある。しかし、そのどれも今ここでは聞くに値しないものだった。今ここで問うべきこと。

 「もう時間もないしなぁ」
 「どうして……」

 その続きは言えなかった。
 しかし彼は表情を愉快なものに変え、ソフィアを見下ろす。

 「君は頭の回転が早くて助かるよ」
 「――ッ」

 突然、表情だけでなく声音までも変えた彼にソフィアは驚いて肩を震わせた。離れていた筈の距離も今はない。見下ろす彼はとても近かった。愉快げに上げられた口端がソフィアの視界に入っている。

 「連れて行ってあげるよ、彼女の所まで」

 そう言って彼はソフィアに手を差し伸べた。少年と青年の間に立つ者の年齢の男子らしくスラリと伸びた手だった。骨ばった、しかし荒れの少ないもの。

 「知って、いる…の…?」
 「勿論」

 嘘ではない。そう直感した。しかし信用はできないでいる。ソフィアは暫し躊躇した。この手を取れば、ジニーには間違いなく会えるだろう――でもその後は?
 厳重警戒域のホグワーツで生徒のみの単独行動は危険しか招かない。ましてや目の前の人物についてもソフィアは知らないでいるのだ。

 「行かないの?」

 彼の声が彼女に揺さぶりをかけた。こうしている間にもジニーは危険な目に遭っているかもしれない。先程の彼女は、明らかに何かを恐れ、危機が近いのを知っていた風だった。

 「……手遅れになるかもよ?」
 「!」

 示唆――これは警報だ。ソフィアはまっすぐ彼を見つめた。無意識にゴクリと息を呑み、そして目の前の手をとった。彼はいっそう笑みを深いものにする。重なった手を握りソフィアを先導しだした。

 「こっちだよ」

 触れた手は酷く冷たかった。見た目はそうでもないのに、実際は痛いくらい握りしめられ、彼の見えない所でソフィアは眉を寄せる。伸ばされた手を取ってしまった。
 それは―――狼に捕らえられた赤ずきんのようだった。

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