鱗粉を拭う

 探り当てたケースには煙草が一本もなくて思わず舌打ちした。仕方ないのでパッケージを潰してまたポケットにしまう。ポイ捨てをするには心苦しい。この近くに諏訪や唐沢さんあたりがいればお裾分けを望めたけれど、あいにくと姿はない。
 むかしから、どちらかというと年上に見られた。けれど話してみると残念というのが私へついて回る評価だった。だからそれを打ち消したくて、ヤケクソで始めた喫煙だった。全部、過去形。いまの私は決してそんな幼く見られるタイプではない。喫煙を咎めるような家族すらもう、ない。

 最低限の清潔さを追い求めてブルージーンズを身につけて、課題と防衛任務と個人ランク戦。必死だった。がむしゃらな日々が救いだった。けれど、いつのまにか成人してはやくも3年を迎えようとしていて、卒論の準備ばかりですっかりボーダーに顔を出せなくなった。それもまた、がむしゃらな日々だった。変わる景色は車窓から見たセカイと同種のそれになっている、悲観も楽観もない。ただ事実だけが私の踝を抱えている。

 決して推奨されたことではないけれど、破られた窓から避難地域の民家へ足を踏み入れた。なんとなく、ボーダー本部にはよりづらかったのだ。本当にそれだけ。換装していないからケガしたらキツイな、とか位置バレたら面倒だなと思いながら、床に散らばったガラスに注意して部屋を散策する。カレンダーは四年前から変わっていないし、冷蔵庫には小学校の献立表が貼られている。1日、ソフトめん。2日わかめごはん。藁半紙とそれを抑える黄色のマグネットがひどく懐かしく思えた。シンクはすっかり乾いて、コンロ周りなんかは油汚れの上に埃が溜まっていた。そもそも私の家ではない。それでも懐かしい臭いがして、ここは誰かが住んでいた場所だとわかる。例えば、冷蔵庫なんか見ていると、大きな音と小さな子供の足音と一緒にドアが開いて、おかあさん!今日はね!と無邪気な声が聞こえてくる。けれどもここは放棄された家で、一生人は帰ってこない。それほどまでに死の匂いがこびりついていた。
 キッチンから出てフローリングの敷き詰められた廊下へ出る。二階へ続く階段は私の実家と同じ形をしていて、眉間が重くなった。少しだけ迷って、でももう後には引けなくて、私は階段の一段目に足を置く。一度、そうしてしまえばただ単調に、意味をなさないリズムで階段を登る。
 三つある扉のうち、一番西側のドアを選んでドアノブを捻った。湿っぽいにおいがこもっている。大きな窓と壁全体を覆い尽くした本。太宰治、梶井基次郎、カフカフランツ、サンテグジュペリ、宮澤賢治、芥川龍之介。これでもかと並んだ本たちの端っこに、未開封のタバコとライターがあった。ストックだったのかもしれない。手を伸ばす。いつか、タバコの賞味期限というのは味の保証だ、と聞いたことがある。せっかくなので一箱失敬することにした。もちろん、これは窃盗にあたるわけだけれど、きっとそのうち、ボーダーなんてやめてしまうんだからもういいかな。
 ちょうど路地に面した家だったからボーダー隊員が連絡通路を使う様子が見える。グレーや黒の制服を揃いも揃って身につけて、手のひらのトリガーをかざして消えていく。いつのまにか私はすっかり大人の側にカウントされるようになって、いつのまにかその年下に抜かされた。全部、いつのまにか。高校も、大学も青春を全部ボーダーに費やしたのに、今日の私には廃墟で見つけた煙草しかない。どうすれば幸せになれただろう。あの頃の私にとってはボーダーこそが救いで、生きていく道すがらだった。けれど、もうボーダーをやめた方が幸せなのかな。太刀川も二宮も風間も当真もあの頃の私よりもずっと優れたものを持っているし、それ以外の子たちだって私よりも長くボーダーで過ごしているから、決定的な溝は一生埋まらないのだ。
 誰もここにいることを咎めない。気づかないし、トリガーに備わったレーダーがあったところで、今、どうにかなる問題ではない。
 ライターはさすがに硬くなっていて使えなかったから自分のライターを使った。窓を開けるのは億劫だ、このまま死んだっていいし、と何をするわけでもなくぼんやりと窓の外を眺めていた。さて、このあとどうしようか。ボーダーを辞めるためには本部へ入らなければならない。書類を書くなり司令と話をするなり、カウンセリングを受けるなりで忙しくなる。忙しいのはごめんだ。
 この煙草、やけに舌が辛い割には爽快感が皆無。私に似てるな、と紫煙を燻らせて苦笑いを浮かべる。「ばかみたい」そうやって私が口にしたのとひとりがこちらを見たのは同時だった。グレーのブレザーを身についた少年少女が数人。そのなかのひとり。たったひとりだけ、けれど、見間違いようがない。彼は、あの子は世界で替がないほどに大切だから。
 柔らかそうな茶髪と、読めない涼しげな目元。幼馴染の弟。またあの食えないくせに人懐っこい笑みを浮かべてから、集団から逸れた。建物で姿が遮られる。どこに行ったんだろうと視線をあちこちへ巡らせるけれど、澄晴の姿はない。
 幼馴染の弟は、あんなはちゃめちゃな幼馴染の弟か?本当に血が繋がっているのか?と疑問に思うほど立派な処世術を持っていた。私はそんな澄晴のことを買っていて、なんだかんだで受験の際にはちょっと面倒をみた。要らないくらいに優秀で腹だけが立ったものだけれど。澄晴になまえさん、と呼ばれると私は弱くてなんでもしてあげたくなってしまう。その後にいつも「変な男に引っ掛かりそうだよねえ」という。ほっとけ。
 バイブレーションとともに澄晴が顔を出す。携帯を取り出せば、ハル、とだけ表記されていた。ボーダーの人に見られたら恥ずかしいから変えた、私だけが持っている名前。

「……もしもし、どうしたの澄晴?オトモダチは大切にしなくちゃダメでしょうに」
『どうしたのはコッチのセリフだと思うんだけどな〜。とはいえ、なまえさん、そんなとこで何やってるの?放棄されたとはいえ他人の家でしょ?』
「まあ、ヤニ切れが激しくてついうっかり」
『なんかあったんだ?』

 言葉足らずな私の言葉でもすぐに察するところはすごいと思う。でも年下はせいぜい年相応に振る舞っておいてほしい。特に今日はこころがささくれたっているのだから。

「いま澄晴とすっごくキスしたいわ……」
『唐突なセクハラ。随分とお疲れだね。そんなアングラなところやめてこっちまでおいでよ』
「見事にスルーかましやがって。そういうところ澄晴はかわいくないよね!小さい頃はずっとなまえちゃん、なまえちゃんってついて回ってたくせに」
『それは言わない約束じゃん』
「してないわよ、ちょいちょい記憶捏造してくるのやめて」

 あはは!電話口から澄晴の笑い声がして肩から力が抜けた。ふと左の手のひらをみれば、四つ半月型の跡がついている。部屋の真ん中に置いてあった灰皿に、頭の先だけ赤くした煙草を擦り付けた。ちゃんと灰になったことを確認してから扉を閉める。揺れた空気のなか、ふわりと父の香りが通り過ぎた。振り返る。何もない。そもそもここは私の家ではないから、錯覚に決まっている、わかっている。けれど、とっくに消えたと思っていた家族の残り香は、私の肺に色をつけた。

「なまえさん、不法侵入はもうしたらまずいから」
「……ねえ澄晴、訴えられることを覚悟で尋ねるけどキスしてもいい?」
「ありゃま、これは重症だ」
「賞味期限切れの煙草、舌やばい。すごく辛い、道連れにしてやる」

 澄晴の首に手をかける。

「道連れは久しぶりだね、ランク戦以来?」

 ヘラヘラと笑う緊張感のなさに少しだけうんざりする。理由が理由だしロマンチック、少女漫画的になるわけはないんだけれど。

「2年ぐらい前に澄晴にスコーピオンで心臓刺されたの夢にみるの」
「夢に出たおれは格好良かった?」
「ん〜、顔にヒビ入ってたし虹彩は死んでたしで、決して男前じゃなかったわね。どっちかというと、ゾンビ?でもあんな風に死ねたらいいかも」
「なまえさんさあ、煽るの下手だよね。素直になればいいのに」
「年下に説教される日が来るとは……。いやでも他でもない澄晴だし仕方ないのかなあ。澄晴のことは大切だからさ、キスはやっぱ要らない」

 私の手のひらからどくんどくん、と澄晴の脈拍が伝わってくる。舌は相変わらず辛いまま、きっと澄晴は私とキスなんてしはしない、永遠に。なぜなら私たちは幼馴染の弟と姉の幼馴染でしかないから。澄晴の色のない、けれど生きている唇が弧を描く。ボーダーをやめてもやめなくても私たちの関係は清算されないことを、私は知っている。煙草の匂いのように煩わしくて、賞味期限が切れた辛さとは世界でいちばん遠く。手のひらを首から剥がす。

「なまえさんて本当にロクでもない男に引っかかるよね」

 死に方の美学なんてもの、澄晴にでも渡してしまえばいいのだ。失ったものに気づかないようにするには、ボーダーにいるしかないのだと思っていた。でもきっとそんなことはない。大切なものは確かにこの世にあった、あちこちに転がってはいたけれど。見て見ぬふりをやめればきっと私は幸せになれるわ。