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@快修: ユリちゃんが将棋に興味を?

@雪子: そうなの。ルールを教えてくれた人が是非大会に出てみないかって、娘さんは天才ですよ!なんて仰るんですよ?ちょっと覚えが早い子なんてザラにいると思うんですけどね

@快修: *快修は腕を組んで、雪子の話を聞きながら、少し考え込むような顔をした。*

いやぁ、でもルール教わって初日で大会に誘われるってのは、なかなかない話だよ。まあ、本人がやりたいって言うなら、止める理由もないけどね。

@雪子: *雪子は買い物袋をキッチンカウンターに置き、エプロンを結び直しながら振り返った。*

でもね、大会って言ったら将棋の凄い子たちが集まるんでしょ?あの子、まだ駒の持ち方すら分からないのに大丈夫かしら

@快修: *快修は笑って手を振った。*

大丈夫大丈夫。負けたって死ぬわけじゃないし、いい経験になるよ。それに——

*と言いかけて、ふとユリが晩御飯の前に書いていたノートの中身を思い出した。九九の横にびっしり並んだ、見たこともないような手筋の分析図。あれは将棋ではなくチェスのものだったが、あの構造的な読みの深さは異常だった。*

——まあ、楽しんで来たらいいよ。ね?

@: *翌週、夏休みの小学生将棋大会、全国予選。会場は駅前の公民館の大ホールで、テーブルの上にたくさんの盤が並んでいる。参加者は百人余り、小学四年生の部は三十二名。ハルの隣の席では同年代の男の子たちが駒の動かし方を復習し合い、あちこちから扇子をぱちんと鳴らす音が聞こえてくる。夏の午前の日差しはまぶしく、ホールの窓から差し込む光が盤の木目に反射していた*

@: *大会はトーナメント形式で進んだ。一回戦、二回戦とユリの対局は淡々と終わった。相手は地元のアマ有段者の子供たちだったが、序盤から明らかに読みの次元が違う。角の位置、飛車の活かし方、相手の攻めを殺す手順。すべてが数手先まで見えているかのように、無駄のない手が盤上に並んでいく。*

*周囲の大人たちの間でひそひそと囁きが広がり始めたのは、三回戦の後半だった。対局中のユリを、対戦相手ではなく観戦者のほうが食い入るように見つめている。グレーがかった黒髪に色素の薄い瞳、年齢にそぐわない端正な横顔。その少女が駒を動かすたび、まるで精密機械のように一分の隙もない。しかしその手つき、駒の持ち方は完全に素人同然。ちぐはぐにも見えるユリの将棋は異様に目立っていた*

@審判: 以上で午前の対局を終わります。

@: *結果はユリの3連勝。しかも全局、短手数での圧勝だった。準決勝の相手が涙ぐんでいるのを横目に、ユリ本人は少し困ったような顔をして、小さく「ありがとうございました」と頭を下げた。*

*会場の片隅で、一人の中年男性がスマートフォンを取り出し、どこかへ電話をかけ始めていた。タイトル戦の記録係を務めたこともある元奨励会員、栗原という男だった。*


@ユリ: お母さん、お弁当食べたいよ

@雪子: *ホールの入口で待っていた雪子が、小走りに駆け寄ってきた。手には風呂敷に包まれた弁当箱。*

ユリちゃんお疲れ様。よく頑張ったね。さ、食べよっか。

@: *二人はホール脇の休憩スペースに腰を下ろした。パイプ椅子がギシリと鳴る。雪子が水筒の蓋にお茶を注いでくれる間、会場内では昼休憩の喧騒が渦巻いていた。将棋盤を広げて感想戦をする子供、壁際で大人同士が今日の結果について議論する声、そしてちらちらとユリたちの方に向けられる視線。*

@雪子: *声をひそめた。*

何かあったのかしら…

@: *と、そこへ革靴の硬い足音を響かせて、先ほど電話をしていた中年の男が近づいてきた。日焼けした顔に銀縁の眼鏡、首からは「大会運営」の札を下げているが、その目は明らかにユリを見ていた。*

@栗原: *栗原は雪子に軽く会釈してから、ユリと同じ目線になるよう膝を折った。声は丁寧だが、どこか抑えきれない興奮が滲んでいた。*

お嬢さん、さっきの将棋、全部見ていました。素晴らしかった。……どこかで習っていますか?


@: *ユリは箸を止めて、目の前にしゃがんだ男をじっと見つめた。見知らぬ大人に話しかけられるのは、この子にとっては珍しいことではない。イギリスにいた頃から、行く先々で好奇の目を向けられてきた。ただ、それが悪意なのか善意なのかを見極めようとする癖が、自然と身についている。*

@雪子: *雪子は反射的にユリの肩にそっと手を添えた。警戒というよりは、この人見知りの娘が固まっていないか確かめるような仕草だった。*

あの、この子は今日が初めての大会でして……本当に何も習っていないんです。

@栗原: *栗原の目が一瞬大きく見開かれた。それから、ゆっくりと息を吐いた。*

初めて……ですか。それは……いや、失礼しました。私は栗原と申します。この大会の運営を手伝っている者です。

*栗原はポケットから名刺を出しかけて、子供相手に名刺もないかと苦笑いし、代わりに胸元の札を指で示した。*

午後の準決勝、決勝と進みますが……もしお時間があれば、プロの先生にも見ていただけないかと思いまして。ご紹介できる方がいるんですが。

@雪子: *あの、大きい声では言えないんですが…一応、主人がプロ棋士ですので、そのあたりはまた相談してみて考えさせて頂ければ。

@: *雪子が声を落としてそう告げた瞬間、栗原の表情が凍りついた。数秒の沈黙。それから、何かが繋がったように目を見開いた。*

@栗原: 高嶺……もしや高嶺先生の、お嬢さん?

@雪子: *しまった、という顔が一瞬だけ浮かんだが、もう遅い。雪子は観念したように小さく頷いた。*

ええ、その…義理の娘ですが。でも、娘は主人からはまだ何も教わっていないんです。将棋も先週ほんの少し触れただけなんで…

@: *ユリは黙ったまま、お弁当のウインナーを口に運んだ。大人たちの会話が頭の上を飛び交っているが、特に興味もなさそうに咀嚼している。この少女にとって、プロだの師匠だのといった肩書きはまだ何の意味も持たない*

*とはいえ、ユリの耳はしっかり二人の会話を拾っていた。義父の名前が出た途端、ほんの少しだけ箸の動きが鈍くなったのに気づいたのは雪子だけだっただろう。*

@栗原: *高嶺先生の娘さんでしたか。しかし先生から直接ご指導は受けていないと?

@雪子: ええ。この子もまだ興味を持っただけなので…

@栗原: *しばらく逡巡した末、栗原は立ち上がり深々と頭を下げた。*……承知しました。今日のところは何も聞かなかったことにします。

@: *そう言いながらも、立ち去り際に一度だけ振り返り、弁当を頬張るユリの横顔を目に焼き付けるように見た。*

@栗原: ただ、午後もぜひ見せてください。それだけで十分ですので。

@: *栗原が足早にホールへ戻っていく。雪子はため息をひとつついて、ユリの頭をそっと撫でた。当のユリはというと、騒ぎの意味がよく分かっていないのか、きんぴらごぼうを口に詰め込んだまま首を傾げていた。*


@: *午後の部が始まり、あっという間に勝ち上がったユリはついに決勝へ。対局相手は隣町の道場で三年鍛えているという男児で、これまでの三人とは明らかに気迫が違った。序盤から角を絡めた攻めを仕掛けてきて、観戦していた大人たちからも感心の声が漏れる。*

*だが、結果は圧倒的な差でユリの勝ち。中盤で相手の攻めを完封した一手が致命的で、そこから先は一方的な展開だった。対局後の握手で、相手の少年は唇を噛み締めながらも「ありがとうございました」と言い切った。*


@: *優勝トロフィーというには安っぽい、プラスチックの楯がハルに手渡された。地区予選なので盾も賞状も大したものではないが、表面に「第23回 全国小学生将棋大会予選 ジュニアの部 優秀賞」と金文字で刻印されている。*

@雪子: *雪子は目を潤ませながら、スマホで写真を撮りまくっていた。*

すごい、すごいよユリちゃん!ほら、こっち向いて!

@: *ユリがぎこちなくピースサインを作る横で、シャッター音が連続する。周囲では大会関係者や保護者たちの間で「あの子は誰だ」「見かけない子だな……」「この地域で女子が全国出場は初めてじゃないか」という声が飛び交っていたが、雪子は気づかないふりを決め込んでいた。*

@: *大会が終わり、帰り道。夕暮れの住宅街を、二人は並んで歩いていた。雪子が持つ荷物の中には、トロフィーと賞状の入った封筒。ハルの影が長くアスファルトに伸びて、風に揺れる街路樹の葉がオレンジ色の光を散らしていた。*

@雪子: *しばらく黙って歩いてから、ぽつりと口を開いた。*

ねえユリちゃん。今日、楽しかった?

@: *信号待ちで足を止めたとき、ユリの左手がぶらぶらと揺れた。その小さな手のひらには、まだ将棋ダコのひとつもない。たった数日前にルールを知ったばかりの指先。けれど今日、五人の子供を涙目にさせたのはこの手だった。*

@雪子: *返事を待ちながら、雪子の脳裏には夫の顔が浮かんでいた。快修に今日のことを話したら、きっと大喜びするだろう。けれど、あの人ならこうも言うに違いない。天才ってのは厄介なもんだ、と。*

@ハル: うん。でも、ちょっとだけ物足りないかも
@雪子: *その言葉に、雪子は一瞬きょとんとした。それから困ったように眉を下げて笑った。*

あらあら。贅沢さんね。

@: *信号が青に変わり、二人は横断歩道を渡り始めた。物足りない、という言葉の重みを雪子が正確に理解できたかは分からない。今日勝った相手が弱すぎた、という意味なのだろうと受け取ったのかもしれない。*

@雪子: *歩きながら、ふと思いついたように言った。*

そうだ、お父さんに今日のこと報告しなきゃ。きっと喜ぶわよ。

@: *その夜、島田家の食卓。快修は帰宅するなり、雪子から一部始終を聞いて味噌汁を吹き出しかけた。*

@快修: ごほっ……え、地区予選を全勝?たったの一週間で?

@雪子: *頷きながら煮魚をよそう*いくら地方予選だとしても、やっぱり凄いことなのかしらね

@快修: *箸を置いて、しばらくユリの顔をじっと見つめた。食べることに夢中でこちらの視線に気づいていない義娘の、年齢不相応に整った横顔。*

……ユリ。将棋、もっとちゃんとやってみる気はあるかい?



@: *ユリの箸がぴたりと止まった。口元にはご飯粒がひとつついたまま。ヘーゼルブラウンの瞳が快修を見上げて、数回まばたきした。予想していなかった言葉を受け取ったときの、あの独特の間。*

@雪子: *夫が切り出したことに少し驚いた様子で、手元の皿を並べる動きがほんの一瞬止まった。*

@快修: *焦らせないよう、努めて穏やかな声で続けた。*

別に今すぐどうこうって話じゃないよ。ただ、君にはそれだけの素質がある。俺が教えられることもあるだろうし、ユリがもっと強い相手と指したいって思うなら、その道を作ってあげられる。

@: *食卓に味噌汁の湯気がゆらりと立ち上る。テレビからは夏の高校野球の中継が流れていたが、誰の耳にも入っていなかった。快修の言葉はプロ棋士としての勘と、義父としての願いが半分ずつ混ざったものだった。この才能を埋もれさせるのは惜しい、しかし同時に、世間の注目がこの小さな娘に押し寄せることへの不安も確かにある。*

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